2020/12/17
お城EXPO 2020 徹底ガイド&レポート お城EXPO 2020⑧ テーマ展示「城郭の役割―実用と表象―」徹底解説!【第2回】
全国のお城好きが毎年楽しみにしている年末恒例のお城イベント「お城EXPO 2020」。12月19日(土)・20日(日)の開催直前ではありますが、貴重な展示の数々を鑑賞できるテーマ展示「城郭の役割―実用と表象―」の注目ポイントを解説します。第2回は、北条氏と武田氏が激しく対立していた戦国期から江戸期への時代の移り変わりを通して、津久井城の歴史と役割を紹介します。
はじめに
前回は、津久井城城絵図が描かれた背景として、甲州流軍学を学ぶ一環であった点、甲州流軍学が実学としての側面があった点について解説しました。今回は、津久井城と戦国期の津久井の歴史や伝承を紹介し、続いて江戸時代の津久井城の表象としての役割を紹介します。
1. 境目の地奥三保から津久井へ
津久井城址は、神奈川県相模原市緑区根小屋の津久井湖(城山ダム)の南側の城山に一帯にあります。津久井城が築城された時代については、江戸幕府が天保12年(1841)に相模国の地誌を編纂した『新編相模国風土記稿』には「鎌倉将軍ノ頃、筑井太郎次郎義胤、始テ一城ヲ築テ是地ニ居レリ」と、鎌倉時代に筑井義胤(つくいよしたね)によって築城されたと記されています。鎌倉時代に三浦氏一族に津久井氏は存在しますが、彼らの拠点は現在の神奈川県三浦市津久井が拠点であったと考えられます。
康暦2(天授6)年(1380)から文明11年(1479)途中までの関東地方について記した、戦国時代初期に成立したと考えられる『鎌倉大草紙』という軍記物があります。その中に、文明10年(1478)に関東管領山内上杉氏の重臣である長尾景春が起こした反乱を太田道灌が相模国で鎮圧するという記事に
「相州磯部ノ城モ小沢ノ城モ自落ス、敵ノ残党奥三保ト云所ニ楯コモル、太田道灌村山ニ陣ヲ取、舎弟図書助同六郎大将トシテ奥三保ヘ馳向フ、敵本間遠江守、海老名左エ門、甲斐國鶴瀬住人加藤其他彼國境ノ兵トモ相催シ(後略)」
と、敗れた長尾景春方の残党が奥三保に立てこもり、太田道灌(おおたどうかん)の弟が奥三保へ向かい、敵方の本間遠江守・海老名左衛門・甲斐國鶴瀬住人加藤と相模国と甲斐国の国境の兵とも戦ったと記されています。このことから、相模国と甲斐国の国境付近を奥三保と呼ばれていたことが分かります。そして、鎌倉時代末の元享元年(1323)に作られた『北条貞時十三年供養記』に、「相模国奥三保屋形山」と「鳥屋山」から鎌倉円覚寺の法堂を建てる用材を採ったことが記されており、鎌倉時代末期には奥三保と呼ばれていました。
史料上で津久井城の存在が確認できるのは、戦国時代の永正7年(1510)に、関東管領上杉顕定が家臣の長尾景長に充てた書状に次のように出てきます。
一,相背伊玄・帯刀左衛門尉・吉田〔里〕一類,津久井山ニ移候、宗瑞一味候哉、
(『歴代古案 三』)
伊玄(長尾景春)と長尾帯刀左衛門尉、吉里一類が津久井山に移った、宗瑞(そうずい。北条早雲)の味方になったか、とあり、何らかの拠点が津久井山にあったと伺える記述があります。
これに関連して『勝山記』(『妙法寺記』)永正8年条には「此年長尾伊賢〔玄〕此郡を武州へ通り威勢をとらる〃也」とあり、長尾景春が都留郡から武蔵国へ向かったと書かれています。都留郡は『鎌倉大草紙』に出てくる「甲斐国鶴瀬住人加藤」こと、甲斐国都留郡の国衆加藤氏の拠点であることから、長尾景春が津久井に拠点を移した要素として、相模国奥三保で軍事行動が行い得る勢力である加藤氏の存在も想定されます。
