籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第9回 土佐朝倉城の戦い

戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に敗れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第9回のテーマは、土佐統一に挑む長宗我部元親が本山氏の本拠地・朝倉城を攻めた「土佐朝倉城の戦い」です。籠城戦に至るまでの両雄の対立と戦いの変遷、そして朝倉城で迎え撃った本山の戦略を見ていきましょう。

長宗我部氏と本山氏の確執

戦国時代初期の土佐には「土佐七族」とよばれる7人の豪族が群雄割拠する状態だったが、次第に長宗我部氏と本山氏の2人に絞られるようになった。

長宗我部国親が長岡郡だけでなく、土佐郡にまで進出しはじめ、同じように、吾川(あがわ)郡から土佐郡にまで勢力を伸ばしてきた本山清茂・茂辰(しげとき)父子との対立がはじまったのである。両者の争いが、土佐全体の戦乱に拡大することを心配した土佐国司の一条房家が両者の間をとりもち、国親の娘を本山茂辰に嫁がせることで講和が結ばれ、小康状態が保たれることになった。

本山氏との間に和平が保たれている間に、国親は天竺(てんじく)氏や山田氏、さらには秦泉寺(じんぜんじ)氏といった豪族を破り、さらに勢力を拡大することに成功している。ところが、その和平は長く続かなかった。講和決裂は実に些細なことからはじまったという。国親が船で兵糧を運搬中、本山茂辰の家臣がそれを奪い取るという事件がおこり、両者の全面対決となってしまったのである。

本山城
本山城一の壇

本山氏の本来の居城は本山城(高知県長岡郡本山町本山)だった。そこが苗字の地というわけであるが、そのころは、勢力拡大によって本拠を朝倉城(高知県高知市朝倉)に移していた。国親は、いきなり朝倉城を攻めても落とすのは難しいと判断し、朝倉城の支城長浜城(高知県高知市長浜)を攻めている。戦いがあったのは永禄3年(1560)5月26日で、長宗我部軍は種崎というところから奇襲をかけ、攻め落とすことに成功した。福富右馬丞という国親の家臣が、以前、長浜城の築城に携わったことがあることを聞き、城の弱点を聞き出して落とすのに成功したという。

長浜表の戦い
長浜表の戦いの戦況地図

長宗我部元親の初陣

長浜城陥落の報を受けた本山茂辰は2000の兵を率いて長浜城奪回に出陣し、5月28日早朝、長浜城近くの長浜表、戸の本というところで戦いとなった。長浜表の戦いとよばれている。このとき、長宗我部軍は本山軍の半分の1000、その中に国親の長男元親の姿があった。これが元親の初陣で、22歳の遅い初陣ということになる。

元親は出陣の際、家臣の秦泉寺豊後に戦いの仕方を教わり、戦いがはじまると、自ら50騎ばかりの精鋭をひきつれ、本山軍のまっただ中に討って入り、敵を討ちたおし、この元親の奮戦が長宗我部軍の勝利につながったといわれている。そのときまでの元親は実戦経験がなかったこともあって、家臣たちから、「姫若子(ひめわこ)」などと陰口をたたかれたというのも、あながち誇張ではなかったかもしれない。

ただ、『元親記』や『長元物語』などの江戸時代に書かれた軍記物によると、槍の突き方も知らなかったとあるが、元親の鮮やかなデビューぶりを強調するため、創作された話もまじっているように思われる。

長男元親の活躍によって長浜表の戦いに勝利した国親は、この戦いの直後から病気になり、6月15日に没してしまった。もし、元親の長浜表の戦いにおける鮮やかな初陣がなければ、長宗我部氏の家督を元親が継げたかどうかわからない。というのは、当時、長男だから家督を継ぐというルールはなく、家臣たちの中に、「姫若子」元親より、もっと武将としてふさわしい元親の弟を擁立する動きがなかったとはいえないからである。

いずれにせよ、この長浜表の戦いが、次の朝倉城の戦いにつながるわけであるが、長宗我部勢力の伸張、本山勢力の衰退を印象づけ、長宗我部氏にとって、まさに、土佐統一の分水嶺ともいうべき戦いだったことがわかる。

朝倉城の戦いとその後

長浜表の戦いに敗れた本山茂辰は、いったん浦戸城(高知県高知市浦戸)に逃れたが、そこも支えることができず、本拠地朝倉城に兵を戻している。長宗我部軍としても、すぐ朝倉城を攻める余力はなかったのであろう。2年ほど小康状態が続いた。

朝倉城本曲輪虎口
朝倉城本曲輪虎口

永禄5年(1562)9月16日、元親は3000の兵を率いて朝倉城攻めにかかった。満を持しての出陣であったが、城を落とすことはできなかった。逆に、本山茂辰の子親茂の奮戦によって元親は敗れ、近くの神田(こうだ)城(高知県高知市神田)に逃げこむ始末だった。本山勢が神田城を攻める形となり、そこで激戦となったが長宗我部勢が守りきり、今度は、18日、長宗我部勢が再び朝倉城に攻撃をしかけている。

このとき、本山茂辰は籠城するだけでなく、兵を城の外に出し、城外で激しい戦いがくりひろげられている。この戦いで本山軍に343人の犠牲者が出て、長宗我部軍にも511人の犠牲者が出たというので、すさまじい戦いだったことがわかる。

朝倉城本曲輪
朝倉城本曲輪

結局、元親は朝倉城を3日間にわたって攻めたことになるが、城を落とすことができず、兵を岡豊(おこう)城(高知県南国市)にもどしている。本山茂辰・親茂父子は城を守りぬいたのである。それだけ、朝倉城が要害堅固な城だったということになる。

ところが、それで終わりではなかった。元親は朝倉城を力で落とすことは無理と判断し、本山氏の家臣に寝返り工作をはじめているのである。戦いが終わってわずか3ヵ月後の翌永禄6年(1563)1月10日、麾下の部将の多くが元親方に寝返ったことで、城を守りぬくのはむずかしいと判断し、本山茂辰自ら城を焼き、本来の居城だった本山城へ落ちていったのである。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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