理文先生のお城がっこう 歴史編 第51回 秀吉の城3(大坂城天守の姿)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は前回に続いて「豊臣秀吉が築いた大坂城」についてです。秀吉時代の大坂城天守は大坂の陣で焼け落ち、現在見られるのは昭和時代に建てられた復興天守です。果たして、秀吉時代大坂城天守はどのような姿だったのでしょう? 現存する史料や記録から考えられる、外観や内部の構造を詳しく見ていきましょう。

豊臣(とよとみ)大坂城(大阪府)は大坂夏の陣(じん)によって焼け落ち、その後徳川幕府(ばくふ)による徳川大坂城築城(ちくじょう)に際(さい)し、完全に地中に埋(う)められてしまいました。発掘調査(はっくつちょうさ)もほとんど未実施(みじっし)で、前回見たように「詰(つめ)ノ丸石垣(いしがき)」などほんの少ししか確認(かくにん)されてはいません。シンボルである天守については、外観を伝えるのはわずかな文献(ぶんけん)と屏風(びょうぶ)でしかありません。天守台(てんしゅだい)すら確認されていない「幻(まぼろし)の城」にもかかわらず、多くの人が豊臣秀吉(ひでよし)の城を身近に感じているのは、昭和6年(1931)に「大坂夏の陣図」屏風を参考にして再建された秀吉時代をモデルにした天守閣(かく)があるからでしょうか。

今回は、文献や絵画資料など、記録に残されている秀吉の大坂城天守の姿(すがた)についてまとめてみたいと思います。

豊臣大坂城本丸復元図
「中井家本丸図」から起こした豊臣大坂城の図面です。南西側に馬出状(うまだしじょう)の曲輪(くるわ)が付設していましたが、聚楽第(じゅらくだい)になると完全に独立(どくりつ)した馬出曲輪になっています(豊臣大坂城本丸復元図(仁木宏・家治清真『都市文化研究』vol.22「豊臣時代大坂城指図」(中井家所蔵)をめぐるノート 出典)

記録から見る大坂城天守の規模

残された記録から、秀吉が築(きず)いた天守がどのような姿形(しけい)をしていたのかを考えて見たいと思います。天守台の大きさについては、前回紹介(しょうかい)した「中井家本丸図」から、東西12間×南北11間(1間=約2.0m)の平面規模(きぼ)がほぼ確実(かくじつ)です。この規模は、現存する姫路(ひめじ)(兵庫県姫路市)天守とほぼ同じ大きさになります。天守台は、それより大きく北側から東側にかけて幅(はば)3間の武者走(むしゃばし)(空白地)があり、その内側に高さ5尺(しゃく)(約1.5m)の石垣を築き、その上が天守1階になります。入口は南東隅(すみ)に付設する付櫓(つけやぐら)から天守1階に、本丸御殿(ほんまるごてん)側に設(もう)けられた入口から地階に入ることが出来る構造(こうぞう)だったのです。本丸御殿の建つ地上面からの天守台の高さは4間(約8m)でした。

姫路城大天守
姫路城大天守は5重6階・地下1階で高さ31.49m、石垣高14.85m、1階の平面規模は、約26m×20mとほぼ豊臣大坂城と同程度(ていど)の規模になります

天守の階数は、『天正記(てんしょうき)』が7階、『フロイス日本史』『兼見卿記(かねみきょうき)』「吉川経安(きっかわつねやす)消息」が8階、「大友宗麟(おおともそうりん)の見聞記(けんぶんき)『土佐物語』では9階と記録されています。大友宗麟の「1階の下に上下2階の蔵(くら)があった」との記録と、天守台が本丸地表面から約8mの高さを持っていたことを考えると、地下は2階あったと考えるのが妥当(だとう)ではないでしょうか。

外観については、「大坂夏の陣図屏風」「大坂冬の陣図屏風」「大坂城図屏風」「豊臣期大坂図屏風」のいずれもが5階建てとしているため、外観5重であったと思われます。問題は内部で、資料(しりょう)により若干(じゃっかん)の違(ちが)いが見られます。

