日本100名城、続日本100名城に負けない名城 第11回 大給(おぎゅう)城[愛知県豊田市]

惜しくも「日本100名城・続日本100名城」に選ばれなかった名城を、加藤理文先生が全国各地からピックアップし、その見どころを解説していきます。第11回は、国の史跡「松平氏遺跡」の一つに数えられる大給城(愛知県豊田市)。露岩を巧みに利用した防御性や、ダムのように石垣で水をせき止める水手遺構など、大給松平氏が築いた山城の見どころを解説します。

愛知県の豊田市には、松平氏に関係する多くの城跡が残っています。松平郷(まつだいらごう)は、三河国の戦国大名から江戸幕府の将軍家へと発展する松平氏(徳川氏)発祥の土地です。巴(ともえ)川(足助(あすけ)川)東岸の山地の中の小さな集落で、三河国加茂郡、現在の愛知県豊田市松平町に位置しています。この松平郷に残る松平氏館跡松平城跡大給城、高月院の4カ所を合わせ「松平氏遺跡」として、平成12年(2000)に国の史跡に指定されました。今回は、その中で大給城を紹介したいと思います。

大給城、景観
主郭から西側名古屋市方面を望んだ景観。名古屋駅や栄のビル群までをも望むことが出来ます。この位置がいかに重要であったかが良く解ります

大給城の歴史

大給城を最初に築いたのは長坂新左衛門で、その後、岩津城(愛知県岡崎市)主であった松平信光(まつだいらのぶみつ)が城を奪い、次男の乗元(のりもと)に与えたと伝わります。乗元が大給松平氏の祖になり、ここを拠点に所領の拡大に乗り出すことになります。大給松平氏は、今川氏に属し、松平宗家と対立関係にあったようです。

永禄7年(1564)、徳川家康と和睦したのちは徳川方の有力武将として活躍しました。天正12年(1584)頃、大給松平氏は、本拠を細川城(愛知県岡崎市)に移しますが、その後の大給城の様子を伝える記録は見られません。しかし、現在残る城跡の遺構が、天正12年以前とは考えにくいため、大給松平氏移住後に大幅な改修が行われたことが解ります。

大給城、石碑
主郭の露岩の上に建つ石碑。主郭は、至る所に露岩が点在しています。この城跡の至る所にこうした露岩が広がっています

大給城の構造

城は、矢作(やはぎ)川水系の巴川の支流である滝川と山中川に挟まれた山地の一角にある標高204mの山頂部を中心に、東西約200×南北約200mの範囲に曲輪群が広がっています。城跡一帯は、花崗岩の露岩(ろがん)(地表から露出している岩石のことです)が至る所に点在する地形です。この露岩を巧みに取り込んで防御力を高めている部分もありますが、露岩によって平坦面の確保が難しい箇所も見受けられます。南を除く三方は、尾根筋を遮断する巨大な堀切(ほりきり)によって、城域を区画していました。

大給城、堀切
城域の東端を区切る堀切。この堀切の北西からUの字形に曲輪Ⅳへと続く登城路が設けられ、西上には通路を扼すための小曲輪が設けられています

主郭は最高所ではなく、西端に構え、石塁で区画された東側に約1m高く副郭を置いています。主郭内部は西側に露岩が点在しているため、平坦面は東側に寄っていることになります。北側には、高さ約3.5mの石垣が築かれ、南東隅に石塁(せきるい)を利用した虎口(こぐち)が見られます。また、石垣下には横堀(よこぼり)が、西側には一段低い腰曲輪(こしくるわ)を置いて、その先は巨大露岩の崖地形となり、最下段に城内一巨大な堀切を配していたのです。

大給城、主郭
西側から見た主郭。背後に見えるのが副郭とを区画する石塁です。正面に低い露岩が見えます。西側には、高さ1m程の露岩が点在しています

副郭の東側には、一段高い櫓台(やぐらだい)状の土塁(どるい)が存在し、ここから東下の曲輪Ⅳに頭上攻撃が可能でした。副郭北下から西側を回り込むように通路が存在し、通路を扼(やく)す機能も併せ持つ曲輪であったことが解ります。

