日本100名城、続日本100名城に負けない名城 第9回 長浜城[静岡県沼津市]

惜しくも「日本100名城・続日本100名城」に選ばれなかった名城を、加藤理文先生が全国各地からピックアップし、その見どころを解説していきます。第9回は内浦湾に浮かぶ小さな島に築かれた長浜城(静岡県沼津市)。北条水軍と武田水軍との合戦や豊臣秀吉による小田原攻めなど、歴史に残る戦いとの関係に注目しながら長浜城の特徴を解説します。

沼津市は、駿河湾の最奥に位置しています。そこには小さな湾が2つあり、北を江浦(えのうら)湾、南を内浦湾と言い、その中央に浮かぶ島があわしまマリンパークで有名な淡島です。その南側内浦湾の南最奥に飛び出す丘陵を利用して築かれた城が長浜城です。近年は、『ラブライブ!サンシャイン!!』の舞台として名をはせました。昭和63年(1988)、国の史跡に指定され、発掘調査及び整備事業が継続実施され、平成27年(2015)史跡公園として一般開放されました。今回は、その長浜城の魅力を紹介したいと思います。

長浜城跡
長浜城跡を望む。内浦湾に突き出した小山を利用したことが良く解ります。現在も多くのヨットの停泊地となっています

長浜城の歴史

天正6年(1578)、上杉謙信の後継をめぐる「御館(おたて)の乱」が勃発します。北条氏は上杉景虎(かげとら)(養子で北条氏政の実弟)を、武田氏は上杉景勝(かげかつ)(養子で謙信の甥(おい))を支援したため、甲相同盟は破局し、両者の関係が悪化します。

武田氏は現在の沼津市の中心域で狩野川(かのがわ)河口に三枚橋(さんまいばし)城を築き、江尻(えじり)城(静岡県静岡市)などに水軍を集め、北条氏に備えました。これに対し、北条氏は韮山(にらやま)城(静岡県伊豆の国市)防衛のために狩野川沿いの城を改修、江浦湾の手前の鷲頭山が、西に向かって駿河湾に大きく突出した丘陵には獅子浜(ししはま)城(静岡県沼津市)、そして長浜城を整備して、駿河湾から攻め込まれないような態勢を整えたのです。

長浜城に関する最も古い記録は、天正7年(1579)11月7日付けの北条家朱印状になります。そこには、「長浜ニ船掛庭(長浜城か)之普請…」とあり、この頃には重須(おもす)湊の防衛拠点として城が整備されたことがうかがえます。同じ年の12月19日付けの北条氏光(うじみつ)(北条氏康の八男、九男、あるいは養子とも)朱印状には、北条水軍の統括者梶原景宗(かじわらかげむね)が派遣されたことが記されています。

天正8年(1580)、駿河湾海戦と呼ばれる北条水軍と武田水軍との戦いが始まりました。『北条五代記(ほうじょうごだいき)』(江戸時代に、小田原北条氏の5代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた本です)等によれば、武田水軍の船5艘が長浜城に攻め寄せたため応戦すると、浮島原(うきしまはら)まで退却したため、梶原景宗率いる北条水軍は安宅船(あたけぶね)(軍船の中でも大型の船のことです)10艘をもってこれを追撃し、両軍は千本浜(せんぼんはま)沖で激突したと言います。安宅船を擁する北条水軍が有利に戦を進めたとありますが、両軍は日が暮れるまで戦い、結局決着は付かなかったとされています。

その後、武田氏が滅亡し、駿河を治めた徳川氏とは友好関係が続くため、長浜城の役割も低下したと思われます。

長浜城跡
城跡から駿河湾・沼津方面を望む。武田水軍を追って、北条水軍は沼津方面へと追撃し、富士山を望む駿河湾で戦闘が行われました

長浜城が再び機能を開始するのは、豊臣秀吉による小田原攻めが現実味を帯びた天正16年(1588)前後のことと思われます。この年北条氏直は、伊豆衆筆頭の清水康英(しみずやすひで)を下田城(静岡県下田市)に入れ、南伊豆防衛の拠点としています。当初、北条氏政は、梶原景宗を入城させようとしましたが、康英の意向によりかなわず、景宗は再び長浜城へと入ったようです。駿河湾最奥の地にある長浜城では、豊臣水軍への対応が難しいと考えた景宗は、西伊豆の安良里(あらり)城(静岡県西伊豆町)へ水軍を進め、迎え撃つ体制を敷くことになります。

同18年、徳川水軍の攻撃により、安良里城は陥落、下田城も長宗我部・九鬼・加藤・脇坂らの主力に包囲され、約50日にわたって籠城(ろうじょう)した後に開城しました。結局、長浜城周辺では、戦闘も無く、韮山開城と共に廃城(はいじょう)になったようです。

