2019/11/25
超入門! お城セミナー 第81回【歴史】大名が罪を犯すと、お城はどうなるの?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、罪を犯した大名に与えられる罰である「改易」について。今やテレビや映画など、時代劇の定番とも言える「忠臣蔵」のモデルとなった赤穂事件。この赤穂事件は、実は改易が発端となっていました。改易された大名の居城はどうなってしまうのでしょうか?赤穂藩のケースを中心として、改易大名の居城がたどる運命を見ていきましょう。
日本で最も有名な仇討ち「赤穂事件」は、彼らの主君・浅野内匠頭の改易からはじまった(葛飾北斎画『北斎忠臣蔵』より)
大名の改易は家臣の生活も揺るがす大事件
主君や親兄弟が非業の死を遂げた時、無念を晴らすため家臣や子どもが仇を討つ…。涙なしには見られない時代劇の定番ですよね。日本で一番有名な仇(かたき)討ちといえば、「忠臣蔵」のモデルとなった赤穂事件。歌舞伎やドラマ、映画など、様々な作品に翻案され、特にテレビが普及して以降は、年末の風物詩として各チャンネルが争うように「忠臣蔵」のドラマを放映していました。現在、「忠臣蔵」作品は減少傾向にありますが、その人気は根強く、2019年11月には映画『決算!忠臣蔵』が公開されています。
内蔵助ら赤穂の義士たちを祀る大石神社。赤穂城内に座す
今回のテーマは、この赤穂事件の発端となった「武家の取りつぶし=改易」について。大名家が取りつぶされるとはどういうことなのか。また、彼らが住んでいた城はどうなるのかを解説していきましょう。
まずは改易とは何かから。改易とは、法度(法律)違反など、罪を犯した武士や大名から身分を剥奪し、役職や領地を没収する罰のこと。赤穂事件の場合は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が禁制を破って吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかったことが、幕府によって罪とされ、改易処分を受けたのです。ちなみに、武士同士の争いは喧嘩両成敗となるのが通常ですが、この時吉良は処分されていません。これが、後に仇討ちの理由となるのです。
もともと改易は役職交替を指す律令の言葉だったのですが、武士が台頭した中世に懲罰の意味をもつようになりました。江戸幕府は大名を統制するため、この改易を盛んに行いました。関ヶ原の戦いから明治維新までに改易された大名の数は、実に200家以上。半数近くは幕藩体制確立前の家康〜家光時代に行われたもので、六代将軍・家宣以降はほとんど行われなくなります。
赤穂事件の場合は刃傷(にんじょう)沙汰が改易の原因となりましたが、江戸時代の改易理由は他にも様々なものがありました。例えば、関ヶ原の戦いでの寝返りが有名な小早川秀秋は後継ぎがいないまま死去したために改易(=無嗣改易。無嗣断絶とも)。「賤ヶ岳(しずがだけ)の七本槍」の一人・福島正則は、幕府に無断で居城を改修したことが法度違反とされ改易。江戸時代初期は、合戦で徳川家に敗れた大名が多数改易されています(石田三成・豊臣秀頼など)。
正則時代の広島城(広島県)石垣。不自然に途切れているのは、幕府に無断修築をとがめられた正則が石垣を破却させたためと考えられている
吉良に斬りかかった内匠頭は即日切腹を命じられました。しかし、江戸時代全体を見てみると大名に死罪が命じられるケースは意外と少なく、改易された大名の多くは他藩預かり(=流罪)となっています。改易大名で最も重い罰が与えられたのは、島原の乱の原因をつくった島原藩主・松倉勝家。重税を課し、領民に拷問まで行ったことが乱を引き起こしたとして、「武士の情け」である切腹すら許されず、江戸時代の大名で唯一(関ヶ原・大坂の陣を除く)打ち首を命じられています。
島原の乱は、松倉が島原城(長崎県)を築くため税を増やしたことから起こった
改易大名から城を受け取る収城使
それでは、浅野内匠頭の切腹後、その居城である赤穂城(兵庫県)はどうなったのでしょうか。
内匠頭の事件と浅野家改易の報せは、事件から5日後の元禄14年(1701)3月19日に領地の赤穂へ届きました。国家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をはじめとする家臣たちは、主君の死を嘆く暇もなく改易への対応を協議。議論は紛糾しますが、内蔵助の説得により抵抗せず開城することが決まりました。その後、他の家臣たちが城下から去るのを見届けた後、4月19日に収城使を迎えます。
赤穂城は内匠頭の祖父が築いた。そんな城を幕府に明け渡す家臣たちは、さぞ無念だっただろう
収城使とは、改易となった藩の居城を受け取りに来る幕府の使者のこと。次の城主が決まるまで城を預かる役目もあったため、近隣大名が努めることが通例でした。この時、内蔵助が迎えた収城使は、同じ播磨国の龍野藩主・脇坂安照(わきさかやすてる)と備中国の足守藩主・木下㒶定(きのしたきんさだ)。そして、幕府からの上使として旗本の荒木政羽(あらきまさはね)と榊原政殊(さかきばらまさよし)が派遣されています。記録によると、まず上使である荒木と榊原が内蔵助の案内で城内を検分。翌日、脇坂と木下が城に備えられていた武具を接収しました。収城使が城を受け取った4月19日から赤穂城は脇坂に預けられ、新城主の永井直敬が入城する翌年11月まで脇坂家家臣が城代を務めています。
赤穂藩の場合は穏便に城の引き渡しが行われましたが、藩によっては改易に納得せずに領地の明け渡しを拒むケースもあったため、収城使は兵を率いて城へ向かうことが多かったようです。余談ですが、赤穂事件がおこる8年前、浅野家は無嗣断絶となった備中松山藩の収城使を務めています。この収城は、松山藩士たちの抵抗によりかなり難航したそう。武力衝突こそ起きませんでしたが、藩士たちが籠もる城を浅野軍が包囲する事態にまでなったと伝わっています。
真偽は定かではないが、内匠頭とともに収城にあたっていた内蔵助は、単身備中松山城(岡山県)に乗り込み、松山藩士たちの説得を行ったという
改易大名の居城がたどる運命は…?
