ウモ&ちえぞー!に聞く城旅のコツ ⑧ 大逆転の舞台・桶狭間古戦場をゆく

夫婦二人で6000近くの城を訪れているウモ&ちえぞーさんが、城めぐりの計画の立て方や山城の歩き方などをレクチャーする「ウモ&ちえぞー!に聞く城旅のコツ」。第8回はちえぞーさんが、戦国屈指のジャイアントキリング・桶狭間の戦いに関わる城跡や史跡のまわり方を紹介します。



夏にオススメ! 古戦場巡り

夏でもお城巡りしたい!でも、山城は厳しいからどこへ行こうか、と悩む人は多いかと思う。そういう時には、古戦場を回るのはいかがだろう。遺構や縄張等を楽しむ山城と違って、地形や距離をつかむことによって合戦を理解できたりするので、夏でも十分楽しめると思う。そこで、今回は「桶狭間の戦い」に関連する史跡やお城巡りのプランを紹介したいと思う。

<桶狭間の戦いとは>
永禄3(1560)年5月、数万の兵を率いて尾張へ侵攻してきた今川義元を、尾張の織田信長が少数の軍勢で討ち取った戦い。駿河・遠江・三河の3国を支配していた今川氏は、この敗戦がきっかけで没落した一方、勝利した織田氏は急速に勢力を拡大していった。

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名古屋市の桶狭間古戦場公園に立つ、織田信長像(写真左)と今川義元像(写真右)。愛知県名古屋市と豊明市にまたがる桶狭間一帯には、戦いに関連する史跡や城跡が多数存在する

<マッピングと回る順番決め>
まずは、どこを回るかマッピングしていこう。城や砦はやっぱり欠かせない。また、桶狭間古戦場や義元本陣と伝わる場所が2か所ずつあるのでどちらも見ておきたい。それ以外に、義元の墓や戦死者を埋葬した塚、義元の首実検を行ったといわれる寺などもある。比較的近距離に集中しているので、興味のあるものは次々にマッピングし、色やマークを識別しやすいように分けておくと良い。

次に車か公共交通機関かにもよるが、ある程度効率よく回れる順番を考えよう。車の場合、今回紹介する場所は市街地が多く駐車場所に苦労することが多いかと思う。また、公共交通機関の場合は歩く時間が長くなるため、こまめに休憩を取ろう。どちらにしても、疲れたら冷房の効いた場所で涼む等の熱中症対策をしっかりし、無理をせず、体調に合わせて回る場所を割愛する、2日以上に分ける等の対応を取りたい。


実際に桶狭間合戦関連の地を巡ろう

最初に今川義元が桶狭間で戦死した前夜に宿泊していたことで有名な沓掛城へ行くことにする。沓掛城は城址公園として整備され、駐車場完備で車だと行きやすい。曲輪や土塁、空堀等の遺構がしっかりしており、特に本丸の空堀は見応えがある。蓬左文庫の古絵図を見ると本丸南虎口の前面に馬出しがあったようだ。桶狭間合戦後は簗田政綱(やなだまさつな)に与えられた。義元の居場所を伝えたことが戦功第一との説がある。沓掛城から西へ約300mの聖應寺にその簗田政綱の墓があるのでこちらも寄ってみよう。

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沓掛城は公園として整備され城址碑(左)が立つ。遺構は、本丸や諏訪曲輪、空堀(右)などが残っている

次は、戦人塚へ。住宅地の中に戦死者約2500人を埋葬供養した塚があり、豊明市の桶狭間古戦場と共に国の史跡に指定されている。

この後は豊明市の桶狭間古戦場伝説地へ行こう。公園になっていて、解説板や「義元戦死の地」碑、義元の墓等がある。また、道路向いにある高徳院には「今川義元公本陣跡」の碑や階段脇に義元墓、墓地に義元重臣・松井宗信(まついむねのぶ)墓がある。高徳院では境内裏手の山上まで行って欲しい。竹林の間の階段を上がり切ると葬儀場と駐車場があるが、先程の公園や境内からは想像がつかない急な高台にびっくりする。こうした地形の変化を感じるのも楽しい。ちなみに、山上の駐車場では毎年6月第一日曜日に桶狭間合戦再現劇が催される。また、古戦場公園のすぐ北側、名鉄中京競馬場前駅の南西のホーム際には「よろいかけの松旧地」の碑がある。