2. 津久井における北条氏と武田氏の争い
津久井城のある奥三保は相模国と甲斐国の境目にあったため、地域情勢が不安定でありました。武田氏と北条氏の間でも度々軍事的衝突がありました。甲斐国東部の都留郡の年代記である『勝山記』(『妙法寺記』)には、この地域の北条氏と武田氏の争いについての記述が複数あります。
大永4年(1523)条には
「此年正月より陣立初而、二月十一日国中勢一萬八千人立て猿橋御陣に而日々に御動奥三方〔保〕へ動箭軍あり、此時分乗〔憲〕房は八十里御陣寄と承り申し候、此年万事共有之小猿橋と云處に而、度々の合戦あり、」
と、武田信虎の軍勢が関東管領上杉憲房支援のため、1万8000の軍勢を猿橋(現・山梨県大月市)から奥三保へ進軍し、小猿橋という場所で度々合戦があったと記されています。翌年には「此年武田殿と新九郎殿と合戦ひまなし(中略)未津久井城不落」と武田方と北条方との合戦が頻繁に起こり、津久井城は未だ落ちないと記されています。享禄2年(1530)正月には、武田氏の有力国衆である小山田信有(おやまだのぶあり)の所領である都留郡に北条方の軍勢が侵入し、4月には「卯月廿三日八坪坂にて越中殿〔小山田信有〕と氏綱合戦あり打負て吉田衆致打死候」と北条氏綱と小山田信有の合戦があり、小山田信有が敗れ、小山田配下の吉田衆が討死したとあります。
武田方も、天文5年(1536)10月に「相模の青根のからをちらし被食候、足弱を百人計御取候、蓮眞坊寺焼被申候」と甲斐国から道志道沿いに相模国に入り、青根郷(現・神奈川県相模原市青根)の足弱(老人・子供・女性)100人を略奪し、蓮眞坊寺を燃やしたとあります。このように、天文23年(1554)に甲相駿三国同盟が締結される前は武田氏と北条氏の間での軍事的緊張が断続的に続いていた点が確認できます。
北条と武田の軍事的緊張は遺構の面からも確認できます。津久井城の約4㎞西方の相模川と道志川の合流地点には又野城山烽火台が、そこから約4km西方の相模川上流には間山城峰烽火台、さらに4.5㎞北に甲州街道の小仏峠を見下ろす位置に景信山烽火台、景信山から東に3.5㎞に八王子城があるなど、津久井城と八王子城を結ぶ烽火台ネットワークの存在が確認でき、津久井往還や道志川沿いの道志道沿いに烽火台や城砦の遺構が存在します。津久井城は国境の防衛拠点であったと推測されます。
3. 津久井城主内藤氏の出現と甲斐国国衆加藤氏
さて、このような、相模国と甲斐国の境目の地ある津久井城の城主であった内藤氏は、大和入道・朝行・康行・綱秀・直行の5代が知られています。彼らが津久井城を拠点とする国衆となった過程については詳しいことは分かっていません。扇谷上杉氏の重臣であったと推測されますが、武田氏の関係者であったとする意見もあります。内藤氏と津久井との関係が分かる最古の史料、大永4年(1523)12月9日付け「内藤大和入道寄進状」では、現在の相模原市緑区青山にある光明寺に菜園を寄進していることから、この地域を支配していたことが分かります。そして、『快元僧都記』の天文2年(1533)2月9日条には、北条氏綱が鶴岡八幡宮の修繕への奉加を求めた際に「内藤又御家風ニ参上ス」と参上したものの、内藤左近将監(朝行)が山内上杉氏の家臣である三田弾正(綱秀)らと共に「此等者領掌無之」とあり、奉加を承諾しなかったことが確認できます。
