日本100名城、続日本100名城に負けない名城 第35回 佐和山(さわやま)城跡[滋賀県彦根市]

惜しくも「日本100名城・続日本100名城」に選ばれなかった名城を、加藤理文先生が全国各地からピックアップし、その見どころを解説していきます。第35回は、戦国時代に大名たちが何度も攻防戦を繰り広げ、石田三成が城主を務めた佐和山城(滋賀県彦根市)です。かつては「三成に過ぎたる城」と呼ばれていたそうですが、果たしてどのようなだったのでしょう? 成時代よりも前まで歴史をさかのぼりながら、佐和山城の構造や特徴を見ていきましょう。

琵琶湖東岸に位置する佐和山は、西山麓に松原内湖、北山麓に入江内湖という2つの内湖に突き出した天嶮で、東山麓を東山道(中山道)が走る交通の要衝でもありました。豊臣秀吉は、この地を石田三成に与えました。三成は、本丸の大規模な改修を実施し、主要部を中心に石垣で囲い込み、本丸には天守を構えました。はるか遠くからも見える巨大な城の姿に、人々は「三成に過ぎたる城」と呼ぶことになったのです。浅井時代から織豊政権を通じ重要視された佐和山城は、日本100名城・続日本100名城にも負けない魅力的な城です。

佐和山城、大手口
東山道側に開いていた佐和山城跡正面の大手口より見た城跡です。大手門の左右には土を盛って築いた土井(土塁)が伸びていました。中央登城路の両側には侍屋敷が軒を連ねていました

城の歴史

戦国期、江北の京極氏と江南の六角氏が対立、両勢力の境目に位置する城として佐和山城をめぐる攻防戦が繰り返されました。天文4年(1535)六角方になるも、同21年(1552)には京極氏が反撃して奪還しています。京極氏に代わる勢力を持つに至った浅井氏は、百々盛実(どどもりざね)を佐和山城代とし、六角氏と対峙しました。

永禄10年(1567)、浅井長政に妹お市を嫁がせて姻戚関係を結んだ織田信長が近江を制圧します。しかし、朝倉攻めを敢行した信長に長政が反旗を翻しました。元亀元年(1570)姉川合戦で敗れた浅井氏は、小谷城(滋賀県長浜市)と佐和山城へ逃げ込んだのです。東山道が南北に走り、松原内湖に面して港が置かれ、陸上・湖上交通の要衝に位置するこの地を信長が重視し、佐和山城攻略のために陣城を構え包囲しました。浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)は約8ヶ月籠城し耐え抜きましたが、遂に降伏開城し、城は信長の手に落ちたのです。天正元年(1573)浅井氏も滅び、近江全域が信長の支配下となりました。

信長は、城代として丹羽長秀を入れ置き、岐阜~京都間の中継点として利用することになります。『信長公記』には、「御泊(おとまり)」「御座(ござ)」「御成(おなり)」「御休息(ごきゅうそく)」と信長が頻繁に利用したことを記録しています。佐和山城は、近江における信長の拠点として機能を果たすことになったのです。安土城(滋賀県近江八幡市)築城以後も、要衝に位置していたため城は存続しています。秀吉支配となった後も、堀秀政(ほりひでまさ)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)と重臣が配置され、この城の重要性が判明します。

文禄4年(1595)19万4千石で石田三成が城主となります。東山道と琵琶湖水運の要に位置し、近江における豊臣蔵入地(くらいりち)(秀吉が直接治める土地のことです)支配の拠点として、大規模な整備が実施され、天守や山麓の惣構(そうがまえ)(城下町まで含めて囲い込んだかこいのことです)も設けられたと言われています。しかし、慶長5年(1600)関ヶ原合戦で三成が敗れると、城は井伊直政、小早川秀秋の諸隊に攻められ落城。合戦後、井伊直政に佐和山城が与えられました。慶長11年(1606)彦根城(滋賀県彦根市)完成に伴い、必要がなくなったため廃城となっています。

佐和山城推定復元イラスト
佐和山城推定復元イラスト(監修:中井 均/作画:香川元太郎)
山頂部の本丸を中心として、北西下段に西の丸、北東に派生する尾根上に二の丸、三の丸を置く姿が想定されます。南へ延びる尾根は、鞍部に竪堀を設け、二方向に分岐させ、それぞれ太鼓丸、法華丸と呼ばれる曲輪群が置かれていました

城の構造

天正19年(1591)石田三成が入城し、文禄4年(1595)正式な城主となりました。城は、標高約233m(比高130m)の山頂に置いた本丸を中心に、三方向に延びる尾根筋に、多くの曲輪群を展開させる山城でした。そのため、山麓部に居館を、山頂部を詰城とする二元的構造を持つ城であったと考えられます。