秀吉の天守は、旧式の望楼型(ぼうろうがた)天守(1階建てや2階建ての入母屋造(いりもやづくり)の建物の上に、望楼を載(の)せた形式)であることは間違いありません。従(したが)って、屋根裏階(やねうらかい)が存在(そんざい)することになります。安土城(滋賀県近江八幡市)は4階が屋根裏階に当たります。大坂城も大入母屋(おおいりもや)部分に屋根裏階があったはずです。外観が5階ですので、内部は6階以上であったとして間違いありません。

最上階の廻縁(まわりえん)の下に、屋根の低い部屋があった可能性(かのうせい)もあります。フロイスは、低い(けた)(柱の上に、棟木(むなぎ)と平行方向に横に渡(わた)して、建物の上からの荷重を支(ささ)える部材のことです)のある部屋が複数(ふくすう)あったと記録していますので、7階あるいは8階というのも誇張(こちょう)ではなかったことになります。従って、大坂城天守は、5重7階(8階)地下2階の構造だった可能性がかなり高いことになります。

松本城天守屋根裏階
松本城天守屋根裏階。天守2階の屋根裏に設けられているので窓(まど)はまったくありません。明かりは南側の千鳥破風(ちどりはふ)の木連格子(きづれごうし)からわずかに入るだけです。そのため当時は「暗闇重(くらやみじゅう)」と呼(よ)ばれていました。普段(ふだん)は倉庫として使われていたと思われます

秀吉天守の外観

天守の外観の形や色・模様(もよう)など、どのような装飾(そうしょく)で飾(かざ)られていたのでしょう。残された屏風等で見てみたいと思います。「豊臣期大坂図屏風」以外の3点はいずれも漆黒(しっこく)の外観で、同時期に築かれた岡山城(岡山県岡山市)天守や広島(広島県広島市)天守も下見板張(したみいたば)りの黒い天守でした。これらの状況(じょうきょう)からも、漆黒の天守であったとするのが妥当だと思われます。漆黒の壁面は安土城同様の高級な黒漆塗(くろうるしぬり)が想定されます。

岡山城
豊臣秀吉から一門衆(しゅう)の扱いを受けた宇喜多秀家(うきたひでいえ)が秀吉の指導を受けて築城し、8年の歳月を費やして建造され慶長2年(1597)に完成したのが岡山城で、漆黒の姿をしています。

広島城天守絵葉書
戦災(せんさい前の広島城天守絵葉書。天正20年(1592)に肥前名護屋(ひぜんなごや)に向かう秀吉が広島に立ち寄り城を見た時は未完成で、翌文禄(ぶんろく2年(1593)に石垣が完成、慶長(けいちょう4年(1599)に落成したとする記録が残されています。天守は下見板張りの漆黒の姿をしていました

「大坂夏の陣図屏風」では、最上階に鶴(つる、その下階に虎(とらが金箔押(きんぱくおしで描(えがかれています。「大坂城図屏風」は、1階外壁に菊紋(きくもんと桐紋(きりもん、2階が牡丹唐草(ぼたんからくさ)、3階が菊紋と桐紋、5階に巴文(ともえもん、最上階は廻縁の上が菊紋と桐紋、下に牡丹唐草が描かれる極(きわめて派手な姿となっています。このような巨大な菊紋と桐紋が採用された門が現存(げんぞんしています。それは、秀吉が建てた醍醐寺(だいごじ)三宝院(さんぽういん)唐門(からもん)で、扉(とびらに巨大(きょだいな桐紋と菊紋の浮(うき彫(ぼりが取り付けられています。現在(げんざいの鉄筋(てっきんコンクリートの大阪城は、「大坂夏の陣図屏風」を参考にしたため、最上階に鶴、その下階に虎が採用(さいようされました。

醍醐寺三宝院唐門
醍醐寺三宝院唐門は、醍醐の花見の翌年(よくねんの慶長4年(1599)に建造された、朝廷(ちょうていの使者を迎(むかえる際に使用された門です。3間幅で、中央の扉には「五七の桐」紋が、両サイドには「菊」紋が大きく彫られ金箔が施(ほどこされています。豊臣期大坂城を描いた現存最古とされる「大坂城図屏風」の1階とまさに同じデザインになっています

