都道府県のお城シリーズ 【宮崎県のお城】伊東氏と島津氏の激闘と、九州を代表する戦国大名ゆかりの城

日本100名城・続日本100名城を中心に、各都道府県を代表するお城をご紹介する「都道府県のお城シリーズ」。今回は宮崎県編です。宮崎県は戦国大名の伊東氏と島津氏が争った地。伊東氏が重視した飫肥城(おびじょう)や、伊東氏から島津氏が奪った佐土原城と都於郡城、島津氏と大友氏が激突した高城などを紹介します。

宮崎県にあるお城は?

九州の南東部に位置し、海岸線が南北に約400㎞にもわたってのびる宮崎県。日向灘に近いお城から、南九州に特有のシラス(細粒の軽石や火山灰)の土壌を活かしたお城など、ほかの地域ではなかなか見られない特徴をもつお城が残っています。さらに、伊東氏や島津氏など、鎌倉時代に九州へ移った武士たちが、戦国大名として争いを繰り広げた地でもあります。ほかにも大友氏や秋月氏、有馬氏など、九州を代表する大名にゆかりの深いお城が点在しています。

■樹齢100年を超える飫肥杉で再建された大手門・飫肥城(日南市・日本100名城)

飫肥城

飫肥城(おびじょう)の築城時期は不明ですが、平安時代には政治や経済の中心地だった可能性が高いと考えられています。この地で戦国時代に激しい攻防を繰り広げたのが、戦国大名の伊東氏と島津氏。伊東氏は九州平定に乗り出した豊臣秀吉に味方し、その功績によって飫肥の地を与えられ、関ヶ原の戦い後も所領を存続しました。

江戸時代に伊東祐実が改修した石垣
現在見られる石垣の大半は、貞享3年(1686)から5代藩主・伊東祐実(すけざね)が改修したものです。建物の大半は壊されてしまいましたが、昭和53年(1978)に大手門が再建されました。この時、樹齢100年を超える名産の飫肥杉が使われています。大手門から外に出ると、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている歴史的な城下町が広がっています。この城下町で生まれ育った人物が、明治時代に外務大臣として活躍した小村寿太郎です。

飫肥城の所在地・アクセス・城びとおすすめの楽しみ方
所在地:宮崎県日南市飫肥10
アクセス:JR日南線「飫肥駅」より徒歩約15分
楽しみ方:飫肥城の遺構をめぐった後は、城下町で郷土料理の「おび天」や「厚焼き玉子」を味わいたい。

■「千人殺しの石垣」を持つ延岡城(延岡市・続日本100名城)

延岡城

延岡城は、五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた標高約53mの山丘に築かれました。慶長6~8年(1601~1603)にかけて、徳川家康の家臣・高橋元種によって築城され、当時は県(あがた)城とよばれました。高橋元種は元々、筑前国(福岡県北西部)の名家・秋月氏の出身。豊臣秀吉と戦った秋月種実(たねざね)の次男でしたが、高橋家の養子となり高橋元種と名乗ることになりました。

「千人殺しの石垣」は圧巻
城内には頂上にある天守台のほか、本丸、二の丸、三の丸を配置。二の丸に積み上げられた高さ約19mにもおよぶ「千人殺しの石垣」は迫力満点です。ほかにも、二の丸北西櫓や二階櫓北面の石垣など、築城時(戦国時代末期)や、後に城主となる有馬氏の頃(江戸時代前期)の石垣など、時代が異なる石垣が残っています。

延岡城の所在地・アクセス・城びとおすすめの楽しみ方
所在地:宮崎県延岡市東本小路
アクセス:宮崎交通バス「市役所前」停留所から徒歩約5分
楽しみ方:秋月氏や有馬氏など、九州を代表する戦国大名たちがたどった運命に思いを馳せる。

■伊東四十八城の中心的存在・佐土原城(宮崎市・続日本100名城)

佐土原城

佐土原(さどわら)城は、14世紀末~15世紀初め(南北朝時代~室町時代前半)に築城されたと伝わる山城です。標高約70mの険しい山丘に築かれ、「本丸」「南の城」「松尾丸」を中核としました。中世に佐土原を支配した田島氏が築き、親類の伊東氏が田島氏を追うと佐土原氏と称します。天文6年(1537)に焼失しますが、戦国大名・伊東義祐(よしすけ)が再建し、「伊東四十八城(48の支城による支配体制)」の中心的な存在になっていきます。

薩摩藩を支えた佐土原藩
薩摩の島津氏との争いの中で、島津氏が佐土原城を奪い、島津家久が天正7年(1579)に佐土原城主となります。関ヶ原の戦い後は徳川家康の家臣が支配し、江戸時代が始まると再び島津氏の支族が治めました。薩摩藩の支藩として佐土原藩が成立し、明治維新まで存続。本丸にあった天守は江戸時代初期に取り壊され、大部分の石材が持ち去られてしまった天守台跡が残っています。

