理文先生のお城がっこう 城歩き編 第31回 石垣の隅角を強固にした算木積

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。31回目の今回は、石垣の積み方がテーマ。石垣が崩れにくいよう丈夫にするため考え出された「算木積(さんぎづみ)」が、どのように完成されていったのか、その歴史を詳しく見ていきましょう。

算木積(さんぎづみ)とは、石垣(いしがき)隅角(すみかど、ぐうかく)に使われる積み方で、石垣全体の積み方のことではありません。石材の長い辺が短い辺の二~三倍(ほど)ある細長い直方体の石を、長い辺と短い辺が、下から一段ごとに互(たが)い違(ちが)いになるように積み上げていくものを言います。短い辺の隣(となり)には、隅脇石(すみわきいし)と呼ばれる方形の石材を置いて、それを上と下の長い辺側の石材で挟(はさ)みこむわけです。そうすることで、短い辺と長い辺が重なって、非常(ひじょう)に強度の高い一体化した隅角部になります。

慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原(せきがはら)合戦後の論功行賞(ろんこうこうしょう)(功績(こうせき)の有る無し、大きさの程度(ていど)を調べ、それに応(おう)じてふさわしい賞(しょう)を与(あた)えることです)によって、徳川家康(とくがわいえやす)は、大幅(おおはば)な大名の領地(りょうち)(が)えを実施しました。これによって、豊臣(とよとみ)家に取り立てられた大名を中心に、各地に新しい城が築(きず)かれ、算木積という積み方が完成を見ました。年代的には、慶長10年(1605)前後と考えれば良いと思います。

算木積、大坂城天守台
完成した算木積(大坂城天守台)。徳川幕府(ばくふ)による大坂城再築工事により寛永(かんえい)5年(1628)に創建(そうけん)しました。隅角の下部は、長辺側が余(あま)りに長いため、短辺側の隅脇石を2石配置しています

未完成の算木積

算木積の呼び名となった算木(さんぎ)は、中国数学や和算(日本独自に発達した数学)で用いられた長方形の棒状(ぼうじょう)の計算用具のことです。棒を縦(たて)または横に置くことで数を表しました。隅角石の形がこの算木に似(に)た長方形の棒状であることから、この名が付けられたと言われています。

石垣は、その隅角部を強くして、崩(くず)れないようにすることが、石垣が使われ始めた当初からの最大の解決(かいけつ)しなければならない問題でした。隅が崩れなければ、他のどの部分が崩れたとしても、比較的(ひかくてき)たやすく積み直しが出来るからです。ところが、隅角が崩れると、最初の基礎(きそ)に戻(もど)って積み直さざるを得(え)ないのです。

算木積が未発達の、初期段階(だんかい)の石垣の隅角には、大きな石を置くことで崩れにくくするような工夫が見られます。この巨大(きょだい)な石材は、崩れにくくすることと、鏡石(かがみいし)(城主の威厳(いげん)を示(しめ)すために置かれた巨石です)として見せるためにも使用されたのです。松本城(長野県松本市)の二の丸太鼓門(たいこもん)枡形(ますがた)の玄蕃(げんば)石や浜松城(静岡県浜松市)本丸天守門脇(わき)の巨石などがこれにあたります。隅角さえ強くしっかりとして崩れないものにすれば、おのずと石垣全体が安定すると考えたからです。

算木積、松本城、浜松城
城門脇に据えられた巨石。松本城太鼓門(左)は、最下段に玄蕃石と呼ばれる、高さ3.2m、推定重量26.5tの巨石が配置されていました。浜松城天守門(右)は、門の両側の下部にほぼ2m四方程の方形の巨石が配されています。いずれも天正期と考えられています

天正(てんしょう)年間(1573~1592)に入ると、隅角を強く崩れなくするために、ほぼ正方形に近い平らな石材を積み上げるようになってきます。豊臣期の大坂城本丸の石垣などがこの様子を伝えています。最も下の段(だん)のみに巨石を据(す)えつけるのもこの時期です。