最上階は、いずれの屏風も高欄(こうらん)付の廻縁が描かれています。ルイス・フロイスは「天守の最上階には周囲(しゅうい)に突出(とっしゅつ)した外廊(がいろう)いていました。関白の命によって外廊へ出ると、数カ国を望見することができました」と記しています。天守最上階は、安土城にならって廻縁が設けられていたことになります。この後、豊臣配下の諸将(しょしょうのほとんどは、大坂城天守にならってその居城(きょじょうに廻縁を採用することになります。

豊臣大坂城天守復元南立面図
豊臣大坂城天守復元南立面図(復元:中村泰朗 提供:三浦伝統建築文化研究室)
1階・3階の外壁(がいへきは、まさに「醍醐寺三宝院唐門」の模様そのものです

大坂城天守の内部

多くの人が秀吉の大坂城天守に入って内部を案内されていますが、残念なことに詳(くわしい記録を残した人は1人もいません。天正14年(1586)、完成直後の天守に入って記録を残したのは、宣教師(せんきょうしルイス・フロイスと豊後(ぶんごの戦国大名・大友宗麟です。ほかにも、毛利輝元(もうりてるもと)、本願寺の一行らが秀吉の案内で内部を見学しています。いずれも記録を残していますが、秀吉が天守内部に蓄(たくわえていた貴重品(きちょうひんばかりを自慢(じまんげに見せたためか、内部に描かれたであろう障壁画(しょうへきが)の題材や、部屋の数、間取りなどはほとんど記録に残されていません。例えば大友宗麟の見聞記を見てみましょう。

「下から三重目には、高価(こうかで貴重な小袖(こそで)や生地(きじ)の入った14~15個の杉の柩(ひつぎ)」、「地下の蔵には綿布(めんぷ)、紙類、火薬、外套(がいとう)など」、「黄金の茶室、三重目より上には火矢(火薬を用いた武器(ぶき)、大砲(たいほう、五重、六重目には朱柄(しゅえ)の長刀(なぎなた)、金銀の蔵、多くの茶碗(ちゃわん」というような具合で、内部は貴重品の蔵のようであったことが解(わかります。しかし、部屋の様子や障壁画の題材等は出て来ません。

黄金の茶室,名護屋城,城びと,加藤理文
黄金の茶室が初めて史料(しりょうに登場するのは、秀吉が関白となった天正13年(1585)のことで、その後、京都の御所(ごしょや大坂城などで使用されています。天正20年(1590)、名護屋城に着陣した秀吉は、この茶室を運ばせ、茶会を催(もよおしています(画像提供:佐賀県)

フロイスの記載(きさいも見ておきましょう。「豪華(ごうかをきわめた黄金塗(ぬりの他の多くの部屋」、「鉄板で覆(おおった一つの小さな隠(かくし門」、「登り降(おりする際に、頭を打つような低い桁が数カ所存在していた」、「黄金の室は、解体(かいたいして多くの長い大函(おおばこに入れれば移動が可能であった」、「最上階には、周囲に突出した外廊があった」、「最上階は、30名を越(こえた人々が着座(ちゃくざすると、幾人かは関白の衣服に触(ふれた」ことが書かれています。

このフロイスの記載から解ることをまとめてみたいと思います。まず、鉄板張(てっぱんばりの小さな隠し門は、本丸から天守地階に入る入口だと思われます。頭を打つような低い桁のある部屋は、屋根裏階のことです。それが数カ所存在するということは、屋根裏階が複数階にあったことになります。最上階は、出ることが出来る廻縁があり、4畳(じょう半~6畳程(ほどの広さだったことが解ります。

高知城、松本城、廻縁
左は黒漆で塗られた高知城の廻縁、右は赤漆で塗られた松本城月見櫓の廻縁です。秀吉の大阪城も、漆で塗られた廻縁と考えられます

これらの記載から、秀吉が本丸御殿の敷地(しきちの高さと同じ場所にある門から入ったことと、そこは常時(じょうじ(かぎが掛(かけられていたことが解ります。安土城天主は、信長の居所で奥向御殿(おくむきごてんとしての体裁(ていさいが整えられていました。しかし、秀吉の天守は常時「鍵」がかっていたのです。内部は貴重品の蔵として機能を果たしていました。安土城天主と大坂城天守は、外観こそ極めて似(にていましたが、内部はまったく異なった使われ方をしていたのです。