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豊明市の桶狭間古戦場伝説地(左)と今川義元墓(右)。墓石は明治9年(1876)に建てられたものだが、これ以前から旅人などが義元を偲んで線香や花を手向けていたという

さて、ここから名古屋市の桶狭間古戦場へ向かおう。起伏に富んだ地形や距離を知るために、ここから暫くは是非とも歩いて欲しい。徒歩約15分で住宅地内にある「おけはざま山 今川義元本陣跡」碑に至る。名古屋市の桶狭間古戦場公園もすぐ近くで、こちらも解説板や石碑等があり、更にジオラマや信長・義元像もある。

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「おけはざま山 今川義元本陣跡」石碑(左)と桶狭間古戦場公園(右)。古戦場公園には、馬つなぎの松や義元首洗いの泉といった史跡がある

この南方に今川義元の家臣・瀬名氏俊(せなうじとし)陣跡や、義元やその武将の首実験を行った長福寺に石碑や供養塔がある。付近には氏俊が戦勝祈願した桶狭間神明社や、軍議を開いたという戦評の松がある。西方の桶狭間小学校は井伊直盛(いいなおもり)の陣地だった「巻山」といわれ、小学校の西側に解説板がある。また古戦場公園の北方には戦死者を葬った七つ塚があり、この北東約300mに武路釜ヶ谷と信長坂がある。武路釜ヶ谷は現在大学の駐車場となっていて柵の前に解説板がある。この駐車場には往時は池があった。また信長坂は大学の敷地となっているため見学する際は必ず許可を得てからにしよう。ちなみに、この大学のすぐ東側は豊明市側の今川本陣があった高徳院である。信長坂を駆け上がって東へ進めば豊明市側、南へ進めば名古屋市側の桶狭間古戦場となる。

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今川軍先遣隊として偵察や陣の設営を行った瀬名氏俊の陣跡(左)と、義元の首実検を行った長福寺に立つ首検証跡碑(右)

武路釜ヶ谷から北西へ約500mの幕山は井伊直盛が陣を置き、幕山から北へ約300mの有松神社が鎮座する高根山には松井宗信が着陣した。両者とも標高約50mで、高根山からは鳴海城や善照寺砦、中島砦が一望できた。豊明の桶狭間古戦場からこの高根山までは可能な限り歩いて回ろう。5~6km程の行程である。

次は名鉄鳴海駅付近を回る。鳴海城は本丸が城跡公園となっている。南側を見下ろすと急な高台になっているのが分るだろう。この下方は往時入江だったようだ。また公園の東方、道路を隔てた先にある天神社は二の丸で城址碑と解説板がある。更に公園の北方にある東福院山門は鳴海城の廃材を使用しているといわれる。

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鳴海城は桶狭間の戦い後、織田家の重臣・佐久間信盛(さくまのぶもり)に与えられたが、天正年間に廃城となる。遺構はほとんど残っておらず、城址碑と案内板によってわずかに往時が偲ぶことができる

鳴海城は東海道の鳴海宿を眼下に押さえた微高地にあり、海岸線も近かったことから水陸の交通の要衝に位置した。桶狭間合戦は、この鳴海城主だった山口氏が織田方から今川方へ寝返ったことが発端である。既に今川方になっていた沓掛城、大高城に続き、三河との国境地帯となる東尾張が今川に侵略されつつあった。信長はこれを何とか攻略しようと、鳴海城には丹下・善照寺・中島の3砦を、大高城には鷲津、丸根他の砦を築いた。

