【まとめ】天下分け目の決戦・関ヶ原の戦いはなぜ起きた?どんな合戦だったの?

慶長5年(1600)9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が争った“天下分け目の決戦”関ヶ原の戦い。その戦があったことは知ってるけど、なぜ戦いが起きたのか、そしてどんな戦いが繰り広げられたのかまでは詳しく分からない…。そんな方たちのために、小和田泰経先生が「関ヶ原の戦い」について解説したまとめをご紹介!

豊臣秀吉の死後に起きた激しい権力争い

大坂城惣構
大坂城惣構の遺構

慶長5年(1600)9月15日、美濃国(岐阜県)の関ヶ原で起きた関ヶ原の戦い。その発端は、天下人として君臨していた豊臣秀吉の死まで遡ることになります。慶長3年(1598)5月、病床に臥した秀吉は、息子・秀頼の後見人として認められた大大名の五大老と、豊臣政権の行政実務を担当する五奉行に、秀頼への忠誠を誓約させています。しかし当時の秀頼はわずか6歳。秀吉の死後、権力争いが起きるのは必然の流れ。その中で大きな動きを見せたのが、五大老の徳川家康と五奉行の石田三成でした。

豊臣政権のお目付役でもあった前田利家の病没をきっかけに、政権内の争いは激化。まず、家康が三成に対して政権を安定させるために身を引くよう諭し、それに応じた三成が居城の佐和山城(滋賀県)に蟄居。その後、謀反の疑いがかけられた上杉景勝を討つべく家康が豊臣政権の正規軍を率いて会津へ出陣するや、蟄居していた三成が「秀吉の遺訓に背いて秀頼をないがしろにした家康を討つ」という大義名分を掲げて挙兵したのです。

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数的有利な西軍にとって誤算となった味方の裏切り

関ヶ原の戦い、石田三成の陣
笹尾山に築かれた石田三成の陣

ちょうど上杉氏の領国に入ろうかというタイミングで三成挙兵の知らせを受けた家康は会津攻めを中止。上方に引き返した家康が江戸城(東京都)に戻った頃、三成は家康が上方における拠点としていた伏見城(京都府)を落とし、さらに大垣城(岐阜県)に入って美濃国(岐阜県)を押さえ、家康を迎え撃つ戦略を進めます。そして、江戸から出陣した家康率いる東軍と三成率いる西軍は、各街道の分岐点にあたる交通の要衝・関ヶ原へ移動。9月15日の早朝に合戦の火蓋が切って落とされました。

緒戦は総勢で上回る西軍有利で進みましたが、やがて戦線は膠着。なぜなら、西軍の小早川秀秋や吉川広家は東軍にも通じていたため、三成が総攻撃を促す狼煙を挙げても応じなかったからです。結局、秀秋は東軍としての旗幟を明らかにして大谷吉継の陣を攻撃。西軍は総崩れになり、合戦はわずか1日にして東軍の勝利で終わったのでした。

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まとめ:城びと編集部

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