姫路城、大天守1階と二の渡櫓を結ぶ扉
姫路城大天守1階と二の渡櫓を結ぶ扉で、大天守に入る4つの扉のうちの1つになります。大天守への出入口の扉はすべて二重扉になっていました。二重目の扉は、外面を鉄板で覆われており、大天守内側からカンヌキによって鍵が掛かるように造られています。秀吉の大坂城の地下入口も同じような鍵が掛かっていたのかもしれません

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※天守台(てんしゅだい)
天守を建てるための石垣の台座(だいざ)のことです。当初から、天守建築を建てる予定が無いにもかかわらず、家格(かかく)のために天守台のみを築いた城もあります。

※武者走り(むしゃばしり)
土塁(どるい)の上の平担(へいたん)部(褶(ひらみ))に塀(へい)や柵(さく)を設けた時、城内側の通路を武者走りと呼びます。城外側は「犬走(いぬばし)り」と呼んでいます。

※付櫓(つけやぐら)
本来は天守に続く櫓のこと。附櫓とも書くこともあります。天守と接続する例が多く見られますが、渡櫓(わたりやぐら)によって接続する例もあります。

本丸御殿(ほんまるごてん)
本丸に建てられた、藩(はん)の政庁(せいちょう)と城主の居所があった御殿のことです。本丸が狭(せま)くて、やむをえず二の丸や三の丸に御殿を建てる場合もありました。太平の世になると、より外郭(がいかく)に近い二の丸御殿や三の丸御殿に政庁機能(きのう)が移(うつ)されていきます。

※望楼型天守(ぼうろうがたてんしゅ)
入母屋造の建物(1階または2階建て)の屋根の上に、上階(望楼部)(1階から3階建て)を載せた形式の天守です。下の階が不整形でも、望楼(ぼうろう)部(物見(ものみ))を載せることができる古い形式の天守です。

※入母屋造(いりもやづくり)
屋根の形式の一つです。寄棟造(よせむねづくり)(前後左右四方向へ勾配(こうばい)をもつ)の上に切妻造(きりづまづくり)(長辺側から見て前後2方向に勾配をもつ)を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)が付いて出来たものです。天守や櫓の最上階に見られる屋根のことです。

※廻縁(まわりえん)
建物の周囲に廻らされた縁側(えんがわ)のことです。建物の本体の周りに短い柱を立て並(なら)べ、それで縁側の板を支えた物です。転落を防止(ぼうし)するために手すりを付けますが、高級な造りの手すりであったため、高欄(こうらん)とか欄干(らんかん)と呼びました。天守の最上階に用いられることが多い施設(しせつ)です。

唐門(からもん)
室町時代以降(いこう)の寺社建築に多用された門で、開口正面に向かって左右に唐破風のあるものを平唐門(ひらからもん)、前後にあるものを向唐門(むかいからもん)と言います。

※障壁画(しょうへきが)
織田信長(おだのぶなが)の安土築城を契機(けいき)に、大規模な殿舎(でんしゃ)が造営(ぞうえい)されるようになり、そうした殿舎の襖(ふすま)・衝立(ついたて)(襖障子(しょうじ)や板障子などに台を付けて立て、間仕切りや目隠しに用いるもののことです)などに描かれた豪壮(ごうそう)な金箔(きんぱく)、金泥(きんでい)、金砂(きんしゃ)などを地として群青(ぐんじょう)、緑青(ろくしょう)などの色彩(しきさい)で描いた壁貼付絵(かべはりつけえ)などの総称(そうしょう)です。狩野永徳(かのうえいとく)を中心とした狩野派(は)(我が国の絵画史上最大の画派です)が著名(ちょめい)な担(にな)い手になります。

奥向御殿(おくむきごてん)
藩主の住む所で、居間(いま)・寝所(ねどこ)、また夫人・側室などの住まいにあてたられた建物のことです。庭園や遊びや宴会(えんかい)をする施設も付設されていました。奥御殿とも言います。

次回は「豊臣秀吉の居城4(大坂城の姿)」です

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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