ところが、永禄3(1560)年5月19日未明、鷲津・丸根の両砦が今川勢に襲撃される。そこで、清須城を出陣した信長は、途中、熱田神宮で先勝祈願し、丹下砦を経て、善照寺砦に入った。ここで丸根・鷲津両砦の陥落を知る。その後、中島砦へ移動。義元本隊が「おけはざま山」にて休息中との情報を得て進軍するが、猛烈なにわか雨に襲われ、武路釜ヶ谷にて待機。雨が上がるやいなや、信長は坂を駆け上がり義元本陣へ突進、義元を討ち取った。桶狭間合戦の際に鳴海城を守備していたのは今川氏の猛将・岡部元信(おかべもとのぶ)で、義元戦死後、雪崩を打つように敗走した今川軍の中で、岡部元信は鳴海城にとどまり、義元首級と引き換えに開城。駿河へ帰る途中、織田方に寝返った刈谷城を攻め落としている。

鳴海城から北へ約550mにある光明寺が丹下砦、東へ約600mの砦公園が善照寺砦である。どちらも急な高台にあり、善照寺砦からは大高城のある南方の眺望が開けている。これに対し、鳴海城から南東へ約600mの中島砦は扇川と手越川の合流点に位置する東海道沿いの平城である。現在民家の敷地になっているが、所有者の御好意で裏側から城址碑が見られる。失礼のないよう注意して見学して欲しい。

次は丸根砦へ行こう。遺構は明瞭ではないが、高台になっていて大高城を監視するのに絶好の場所だと分かる。供養碑や城址碑、解説板があり、丸い縄張であったことが伺える。何となく堀跡と思われる窪みもある。

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丸根砦(左)と鷲津砦(右)は、大高城と鳴海城の連携を断つために築かれた。両砦からは、大高城の様子を監視することができた

桶狭間合戦当日はこの丸根砦と鷲津砦の攻防戦から始まった。丸根砦は若き日の松平元康(徳川家康)に攻められ落城。守将の佐久間大学盛重は討死した。鷲津砦は織田秀敏(おだひでとし)、飯尾定宗(いいおさだむね)らが守備していたが、朝比奈泰朝(あさひなやすとも)に攻められこちらも陥落した。鷲津砦は丸根砦から北へ約600mで、こちらも遺構ははっきりしないが、高台にある公園になっていて城址碑と解説板がある。

最後に大高城を見学しよう。大高城から鷲津砦へは北東へ、丸根砦は東へそれぞれ約800mに位置する。松平元康が今川方の先鋒を務め、大高城へ兵糧を入れたことで有名である。現在城跡公園となっていて、本丸と二の丸を隔てる堀が良好に残っている。北側の入口に城址碑と解説板がある。

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大高城には空堀(左)や本丸などの曲輪が残る。本丸からは丸根砦・鷲津砦を眺めることができ(右)、当時の城兵の気持ちが味わえる

この他に、時間があれば清須城や桶狭間での戦勝の御礼として奉納した信長塀がある熱田神宮へ立ち寄るのも良いだろう。

桶狭間合戦は今川氏と織田氏における国境の争奪戦であり、鳴海城、大高城は抗争の最前線だった。今回紹介した城や砦の中で明瞭に遺構が確認できるのは沓掛城と大高城ぐらいであり、その他は宅地化等によりはっきりしない。とはいえ、地形や位置関係から、なぜそこに築かれたのか等の重要性は良く分かる。また、古戦場周辺も歩くことで、ちょっとした起伏や距離がつかめて往時の様子を想像しやすいかと思う。今回は効率良く回れるような順番で紹介したが、信長の進軍ルートに沿って回るのも楽しいだろう。そして、自分なりの「おけはざま山」を推察してはいかがだろうか。

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執筆・写真/ちえぞー
愛知県出身。Webサイト「ちえぞー!城行こまい」管理人。城めぐりを趣味としており、ウモさんと一緒に年間約500城(再訪含む)をめぐり、これまでに約6000城に訪城している。主な執筆協力に『廃城をゆく』シリーズ、『あやしい天守閣』、『”復元”名城完全ガイド』(いずれもイカロス出版)、『完全詳解 山城ガイド』(学研)など。

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