長浜城曲輪配置図
長浜城曲輪配置図(沼津市文化財センター提供)

長浜城の構造

南から海岸線に向かって突き出した標高約30mの「城山」山頂部に立地する海城です。城の前面には、風や波の影響を受けにくい内浦湾が広がっています。湾は、海岸線近くで数メートルの水深となり、15m地点で水深15mとなり、その先は40mと急に深くなる地形で中型船の停泊も可能でした。古来良好な漁場として知られ、昭和初期まで城跡には魚見の櫓が建っていたほどです。

長浜城、主郭
主郭を見る(左)。土塁の背後の島が淡島です。主郭から内浦湾を望めば、階段状に小曲輪が連続配置されていることが良く解ります(右)

城そのものは、列をなす4つの曲輪と、斜面に配置された小曲輪で構成された小規模な城といってもいいでしょう。

最高所に位置する主郭(第一曲輪)は、25m×20m程の規模で、陸地側に土塁(どるい)が設けられていました。第二曲輪が、城内最大の曲輪で、南北30m×東西15mほどの長方形を呈し、やはり陸地側に土塁(幅3~5m程)が設けられています。発掘調査によって、堀立柱建物(ほったてはしらたてもの)跡が6棟と竪穴状(たてあなじょう)掘立建物跡1棟が確認されました。第一曲輪と第二曲輪の間に櫓跡が確認され、3度の建て直しがあったようです。櫓の南は深さ1.6m程の堀切(ほりきり)で、小田原北条氏得意の畝(うね)を持つ堀切です。

長浜城、第二曲輪
主郭から見た第二曲輪。掘立柱建物跡が平面表示され、逆L字状に土塁が設けられていました。城内で最大規模を持つ曲輪です

東側の第三曲輪は、北側が神社地となっているため、はっきりしませんが、陸地側に土塁、南西隅から城門遺構が検出されています。城の大手は、南山麓からここに取りついていたことがほぼ確実です。

最東端の第四曲輪は、主郭から10m低く、第三曲輪との間に堀切が設けられています。土塁は、L字状に陸地側に設けられています。この他、海岸線の斜面に小曲輪が見られます。特に、第一曲輪からは階段状に海に向かって4つの小曲輪が連続配置されていました。

長浜城、第三曲輪
第三曲輪は、他の曲輪同様に陸側に土塁が設けられています(左)。堀切を挟んで配された第四曲輪(右)は小規模ですが、第三曲輪と同様な土塁が残ります

このように、城は陸地側と海側で大きく異なる構造をしています。防御施設である土塁や竪堀(たてぼり)、堀切は陸地側に重点配置され、海側は急斜面地に小曲輪を配しているだけです。これは、見通しを良くするためと考えられます。特筆されるのは、前述したように堀障子(ほりしょうじ)が導入されていることです。基盤が岩盤にも関わらず、堀障子とする所が、北条氏たる所以でしょうか。

長浜城、堀切
主郭と第二曲輪の間に設けられた畝を持つ堀切(左)は、岩盤を掘削したものです。第二曲輪直下の第三曲輪に設けられた虎口(右)が、大手口と考えられます

整備された長浜城

整備工事は、平成13年度(2001)から実施され、北側の崩落が見られる法面(のりめん)の修景工事が最初に行われました。ガイダンス施設は、北側山麓に設けられています。

城郭部分は、第二曲輪の掘立柱建物の平面表示、堀切の復元と通路を兼ねた便益施設として櫓風の建物が設けられました。主郭は、別荘地であったため遺構の残存状況も芳しくなく、土塁と柱跡が表示されるだけです。西側山麓の薩野川沿いの田久留輪(たくるわ)には、安宅船が平面表示されています。第一曲輪からの眺望はすばらしく、眼下に内浦湾、そして駿河湾を挟んで富士山の雄姿が望めます。

長浜城、通路
第二曲輪から主郭に至る通路は、後世の改変が著しく、その場所が特定できませんでした。現在は、櫓を利用して主郭への通路としています

長浜城、第四曲輪
整備された長浜城跡の入口(左)は、木製の階段を利用して第四曲輪へと続いています。西側山麓の田久留輪には、安宅船(右)が平面表示されています

長浜城の基本情報
<住所>
静岡県沼津市内浦重須
<アクセス>
・JR東海道本線・沼津駅から東海バス「三津方面木負、江梨行き」、「長浜城跡」バス停下車。
・東名沼津ICから国道414号、口野放水路交差点から県道17号で約60分。
・東名沼津ICから伊豆中央道長岡北IC、国道414号、口野放水路交差点から県道17号で約45分。
・見学者用の駐車場有。


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加藤理文(かとうまさふみ)
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