萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第66回 天守台の直線美!町歩きも楽しめる 小倉城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。66回目の今回は、細川忠興によって本格的に築城された続日本100名城の小倉城(福岡県北九州市)です。巨大な天守が建っていたとされる天守台の石垣など、小倉城のスケールを実感できる見どころを紹介します。

小倉城、復興天守
小倉城の復興天守

時代ごとに重視された九州支配の要地

小倉城のはじまりは16世紀後半の毛利元就と大友宗麟との争いまでさかのぼります。本格的に築城したのは、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後に入った細川忠興です。

天正15年(1587)に豊臣秀吉が九州を平定すると、毛利勝信(森吉成)がこの地を拝領して小倉城を改修。13年間の在城期間に、勝信はすでに城としての体裁を整え、城下町形成も進めていたようです。金箔瓦も出土しており、秀吉政権における九州支配の要の地のひとつだったみられます。

関ヶ原の戦いの後、細川忠興が豊前一国と豊後の一部を拝領。細川忠興は中津城(大分県中津市)に入城したものの、慶長7年(1602)から小倉城を大改修して移り住みました。寛永9年(1632)に細川忠利が国替えとなると、譜代大名の小笠原忠真が小倉に入り、以後は明治維新まで小笠原氏が城主を務めています。幕末には長州戦争の最前線になった歴史もあります。

小倉城、石垣と内堀
本丸西側の石垣と内堀

細川忠興が積んだとみられる石垣が見どころ

城と城下町は紫川の河口に築かれ、紫川を境に西側一帯が西曲輪、東側一帯が東曲輪と呼ばれます。天守などが建つ城の中心部は、西曲輪にありました。江戸時代初期の「豊前国小倉城絵図」をみると、壮大な城の全貌がわかります。内堀で複雑に曲輪を区画し、効率よく防御力を高めた城だったようです。

慶長15年(1610)に竣工した天守は、天保8年(1837)の大火で焼失。現在は昭和34年(1959)に再建された天守が建っています。熊本城(熊本県熊本市)の天守や姫路城(兵庫県姫路市)の天守にも匹敵する大きな天守だったと考えられ、5階が4階よりもせり出した、岩国城(山口県岩国市)の天守のような南蛮造り(唐造り)の天守でした。

現在は、細川忠興が積んだとみられる石垣が広範囲に残ります。とりわけ天守台は圧巻で、勾配のない直線的な石垣が印象的です。算木積みも慶長期の特徴を示し、強度を保つ特殊な工法も判明しています。天守台付近の堀底からは、小笠原家や細川家の家紋が入った瓦が出土しています。

江戸時代の小倉は、長崎街道と秋月街道、中津街道の起点でもあり、城下町であるとともに宿場町でもありました。賑わいを想像しながらの町歩きも楽しめます。小倉城の西曲輪と東曲輪を結ぶ大橋(常盤橋)は、細川忠興が架けた橋。西勢溜(橋詰)が長崎街道の起点にあたり、参勤交代の大名や長崎奉行のほか、オランダ商館の外国人も通行し、文化や物資の幹線道路ともなっていました。

小倉城、常盤橋
紫川と現在の常盤橋

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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