この地域の支配関係が複雑であったことが、永禄2年(1559)の奥付を持つ「小田原衆所領役帳」から見て取れます。この史料は北条氏の一族や家臣の知行地と知行高が記されており、彼らの所領役(軍役・普請役・出銭(費用の拠出))の基準となる台帳です。この中には、津久井城主内藤左近将監を筆頭とする津久井衆の項目があります。内藤氏は遅くともこの段階までには北条氏の家臣であったことが分かります。津久井衆の項目には、吉野村・沢井村・小渕之村では「敵地行半所務」、日連之村・那倉之村も「是モ半所務」とあります。半所務とは、半手とも呼ばれており、年貢を半分ずつ別の領主に納めることです。これらの村は甲斐国との国境付近、現在の相模湖上流部に位置しており、北条氏と武田氏の両方に年貢を納めていました。
これらの村々の至近距離には、『鎌倉大草紙』の「甲斐国鶴瀬住人加藤」とも関連が深い武田氏家臣の国衆加藤氏の本拠地である、甲斐国都留郡上野原(現・山梨県上野原市)があります。半所務の村は加藤氏の影響が強かったと推測されます。
加藤氏の様子については次の2点の書状から伺えます。上杉憲政・長尾景虎(上杉謙信)連合軍による永禄3年(1560)から同4年にかけての関東進攻に関連して、大石(北条)氏照が加藤駿河守(虎景)に発給した3月3日付の書状には
「仍敵中筋江相動、号当麻□□取候、兼日如被仰合候、甲府御加勢、早々千喜良口へ被引出可給候、為其信玄江も以書状□候、御稼憑入存候、」
と、上杉憲政(うえすぎのりまさ)・長尾景虎(ながおかげとら)方の軍勢が相模国中筋(中郡か。現、神奈川県伊勢原市・平塚市・秦野市一帯)に進出しており、すぐにでも戦が始まりそうな状況であるため、加藤虎景へ千木良(現、神奈川県相模原市緑区千木良)への出兵を要請し、武田信玄へも書状を遣わしているとあります。
年未詳(永禄4年(1561)ヵ)7月10日付で武田信玄が加藤虎景の息子である加藤丹後(たんご。景忠)に宛てた書状の写しが残されています。そこには、武田信玄が加賀国と越中国の一向宗門徒が越後へ乱入するのに乗じて越後へ入ることを述べた後に次のように書かれています。
一、敵三田之内築新地之由候、然者氏康由井在陣、敵味方之間停三十里候様聞届候処、無行徒在陣如何様之備候哉、幸其方滞留之条、風聞之分可有注進候、一、其方于今由井在陣、如何様之仕合候哉不審候、条々以飛脚可被申越候、恐々謹言
これは、同年閏3月に関東管領に就任し長尾景虎から改名した上杉政虎(上杉謙信)に味方する武蔵国多摩郡杣保(そまのほ。現・東京都青梅市)三田綱秀を討つため由井城(現・東京都八王子市下恩方町)に北条氏康と共に在陣している加藤景忠に対して、三田綱秀領内の新地(新しい砦)に関する情報の報告や、加藤景忠が由井に参陣している経緯について不審な点があるので、まとめた上で飛脚を遣わすことを求めています。新地が具体的にどこを指すかは不明ですが、この頃三田綱秀は居城を勝沼城(現・東京都青梅市東青梅)から山間部に入った辛垣城(からかいじょう。現・東京都青梅市成木)に移しており、それに関連している可能性はあります。
ここで確認したいのは、甲斐国都留郡上野原を拠点とする国衆で武田氏家臣の加藤氏が北条氏から直接援軍要請を受ける立場であり、北条氏領国の相模国津久井や武蔵国南西部において軍事力を持っていた点です。加藤丹後は『甲陽軍鑑』にも度々登場します。
この戦に関連して、同年3月12日付の北条氏康判物には、小田野周定が長尾景虎方の敵15人を討ち取り、これら首を検分のために津久井城に差し出したことが記されており、津久井城が北条方の軍事拠点として機能していたことが伺えます。
4. 三増峠の戦いにまつわる伝承と内藤氏による金の製錬
この後、甲相駿三国同盟が永禄10年(1569)に破棄されると、この地は武田氏と北条氏の間で三増峠の戦いが行われました。この戦いと津久井城の関係については前回の記事に記しましたが、ここで注目したいのは、三増峠の戦いや津久井城について地元に言い伝えが数多く残っている点です。
