日本100名城・続日本100名城のお城 【続日本100名城・唐津城編(佐賀県)】名護屋城との関係が浮かび上がる海上の要塞

九州北西部、玄界灘に突き出した佐賀県の東松浦半島の北部には、文禄・慶長の役の拠点として名護屋城がありました。そして東松浦半島の東部に築かれたのが唐津城で、名護屋城の資材を用いたとされます。唐津城は謎が多い城でしたが、近年の発掘調査によって実態が少しずつ見えてきました。周辺の遺構や、城主ゆかりの「虹の松原」とともにご紹介します。(初回掲載:2021年12月27日。2023年8月17日更新)

島原・天草一揆と唐津藩

唐津城の築城から廃城までの流れ

唐津城(佐賀県唐津市)は、松浦川河口の半島状に突き出した丘陵(満島山)に築かれました。関ヶ原の戦いの戦功で加増された武将・寺沢広高によって、慶長7年(1602)から7年がかりで唐津城は完成したとされています。このとき、文禄・慶長の役後に使われなくなった名護屋城(佐賀県唐津市)の解体資材を転用したといわれ、天守は建てられなかったと伝わっています。

唐津城
唐津湾に浮かぶ、要塞のような姿を見せる唐津城

寺沢広高の子、2代藩主・寺沢堅高の時代に、島原・天草一揆が起こります。当時、唐津藩の領地には天草(熊本県)が含まれていました。そのため、島原・天草一揆の責任を問われることになった寺沢堅高は、減封(天草郡4万石を没収)されてしまいます。さらに正保4年(1647)、子がいなかった寺沢堅高が死去すると、寺沢家は断絶となり、唐津は天領(江戸幕府の直轄地)になりました。

唐津城、天守
名護屋城の絵図に描かれた天守をもとに、復元された唐津城の天守(写真左)

このような経緯から、築城した時期の唐津城の記録はほとんど残されておらず、謎に包まれています。その後は譜代大名が入れ替わり城主となり、大久保氏や松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏が唐津城の城主をつとめました。

明治維新後、唐津城は廃城になります。現在の天守は文化観光施設として昭和41年(1966)に建てられた模擬天守で、平成29年(2017)にリニューアルした建物です。

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発掘調査による金箔瓦と旧石垣の発見

唐津城が築城された頃のようすは、2008年から始まった「唐津城石垣再築整備事業」にともなう発掘調査によって、少しずつわかってきました。

唐津城、天守台南側の石垣
修復が完了した天守台南側の石垣

天守台南側(二の曲輪)の地中からは、天守台の石垣よりも古い時代の石垣(旧石垣)が見つかりました。石材や積み方から、この旧石垣は遅くとも慶長年間前半(1605年頃)の築造だと考えられています。さらに、旧石垣の裏の盛土からは、金箔瓦(瓦の表面に金箔を貼り付けた瓦)の一部が出土しました。

金箔瓦は、織田信長が安土城(滋賀県近江八幡市)で初めて使用したとされます。信長の死後に羽柴(豊臣)秀吉が大坂城(大阪府大阪市)で使用し、その後は豊臣政権の確立によって、全国に広がっていきました。唐津城で金箔瓦の一部が見つかったということから、唐津城の築城以前に、豊臣政権によって何らかの拠点が築かれていた可能性が指摘されています。

唐津城と名護屋城に残る「旗竿石」

唐津城本丸の東部でも金箔瓦の一部が出土しました。さらに、名護屋城から出土した軒瓦と類似する軒瓦も唐津城で出土しており、唐津城と名護屋城の関係性が明らかになってきています。

唐津城、旗竿石
唐津城の本丸(天守閣の出口付近)に展示されている旗竿石

唐津城と名護屋城に関連する遺物として旗竿石(はたざおいし)があります。唐津城の本丸には、大きな玄武岩自然礫(唐津石)が展示されています。この石は上面に円形の穴が空けられているため、のぼり旗などを立てる礎石と考えられ、「旗竿石」とよばれてきました。

名護屋城、旗竿石
名護屋城の大手口にある旗竿石(手前)

同様の石は、名護屋城(および名護屋城周辺の陣跡)でも確認されており、文禄・慶長の役で名護屋城に着陣した武将たちが、茶室や庭園に置いた「手水鉢(石)」だったと考えられています。鍋島陣跡にあったものが名護屋城に移され、その後、唐津城に運ばれたと伝わっています。