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豊臣大坂城詰の丸石垣(一般財団法人大阪市文化財協会提供)
昭和59年(1984)、「金蔵」(きんぞう)の東側地下で発見された、豊臣期「詰ノ丸」の石垣の隅角部です。一段置きに横方向に置いた石材の長辺側が配置されており、算木積を志向していることが判明(はんめい)しますが、まだまだ発展途上であることが良く解ります。

やがて巨大な自然石を、ほぼ直方体になるように大まかな粗割(あらわり)加工が施(ほどこ)されるようになっていきます。その粗割石を利用し、積み上げていくわけですが、長辺側と短辺側が交互(こうご)に積み上げられる状況にはまだいたってはいませんでした。所々で交互になるような状況(じょうきょう)は生まれてはいるのですが、意識的に交互に積んだというわけではなかったのです。広島城(広島県広島市)、岡山城(岡山県岡山市)の天守台などが、算木積を目指して積もうとしてはいるのですが、まだ完成してない段階を示す好例です。

算木積、広島城天守台
広島城天守台の北西隅角部。天正年間に毛利氏の手によって築かれたことが確実で、算木積は未完成ではあるが、方形の巨石を据えようという意識は見えます。石垣石材の中には、牡蠣(かき)などの貝殻(かいがら)がくっついたものもあり、海岸から石材を持ってきたことが判明します

関ヶ原合戦後の大名の配置替(が)えに伴(ともな)う新しい城の築城(ちくじょう)は、豊臣対徳川の全面戦争が必ずあると考え、多くの武将(ぶしょう)たちが、軍事的に優(すぐ)れた、簡単(かんたん)に落城しない強い城を築こうとしました。秀吉による文禄(ぶんろく)・慶長の役(朝鮮(ちょうせん)出兵)等で使われた城を築くための新しい技術(ぎじゅつ)も生かされ、石垣の積み方は、格段(かくだん)に進歩したのです。これにあわせ、石材も規格(きかく)加工石材(あらかじめ決められた大きさや形に揃(そろ)えた石材です)が利用されるようになり、算木積が完成していくことになります。

算木積が使用され始めた頃は、隅脇石はまだ使用されることはなく、直方体の石材が交互に積まれているだけで、隅脇石の長さは一定していませんでした。

算木積、熊本城、名古屋城
加藤清正(かとうきよまさ)が築いた石垣。左は、熊本城天守台の南西隅角の石垣で算木積とはならずに方形の石材を積み上げたものです。右は名古屋城の天守台の北東隅角で、算木積となっています。二種類の石垣を自由に操る清正の技術力の高さを物語る石垣です

関ヶ原合戦後に開始された幕府による天下普請(てんかぶしん)(全国の大名に、築城工事を割(わ)り振(ふ)って城を築かせることです)は、工事に参加することで、最新の石垣を築く技術を習得(しゅうとく)でき、各地に普及(ふきゅう)したわけです。こうして、全国にほぼ完成した算木積が出現(しゅつげん)していくことになりました。隅脇石を持つことによって、ほぼ完成した算木積は、時代と共に次の段階へと発達することになります。

次の段階の算木積は、完全加工した石材を使用することでした。築石(つきいし)部は、打込(うちこみ)ハギでありながら、隅角部のみ切込(きりこみ)ハギとなるわけです。この隅角部に完全加工した石材を使用することで、より高いより強固で、しかも見た目も美しい石垣が完成したのです。

算木積、江戸城天守台
江戸城天守台北東隅角の石垣。完全加工した石材を使用した隅角部で、完成域に達した見事な算木積となります。石材の表面は、ノミなどでハツるという化粧が施されています。より高いより強固で、しかも見た目も美しい石垣です

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※隅角部(すみかどぶ・ぐうかくぶ)
石垣が他の石垣と接して形成される角部(壁面が折れ曲がっている部分)のことです。曲輪側に対して外側に折れている隅角を「出隅」(ですみ)と言い、内側に折れている隅角を「入隅」(いりすみ)と言います。

※隅脇石(すみわきいし)
算木積の隅石の短い辺の隣の石のことです。上と下の長い辺の石材に挟み付けられることによって、石垣の隅の部分を一体化させて強固にするための目的がありました。

※築石(つきいし)
積石とも言います。石垣の本体を構成する石材で、隅以外の普通の部分に積まれた石垣のことです。

次回は「反り(そり)」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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