これらが伝承された理由や背景については分かりませんが、地元で三増峠の合戦が地域の産物や地名の中に遺されています。また、津久井城に関連する地名が現在にも遺されています。代表的なものとして、現在の津久井城址の住所、神奈川県相模原市緑区根小屋があります。根小屋(ねごや)とは城郭の麓にある城主の屋敷を指し、江戸時代を通じて根小屋村と呼ばれていました。また、緑区根小屋1823番地付近の六十面という地名は、武田信玄が60体の藁人形を作って偽装工作を行い、津久井城の兵が騙されて鉄砲を撃ったという伝承もあります。
三増峠の戦い以降、津久井城主内藤氏や北条氏と配下の津久井衆の活動が活発化します。北条氏領国内における津久井城の役割について考古学の面から興味深い成果があります。今年の3月に相模原市立博物館が発行した津久井城跡資料の調査報告書によると、津久井城南西部に位置する御屋敷曲輪出土したかわらけ17点が、金属を溶かす坩堝(るつぼ)に転用されており、そのうち6点に金粒の付着が確認されたと報告があります。つまりは、津久井城で金の製錬が行われていたことを示します。
これに関連して、津久井城最後の城主内藤直行が用いた朱印は、漢字の「金」の字を縦に二つに割り、その間に「寶(たから)」を入れ込んだ、金割字宝朱印でありました。このことからも、津久井城と金の関係が伺えます。
北条氏領国内で金生産の遺構が出土したのは、小田原城(現・神奈川県小田原市)と、金箔装飾の馬鎧や金箔装飾の前立も出土している騎西城(きさいじょう。現・埼玉県加須市)の2か所のみであり、津久井城が3例目となります。そして、道志川の支流、相模原市緑区青根を流れる神之川から砂金が検出されました。また、相模川に面した山間部にあるため材木や炭を小田原城へ調達することが津久井衆に命じられていたことが史料上で確認されるなど、津久井城は北条氏の領国運営を支える物資を供給する拠点としての役割がありました。
天正18年(1590)の小田原合戦に際して、津久井城は徳川家康の家臣である本多忠勝らによって攻められ落城しました。落城後、城主の内藤直行は助左衛門直政と改名し、加賀国前田利長・利常に仕えました。
5. 廃城後の津久井城-祖先顕彰の対象として
江戸時代に津久井城が描かれた背景として、甲州流軍学、とりわけ『甲陽軍鑑』との関係深い点を前回説明しました。津久井城が相模国と甲斐国の境目の地に築かれた山城である点も看過できないものと思われます。甲州流軍学の軍学書『信玄全集末書』城取巻下に「一境目の城、敵攻るには、攻めにくき様に、敵多勢にて若責取りたる時、取かへすには、てまを取らぬ縄張の事」と、境目の城に関する記述があります。そして、同書には山城についても「十六 山城を取べき事并左前の山右前の山の事付水手あふき縄の圖同く行とまりのくるわの事」という項目があり、山城の縄張について図解入りで解説されています。
『信玄全集末書』所収の「本書の山城圖」
これらの軍学書のなかに津久井城に関する記述は見られません。相模国と甲斐国の境目にあり、実際に軍事拠点として用いられた津久井城が、甲州流軍学を学ぶ上で恰好の教材として眼差されていた可能性が垣間見えます。
「相州津久井城絵図」と「津久井城絵図(仮称)」は、右側から飯縄曲輪・太鼓曲輪・本城曲輪の寸法や竪堀の位置、土塁を太線で描くなど、絵図右下の三増峠の有無を除けば、津久井城の縄張りの同じ要素が描いています。
絵図東側の山頂上の曲輪には「飯縄権現 天狗山ト云フ」とありますが、現在でも同じ位置に飯縄権現が祀られている祠が建っています。