唐津城主、寺沢広高による植林が「虹の松原」の始まり

発掘調査によって、築城された頃の姿が明らかになりつつ唐津城。ほかにも、築城者・寺沢広高が残したものがあります。

名護屋城、虹の松原
唐津城から望む唐津湾と虹の松原

海に面した唐津の町では、潮風や飛砂から農地を守る必要がありました。そこで、潮風や飛砂をよけるために寺沢広高はマツの植林を始めました。唐津城からは、唐津湾沿いに弧を描くマツの並木が見わたせます。現在では全長約4.5km、幅約500mにわたって、約100万本ものマツが立ち並ぶと言われています。

このマツの並木は、虹の弧のように見えることから「虹の松原」とよばれるようになり、国の特別名勝に指定されています。三保の松原(静岡県静岡市)、気比の松原(福井県敦賀市)とともに、「日本三大松原」のひとつでもあります。

二ノ丸・三ノ丸の遺構も散策

天守周辺だけでなくさまざまな遺構が残る

唐津城の全体図
案内板に描かれた唐津城の全体図

唐津城は、城郭全体の形をつかみやすいのも特徴です。唐津城から約1.5㎞南西の位置にJR唐津駅があり、唐津城と唐津駅の間には二ノ丸と三ノ丸が広がっていました。

唐津城、石垣の遺構
早稲田佐賀中学校・高等学校の北面で見られる石垣の遺構

唐津城の天守の西には、天守が立つ本丸と隣接するように早稲田佐賀中学校・高等学校があります。ここは、かつて唐津藩主の住居と藩庁がおかれた二ノ丸にあたり、学校のグラウンド部分には藩校や蔵のほか、馬場(馬の訓練場)や厩(馬小屋)がありました。

唐津城、船入門公園
船入があった場所は「船入門公園」として整備されている

早稲田佐賀中学校・高等学校は二ノ丸の北部にあたります。二ノ丸の南部には、船を停泊させるための「船入」があり、藩主の参勤交代時の出入りや、物品を運ぶために利用されました。船入があった部分は埋め立てられてしまいましたが、「船入門公園」として遺構の名称をいまに残しています。

唐津城、二ノ門外堀
二ノ丸と三ノ丸の境界にあたる二ノ門外堀

唐津城の天守から約500m西には、南北方向に水堀が広がっています。この堀は二ノ門外堀とよばれ、二ノ丸と三ノ丸(二ノ丸よりも西の区画)とを分けています。三ノ丸に住む藩士たちは、この二ノ門外堀を渡って、二ノ丸にある藩庁へと出仕していたのです。二ノ門外堀の北側には、唐津湾に向かって「北ノ門」が開いていました。

唐津城、三ノ丸辰巳櫓
三ノ丸辰巳櫓は現在の市街地付近に立つ

かつての城郭の規模をよくあらわしているのが、唐津城から約1㎞南西(唐津駅から約500m北東)に復元された三ノ丸辰巳櫓です。三ノ丸辰巳櫓は、江戸時代初期の「正保絵図」に描かれている築城当時からあった建物。明治時代に解体されましたが、平成4年度(1992)に新築復元されました。三ノ丸の東南隅にあたり、三ノ丸と城下町の境に近い場所でした。

このように、唐津城は天守周辺だけでなく、町のなかにもたくさんの遺構が見られます。遺構をめぐりながら、さまざまな角度から唐津城を愛でてみてはいかがでしょうか。さらに名護屋城との関わりにも想いを馳せれば、ますます唐津城の散策が楽しめるはずです。

住所:佐賀県唐津市東城内8-1
電話:0955-72-5697
開館時間:9:00~17:00(入館は16:40まで)
休館日:12/29~12/31
アクセス:JR筑肥線「唐津」駅から昭和バス東コースで約10分、「唐津城入口」停留所下車、徒歩約7分
     もしくはJR筑肥線「唐津」駅から徒歩15分

執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。著書『講談社ポケット百科シリーズ 日本の城200』(講談社、2021)。『地図で旅する! 日本の名城』(JTBパブリッシング)や『1日1ページ、読むだけで身につく日本の教養365歴史編』(文響社)などで執筆。城めぐりツアー(クラブツーリズム)の監修・ガイドを務める。
※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています。