2023/04/07
理文先生のお城がっこう 歴史編 第53回 秀吉の城5(黄金の茶室)
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。これまで豊臣秀吉が築いた城の特徴について見てきましたが、今回は「黄金の茶室」がテーマです。派手好きとして知られる秀吉は、城の瓦だけでなく、城の中に茶室を造る際にも金を用いました。その目的を、黄金の茶室の構造に注目しながら見ていきましょう。
本能寺(ほんのうじ)の変後、謀反(むほん)を起こした明智光秀(あけちみつひで)を倒(たお)したことで、突然織田信長(おだのぶなが)の政治を引き継(つ)ぐのに最もふさわしい武将(ぶしょう)となった羽柴秀吉(はしばひでよし)ですが、身分も低く、父親や母親も一般(いっぱん)の人でした。信長の後を引き継ぐために、教養ある文化人や、徳の高いと言われる宗教(しゅうきょう)関係者たちと仲良くし、みんなが認(みと)めていることを広めようとしたのです。
その頃(ころ)、「茶の湯」は誰(だれ)もが簡単(かんたん)に開催(かいさい)することは出来ませんでした。信長も、目覚ましい働きをした有力な家臣だけに、開催する許可(きょか)を与(あた)えていたほどです。秀吉は、その茶の湯をコントロールすることで、文化人して認められようとしたのでしょうか、その行きつく先にあったのが「黄金茶室」だったと思われます。今回は、移動式(いどうしき)の茶室と言われる黄金の茶室について考えてみたいと思います。
山里曲輪の誕生
天正10年(1582)、天王山に築(きず)いた山崎城(京都府大山崎町)で、早くも茶会を開催していたことが『天王寺屋会記』(堺(さかい)の豪商(ごうしょう)、天王寺屋津田(つだ)家の宗達(そうたつ)・宗及(そうぎゅう)・宗凡(そうぼん)の三代にわたる茶湯日記)に記録されています。天下統一(とういつ)の拠点(きょてん)とするため築いた大坂城(大阪府大阪市)の本丸のすぐ下に、「山里曲輪(やまざとくるわ)」と呼(よ)ばれる曲輪を設(もう)けたのです。
山里曲輪は、その名の通り千利休(せんのりきゅう)の侘茶(わびちゃ)思想(無駄(むだ)なことを省いて飾(かざ)り気のないすっきりとした気持ちで、質素(しっそ)な生活を送ろうとする気持ちのことです)に基(もと)づいて造(つく)られた山里の景色や気配を表す草庵(そうあん)(草葺(ぶ)きの小さな家のことです)を中心にした庭園だったのです。信長は、岐阜城(岐阜県岐阜市)の山麓(さんろく)に滝(たき)や池を取り入れた巨大(きょだい)庭園を造園しましたが、曲輪すべてを里山にしてしまうという発想はいかにも秀吉らしいと言えるでしょう。以後、肥前名護屋(ひぜんなごや)城(佐賀県唐津市)のような陣城(じんじろ)にも山里曲輪を設けることになります。
天正19年(1591)、朝鮮(ちょうせん)出兵の大本営として、波戸岬(はどみさき)の丘陵(きゅうりょう)(標高約90mほど)を中心に築かれた陣城です。五重天守や御殿(ごてん)が建てられ、周囲約3km内に120カ所ほどの陣屋が置かれました
慶長(けいちょう)3年(1598)の醍醐(だいご)の花見に際(さい)して、秀吉が設計(せっけい)し、その後義演(ぎえん)(醍醐寺第80代座主(ざしゅ))の指導(しどう)のもとで27年間にわたって作庭が進められたと言われている特別史跡(しせき)・特別名勝の三宝院(さんぼういん)庭園です。大坂城の山里曲輪も、このようなイメージだったと思われます
天正12年(1584)正月3日、大坂城では、天守も本丸御殿(ほんまるごてん)も未完成という状況(じょうきょう)にもかかわらず、山里曲輪に茶室が完成しています。完成すると同時に、千利休と津田宗及の2人の茶頭(さどう)(茶事全般(ぜんぱん)をつかさどり指導する人のことです)とともに茶室開きを行った記録が残されています。信長も重用し天下第一の呼び声高い千利休らによる茶の湯を開催することで、こうした文化人も認めた後継者であることを内外に示(しめ)そうとしたのです。