「相州津久井古城図」の飯縄権現付近拡大写真
「津久井城絵図(仮称)」の飯縄権現付近の拡大図
津久井城址の飯縄権現堂
江戸時代後期に入ると、津久井城を軍学以外の眼差しで見る人が現れました。現在、絵図左側の曲輪には「築井古城記碑」という石碑が建っています。碑文の文末には、文化13年(1815)に作られたとあります。
築井古城記碑(全体)
石碑上部に「築井古城記碑」と彫られている
この石碑を建てた島崎律直(しまざきただなお)は根小屋村の名主であり、碑文には
「築井古城、相の築井の県宝ヶ峰に在り。宝ヶ峰介立すること百余仞、相水の陰に聳え、上岐れて双丘と為る。東丘に飯縄祠有り、其の西丘を古城と為す。塁壁の址儼として存す。(注:原文は漢文)」
と、築井古城(津久井城)は相模国築井県宝ヶ峰にあり、相模川の陰にそびえ立ち、山頂は分かれて双丘となる。東丘に飯縄祠があり、西丘に古城がある。土塁の後がしっかりと残っていると立地の描写から始まります。
この後は、津久井城主内藤氏歴代の説明が入ります。最後の城主について
「北条氏亡びて景豊終わる所を知る莫し。安部侯正勝、景次の勇武を聞き、延きて幕中に置く(注:原文は漢文)。」
と、内藤景豊は阿部正勝の家臣になったと記されています。先述したように津久井城の最後の城主は内藤直行であり、落城後は前田利長・利常に仕えました。築井古城記碑の内容と、現在の研究成果との間に違いが見受けられます。
続いて、
「初め景豊亡ぶるや、其の臣馬場佐渡・島崎掃部留まりて其の邑に居ること二百余年(注:原文は漢文)」
と、最後の津久井城主内藤景豊の家臣であった島崎掃部は村に留まり、土着して200年余りいることが書かれています。築井古城記碑を建てた目的として
「直の父宗蔵、常々故君の世巳に遠く、其の墟日に圮れ我が子孫の漸く其の由る所を遣れんことを恐るる也。石を故墟に樹てて、以て来世に告げんと欲す。(注:原文は漢文)」
と、律直の父である宗蔵が、祖先である島崎掃部が生きていた時代が遠くなり、人々の記憶が薄れてしまい、子孫に伝わらなくなるのを恐れ、そのために石碑を建てて後世に永く伝えたいと願ったと記されています。
島崎律直は、内藤昌豊に仕えていた祖先掃部や祖先が活躍した舞台である津久井城を顕彰する目的でこの石碑を建立したのです。津久井城を島崎家の祖先や、かつての主君である内藤氏が紡いできた歴史を顕彰し、その表象として津久井城を見出し、本城曲輪に築井古城記碑を建てたのです。
おわりに
2度にわたり、津久井城城絵図を入口として甲州流軍学の教材としての津久井城、津久井地域の歴史や伝承、最後に築井古城記碑から祖先顕彰の表象としての津久井城と、駆け足で紹介しました。お城EXPO2020に来城して現物の絵図を観た時に、頭の片隅に置いて頂けると幸いです。
執筆/山野井健五
1977年生まれ。2009年成城大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学、川口市立文化財センター調査員、目黒区めぐろ歴史資料館研究員、東京情報大学非常勤講師を経て、現在、(株)ムラヤマ、お城EXPO実行委員会。専門は日本中世史。主な業績として「中世後期朽木氏における山林課役について」(歴史学会『史潮』新63号、2008年)、「中世後期朽木氏おける関支配の特質」(谷口貢・鈴木明子編『民俗文化の探究-倉石忠彦先生古希記念論文集』岩田書院、2010年)監修として『学研まんが 日本の古典 まんがで読む 平家物語』(学研教育出版、2015年)、『学研まんがNEW日本の歴史4 武士の世の中へ』(学研プラス、2012年)