収城使に預けられた城はその後どうなるのか。江戸時代の城は、領地を治めるために大名が幕府から預かっているものと考えられていました。そのため、赤穂城のように、いったん幕府に城を返した後、新しい大名に引き継がれるのが基本です。
例えば、前述の福島正則と広島城の場合は、無断修築した石垣こそ破壊を命じられましたが、城自体は次の大名である浅野長晟(あさのながあきら。赤穂浅野家の本家筋にあたります)に引き継がれています。
正則と同じく、「賤ヶ岳の七本槍」に数えられる加藤清正。彼の子である忠広も改易を命じられていますが、居城である熊本城(熊本県)は破壊行為を受けることなく後任の細川家に渡されました。いつ幕府の敵になるかわからない外様大名の城ならば壊されてしまいそうなものですが…、江戸時代の大名家と居城は切り離して考えられていたということなのでしょう。
細川家は加藤家から引き継いだ熊本城を改修し、現在の姿に整えた(写真は熊本地震以前に撮影)
一方で、大名の改易と同時に城が取り壊される例もありました。その一つが、若い頃から家康に仕え権勢を振るった大久保忠隣(おおくぼただちか)です。数々の戦で功績をあげ、要地・小田原を任された忠隣ですが、突如謀反の疑いで改易をいいわたされます(政敵である本多正信にはめられたとも)。通常であれば、要衝である小田原城(神奈川県)には、そのまま後任者が充てられるはずなのですが、幕府は小田原城の建物を破壊するように命じています。
忠隣の小田原城よりも手ひどい扱いを受けたのが、賄賂政治で有名な田沼意次です。紀州藩の足軽の子から成り上がり、幕政を左右する老中にまで上り詰めた意次ですが、後ろ盾である十代将軍・家治の死去とともに失脚。新たに老中に就任した松平定信によって改易を命じられます。定信は意次を罰しただけではあき足らず、田沼派の幕閣を粛正。さらに矛先を意次が築いた相良城(静岡県)にも向けたのです。
意次は鉱山や新田開発により幕府財政の健全を図った。賄賂で私腹を肥やした奸臣(かんしん)というイメージが強いが、近年はいち早く貨幣経済の重要性に気づいた人物として再評価が進んでいる(牧之原市史料館蔵)
相良城は、老中に昇格した意次に将軍家治が特例として築城を許した城です。天守の建造も許可され、三重櫓を中心に多数の櫓を備えた見事な城だったといいます。意次が造った城ということが許せなかったのでしょうか、定信はこの相良城の廃城を命じ、天守はもちろん石垣や堀に至るまで徹底的に破却します。大名の居城、それも老中の城がここまで跡形もなく壊されるのは後にも先にも例がありません。相良城の例は、時の権力構造によって大名への賞罰の重さが変わることを示しているといってもいいでしょう。
破却された相良城はほとんど遺構が残っていない。本丸跡に立つ牧之原市史料館には、相良城の絵図や南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)など意次ゆかりの品が収められている(牧之原市史料館提供)
改易は、大名本人だけでなく家臣や城の運命も左右する一大事でした。にも関わらず、その基準は将軍や幕閣の裁量が大きく影響する曖昧なもの。逆に言えば、それぞれの改易を比較していくと、将軍たちの思惑が見えてくるのです。城の歴史を調べる時には、歴代の城主がどのような理由で移り変わっていったのかまで探ってみると、当時の江戸幕府の政治構造や人間関係が見えてくるかもしれませんね。
「超入門!お城セミナー」の他の記事はこちら
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、『図解でわかる 日本の名城』(ぴあ株式会社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。