千利休の作と伝えられ、京都・妙喜庵(みょうきあん)に現存(げんぞん)する日本最古の茶室の国宝「待庵(たいあん)」を、六本木ヒルズ・森美術館15周年を記念してものつくり大学が原寸で再現しました(画像提供:ものつくり大学)
正親町天皇臨席の茶会の開催
天正14年(1586)正月、豊臣秀吉が時の天皇、正親町(おおぎまち)天皇に茶を献(けん)じるために、京都御所(ごしょ)内の小御所(こごしょ)に組立式の黄金の茶室を運びこみ、黄金の道具を用いて茶会を行ったという記録があります。実は、この茶室を造る1年前の10月7日、秀吉は正親町天皇臨席の茶会を開催していますが、その時使用した茶道具(水コボシ、柄杓立(ひしゃくたて)など)を金で新調していました。すでにこの段階(だんかい)で、黄金の茶室の構想(こうそう)があったのでしょうか、秀吉の黄金趣味(しゅみ)が見て取れる逸話(いつわ)です。その後、天正15年(1587)の北野大茶会でも黄金の茶室を使用した記録が残されています。
北野大茶会初日の10月1日は、秀吉自慢(じまん)の名物「似たり茄子(なす)(天下の名物の四茄子茶入の一つで、大友宗麟(おおともそうりん)が秀吉に献上したものです)」などを、北野天満宮(てんまんぐう)の拝殿(はいでん)(12畳(じょう)分)を3つに区切った中央に持ち込(こ)んだ黄金の茶室の中に陳列(ちんれつ)し、見物を許(ゆる)しています。また、麩焼(ふや)き煎餅(せんべい)(唐(とう)のお菓子(かし)として空海が製法(せいほう)を伝えたとされる煎餅です)、真盛豆(しんせいまめ)(煎(い)った丹波(たんば)産黒豆に大豆粉を幾重(いくえ)にも重ね、青海苔(あおのり)がかかっているように見える豆菓子です)等の茶菓子が出されたとされています。当日は、先々に行った御触(おふ)れの効果(こうか)もあって、京都だけではなく大坂・堺・奈良からも大勢(おおぜい)の参加者が駆(か)けつけ、総勢(そうぜい)1,000人にも達したと言われます。茶会は、野点(のだて)によって行われました。
当代きっての茶人と言われる千利休・津田宗及・今井宗久の3名を茶頭とし、さらに秀吉を加え、茶席は4カ所が用意されました。来会者は、身分を問わず公平に籤(くじ)引きをし、各席3~5人ずつを4カ所の茶席に招(まね)き入れ、それぞれが名物を用いて茶を供(きょう)したのです。
天正20年(1592)、秀吉は朝鮮出兵のため肥前名護屋に城を築き出陣(しゅつじん)しています。その時、大坂城から黄金の茶室を運ばせ、茶の湯を行ったことが知られています。秀吉は慶長3年(1598)8月に病没しましたが、黄金の茶室は大坂城内に残されたままでした。慶長19年(1614)、大坂冬の陣がはじまり、翌年の夏の陣で大坂城は落城して焼失しています。黄金の茶室もこの時、灰燼(かいじん)に帰したといわれています。
名護屋城山里口の石垣。山里丸(現在の広沢寺(こうたくじ)周辺)は、秀吉が居住(きょじゅう)した所で、御殿・月見櫓(つきみやぐら)・草葺きの櫓門・茶室などの存在が「肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)」から推定されます
黄金の茶室とは
それでは「黄金の茶室」とは、どのような茶室だったのでしょうか。記録を見てみましょう。