佐土原城の所在地・アクセス・城びとおすすめの楽しみ方
所在地:宮崎県宮崎市佐土原町上田島
アクセス:宮崎交通バス「交流センター前」停留所から徒歩約5分
楽しみ方:城跡の遺構を散策した後、居館跡に建つ宮崎市佐土原歴史資料館で、佐土原城の歴史や特徴を学ぶ。

■天正遣欧少年使節のひとり、伊東マンショ誕生の地・都於郡城(西都市)

都於郡城

南北朝時代から戦国時代にかけて、都於郡(とのこおり)城は伊東氏の本拠として栄えました。しかし、戦国時代に伊東氏が島津氏との争いに敗れると、島津氏が支配するようになります。江戸時代初期に島津氏が佐土原藩を成立させると、佐土原城に対する支城としての役割を担ったのが都於郡城です。しかし、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になったと考えられています。

南九州に特有のシラス台地
平地に孤立した、標高約100mのシラス台地を利用して築かれました。「本丸」「二ノ丸」「三ノ丸」「西ノ城」「奥ノ城」の5つの曲輪からなっており、周囲を急峻な断崖と巨大な空堀によって囲んだ堅固なお城です。遠くから眺めると、舟が浮いているような姿をしているため、別名「浮舟城」と呼ばれます。本丸には天正遣欧少年使節のひとり、伊東マンショの銅像が立っています。というのも、都於郡城は伊東マンショの誕生地であるためです。

都於郡城の所在地・アクセス・城びとおすすめの楽しみ方
所在地:宮崎県西都市大字荒武・大字鹿野田
アクセス:宮崎交通バス「宮崎交通西都営業所」停留所で乗り換え。「池の端」停留所から徒歩約10分
楽しみ方:シラス台地を活かした築城術を体感。本丸と二ノ丸を分ける堀切は深さ約10m、幅約20mもの規模があり見ごたえ十分。

■元は約25haもの総面積に11の曲輪があった都城(都城市)

都城

南北朝時代以降、都城地域を治めた北郷(ほんごう)氏の居城・都城(みやこのじょう)。北郷氏は島津氏の一族で、のちに「都城島津氏」と呼ばれます。永和元年(1375)に北郷義久が都城を築城し、元和元年(1615)に一国一城令が出されるまで、約240年間にわたり機能しました。

シラス台地を活かした群郭式城郭
都城は大淀川の西側にあるシラス台地に築かれました。シラス台地の端部を分割し、各曲輪を形成させる「群郭式城郭」とされ、総面積は約25ヘクタールにもおよびました。本丸を中心に、「西城」「中之城」「池之上城」「中尾城」など11の曲輪が展開。現在は本丸を含む6つの曲輪が残り、本丸跡には都城歴史資料館が建っています。都城歴史資料館は、切妻破風を駆使したユニークな外観の建物です。

都城の所在地・アクセス・城びとおすすめの楽しみ方
所在地:宮崎県都城市都島町803
アクセス:JR日豊本線「西都城駅」から徒歩約20分
楽しみ方:シラス台地を活かした築城術を体感し、都城歴史資料館で都城島津氏の歴史を知る。

■秀吉の九州攻めにも大友氏の大軍にも耐えた難攻不落のお城・高城(木城町)

高城

高城は小丸川と切原川に囲まれた、標高約60mの台地上に築かれました。自然地形を活かして7本の竪堀を築き、現在もその遺構が見られます。天正6年(1578)と天正15年(1587)の2度にわたって、大きな合戦(高城川合戦)があった城として名を刻んでいます。

耳川の戦いの激戦地
戦国時代、勢力を拡大する島津氏に日向国(宮崎県)を追われた伊東氏は、豊後国(大分県)の戦国大名・大友氏を頼ります。島津氏に対して兵を挙げた大友氏は、大軍で高城を攻撃しますが、島津軍の山田新介有信を城主とする高城は持ちこたえ、大友軍は敗走してしまいます。この時の戦いは、高城の北約30㎞を流れる耳川にかけて行われたため、「耳川の戦い」としてもよく知られます。その後、天正15年(1587)には豊臣秀長(秀吉の弟)が率いる15万ともいわれる大軍が攻めますが、この時も山田新介有信が率いる高城は落城しませんでした。

高城の所在地・アクセス・城びとおすすめの楽しみ方
所在地:宮崎県児湯郡木城町高城
アクセス:宮崎交通バス木城停留所から徒歩約10分
楽しみ方:戦国時代に2度繰り広げられた高城川合戦の舞台。堀切や高低差に着目し、「難攻不落」といわれた防御性を確かめたい

藪内成基,城びと
執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
国内・海外で1000超の城を訪ね、「城」をテーマに執筆・ガイド。著書『講談社ポケット百科シリーズ 日本の城200』(講談社、2021年)。『小学館版 学習まんが日本の歴史 6~8巻』(小学館、2022年)、『地図で旅する! 日本の名城』(JTBパブリッシング、2020年)などで執筆。日本お城サロン(まいまい京都主催)を運営する。

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