大給城、櫓台
Ⅳ曲輪より見た副郭の櫓台状の高まり。左側はⅣ曲輪の土塁になります。Ⅳ曲輪に入ると側面から攻撃出来るように、副郭の櫓台が構えられていました

主郭の南下には露岩を挟んで、城内で最も広い平坦地の曲輪Ⅲが位置しています。「諸国古城之図」(浅野文庫)(広島市立図書館蔵)には、「ハジヤウ曲輪」とあり、端城あるいは破城と思われます。最南端という位置、その規模からも居館部と考えるのが妥当ではないでしょうか。

大給城、曲輪
城内一の規模を誇る平坦面のⅢ曲輪。最も日当たりのよい南側の一段下に設けられた曲輪で、この城の居館(居住施設)があったと考えられる曲輪です

曲輪Ⅳは、東側の虎口(大手口か)を守る曲輪で、周囲を土塁で囲み、隅は櫓台状のスペースが設けられています。櫓台直下に虎口と東尾根筋を遮断する堀切が位置することからも、大手を守備する役目が推定されます。

大給城、虎口
Ⅳ曲輪南虎口。北を除く三方を土塁が取り囲み、南虎口の左右が櫓台状に広くなっています。入口を固めるための防御が施された曲輪です

大給城最大の見どころは、2ヵ所の石垣で構成される水手(みずのて)遺構です。緩い傾斜の谷地形を高さ約5m程の石垣で堰き止め、内側内部を水源とする構造になっています。東側を石塁、西側を土塁とし囲い込むと共に、東西に竪堀(たてぼり)、北下に堀切と、水源への侵入を固く阻んでいます。規模こそ異なるものの、石垣山城(神奈川県小田原市)の井戸曲輪と構造的には共通する造りです。このように、城内各所に見られる石垣の存在が、天正半ば以降の改修を物語っています。

大給城、石塁
左側が一段目の谷を堰き止めるための石塁で、右側が二段目の石塁です。共に高さ5m前後で、非常に丁寧で強固な石垣となっています

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大給(三河加茂)「諸国古城之図」(広島市立中央図書館所蔵)
旧広島藩主浅野家に伝えられた城絵図集で、各地の古城を描いた絵図177枚からなります。 江戸時代前期の時点で既に廃城となっていた城が多くとりあげられているため、当時の状況を知るに貴重な絵図です

城の改修時期

大給松平氏の居城であった段階の城の構造ははっきりしません。現在残る城跡が、一度の改修によって完成した姿なのかも不明です。主郭北面の石垣、水手曲輪の高石垣、主郭東側の石塁などが最終段階の改造で、副郭やⅣ郭の土塁が、大給氏以降の改修ということも想定されないわけではありません。天正12年(1584)の小牧長久手合戦後に、大給松平氏が細川城へと城を移していますが、家康が大給城を改修し再利用するために、細川城へと移したことも考えられます。

水手曲輪を固める厳重な防備は、水源の確保が必要不可欠の城であったことを示しています。Ⅲ郭の大きさとも併せ、尾張から東三河へ抜ける新城街道の監視と、兵站(へいたん)基地としての役割を担わせた城と評価しても良いのではないでしょうか。こうしたことからも、対豊臣を想定した、家康の改修を考えざるを得ません。問題は、水手曲輪の、高さ5m程の石垣や、主郭北側の石垣、さらに主郭東側の石塁の存在です。天正12年とすると、徳川氏最古の石垣ということになってしまいます。積み方等を見れば、天正18年(1590)以降の、豊臣系大名田中吉政による改修の可能性も考えてみる必要もあるでしょう。

大給城、石塁
主郭東側の石塁外側(東側)北東隅角部。石塁は主郭と副郭を区切るように設けられ、北側の下からは主郭北面を固めるように石垣が築かれています

城の入口に残る松平乗元の墓(供養塔(くようとう))は、江戸時代の文政・天保(1818~1843年)の頃に、先祖を顕彰することをねらって建立したものです。それと同時に、石垣を築くことで、先祖の城の価値をあげようとしたのかもしれません。いずれにしろ、この石垣がいつ誰によって築かれたかが、今後の最大の課題であることは間違いありません。

大給城の基本情報
<住所>
愛知県豊田市大内町
<アクセス>
名鉄「豊田市駅」からバスで30分、「九久平バス停」で下車。徒歩約30分


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加藤理文(かとうまさふみ)
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭

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