博多の商人・神屋宗湛(かみやそうたん)が記した名護屋城での茶会の記録「宗湛日記」によると、大きさは3畳敷(しき)でした。畳(たたみ)は猩々緋(しょうじょうひ)(ヨーロッパから輸入(ゆにゅう)された青みがかかった赤い毛織物(けおりもの)のことです)、縁(えん)は黒地(萌黄(もえぎ)というのもあります)の金襴(きんらん)(金の糸を使って模様(もよう)を織り出した織物のことです)を用い、中込(床(ゆか)の畳)には越前(えちぜん)産の真綿(まわた)が敷かれていました。柱、敷居(しきい)、鴨居(かもい)は延(の)ばした金で包み、壁(かべ)は金箔(きんぱく)を長さ6尺(しゃく)ほど、広さ5寸(すん)ほどずつに延ばして、雁木(がんぎ)(雁の飛行列)の蔀(しとみ)(上から吊(つ)り下げた格子戸(こうしど)。蔀戸(しとみど)ともいいます)作りとしていました。縁の口には4枚(まい)の腰(こし)のある障子(しょうじ)を仕立て、障子の骨(ほね)と腰の板に金箔を押(お)し、骨には赤い紋紗(もんしゃ)(清涼(せいりょう)感に秀(ひい)でた織物のことです)が張りつめられていたのです。
名護屋城での茶会の記録によると、茶室は三畳で、柱や敷居・鴨居や壁、障子の骨・板もすべて金、障子や畳表は、赤が使われていたと伝わっています(画像提供:佐賀県)
茶道具も黄金の台子(だいす)(水指(みずさし)など他の茶道具を置くための棚物(たなもの)の一種です)、皆具(かいぐ)(茶道具一式。風炉(ふろ)・釜(かま)・水指・杓立(しゃくた)て・建水(けんすい)・蓋置(ふたお)きなどのことです)も用意されていたと記録されていますが、1年前に造られたものと同じかどうかは解(わか)りません。これらの記録をもとに、肥前名護屋城博物館(佐賀県唐津市)などで復元され展示されています。大きさは、幅(はば)が2.7mで奥(おく)行き2.55m、高さが2.5mです。
台子、茶道具一式までもがすべて黄金でした(画像提供:佐賀県)
この茶室こそ、黄金太閤(たいこう)と呼ばれた秀吉の黄金趣味を代表するもので、絢爛豪華(けんらんごうか)な桃山(ももやま)文化を代表するものです。利休好みと言われる閑寂(かんじゃく)な侘数寄(わびすき)(簡素(かんそ)な茶の湯)とはまったく対照的な所に位置するものですが、利休が茶の湯の根本とした草庵(そうあん)(粗末(そまつ)な小屋)と呼べる三畳の間は共通しています。何らかの形で、利休が関わっていたのでしょうか。
後に、利休は秀吉と対立し切腹(せっぷく)を命じられることになります。利休の侘茶思想と秀吉の黄金趣味は、誰が見ても対極に位置するとしか思えません。利休が大成させた「侘び茶」とは「わびさび」の精神(さびとは、長い間に汚(よご)れたり、壊(こわ)れたりする変化が生み出す美しさのことで、わびとは、汚れや変化を受け入れて、そこに美しさを見つけようとする心のことです)に基づいたものであり、道具は飾り気のない控(ひか)え目なものを使い、茶室は「侘数寄」と呼ばれる狭(せま)くて最低限の光しか入らない造りを好みました。
一方、秀吉は派手な大茶会を何度も開き、華(はな)やかで目を引く茶の湯を好みました。その行きつく先に「黄金の茶室」を考え付いたのではないでしょうか。この考えは、秀吉の城造りにも表れています。きらびやかで美しい城を、いくつも築くことになります。
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※山里曲輪(やまざとくるわ)
数寄屋風(すきやふう)の建物や、庭・池・茶室などを設けた風雅(ふうが)を楽しむための曲輪のことです。自然の風景を取り入れた場所で、山里のように見えたため、この名があります。
陣城(じんじろ)
戦闘や城攻(せ)めの時に、臨時的(りんじてき)に築かれた簡易な城を呼びます。
※本丸御殿(ほんまるごてん)
本丸に建てられた、藩(はん)の政庁(せいちょう)と城主の居所があった御殿のことです。本丸が狭くて、やむをえず二の丸や三の丸に御殿を建てる場合もありました。太平の世になると、より外郭(がいかく)に近い二の丸御殿や三の丸御殿に政庁機能(きのう)が移(うつ)されていきます。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。