佐和山城、切通し
「かもう坂通り往還」の切通し。切通しのすぐ南側には櫓台状の高まりが確認され、番所などの施設が存在したと考えられています

現在見られる城の基礎は、信長の城代であった丹羽長秀段階で築かれ、それを堀段階で改修。最終的に、石垣や天守を持つ近世城郭としたのが石田三成段階とするのが妥当と思われます。石田段階の山上部が、どのような姿であったかは、はっきりしませんが、山頂部の本丸を中心として、北西下段に西の丸、北東に派生する尾根上に二の丸、三の丸を置く姿が想定されます。南へ延びる尾根は、鞍部(あんぶ)に竪堀(たてぼり)を設け、二方向に分岐させていたようです。

佐和山城、竪堀
本丸と太鼓丸間に設けられた竪堀(西側)。堀切の左右に、山麓まで延びるような長さでした

北東尾根上に広大な2段の曲輪を有する太鼓丸が、南西方向の尾根先端部に法華丸(ほっけまる)が配されていました。東山麓には、谷を堰き止めるような巨大な土塁が残されています。総延長165m、高さ2m、基底部幅13m、上場幅7mと大規模で、居館と武家屋敷、公的施設が集中する場所と考えられています。土塁外側には幅約22mの堀が存在していたことが発掘調査で確認されました。また、文禄5年(1596)の「佐和山惣構御普請」の一環として設けられたと考えられる大規模な溝も城下町の北端付近の発掘調査で確認され、外堀の一部と考えられています。

佐和山城、西の丸焔硝櫓跡
西の丸焔硝(えんしょう)櫓跡。西の丸は、佐和山城絵図によれば3段の曲輪が描かれ上段に「焔硝櫓」、下段に「塩櫓」と記されています。ただ現在は下段を「焔硝櫓」と通称しています

三成時代の城の姿

三成時代は、本丸を高さ10m程の高石垣で固め、西の丸を補完的な曲輪とし、大手からの登城路は太鼓丸へ一旦入った後、尾根筋を通って本丸へと続いていたと思われます。周囲に分散する曲輪群は浅井段階のもので、三成時代には利用されていなかった可能性が高いようです。

18世紀前半の記録『古城御山往昔咄聞集書(こじょうおんやまこんじゃくはなしききあつめがき)』には「石田治部少輔(じぶのしょうゆう)殿城郭天守普請」「本丸之上石垣壱丈五尺其上ニ五重之天守」などと記され、3.5mの天守台上に五重天守が存在したされています。三成の石高は20万石弱であり、政権の中枢にいたことから、五重天守があったとしても何ら不思議なことではありません。天守の位置を考えると、東山道や琵琶湖から最も見やすい北東隅角の可能性が高いのではないでしょうか。とすれば、山上本丸の面積と天守の位置から、巨大な五重天守は考えにくく、三重あるいは松江城(島根県松江市)のような四重とするのが妥当です。いずれにしろ漆黒で、最上階には廻縁(まわりえん)と高欄(こうらん)を持つ姿が想定されます。

佐和山城、本丸
本丸は、かつて存在していたと考えられる天守台や枡形などの遺構を確認することは出来ません。大規模な「破城」があったためと推定されています

完成した城は、「治部少に過ぎたるものが二つある。嶋左近に佐和山城」と言われたとされ、未分不相応、限度を超えた城であったことを伝えています。これも、佐和山城が三成個人の城としてではなく、豊臣政権の五奉行の一人の城として、政権サイドから大幅な援助があり、築かれた城であったことを伝えているのではないでしょうか。

本丸は、関ヶ原合戦後に、敵方の中心人物の城として徹底的に破却されたとされてきましたが、関ヶ原合戦後、井伊直政はここを居城とし、山上部を含め居所としています。関ヶ原合戦時に山上部全体が焼失したなら、ここに入ることはかなわなかったはずです。そのまま入城したのは、山上部の天守など一部のみが焼失しただけで、居住に対し大きな不便がなかったためと推定されます。

佐和山城、石垣
現存する石垣。写真左は本丸の隅部に位置し、しかも基底部であったと考えられています。外周には、ほぼ同じ高さの7ヶ所で基底部らしい石垣が見つかっています。写真右は、そのうちの一つです

佐和山城、千貫井
本丸の南西の山腹に「千貫井」と名付けられた井戸跡が残ります。山上に築かれた城にとって井戸は、千貫にも値する貴重な物であったと言うことでこの名前があります

現在、本丸を含め山上部は、ほとんど原形を留めていません、わずかに石垣の基底部が部分的に確認され、かつて石垣であったことが判明する程度でしかありません。これは、彦根築城に伴い石材が根こそぎ運び出されたためです。

佐和山城、彦根城
本丸から望んだ彦根城跡。彦根築城に際し、石垣の石材や残された建物の部材など徹底的に持ち去られて再利用されたと考えられています

山上部の遺構の残りは良くありませんが、戦国期から重要視された景観は、そのまま残されています。信長が重要視し、三成の居城となった城は、日本100名城・続日本100名城に負けないすばらしい城の一つとして評価されます。

佐和山城跡の基本情報】 
<住所>
滋賀県彦根市
<アクセス>
[電 車]JR「彦根駅」下車、徒歩約15分で登山口、山頂まで約20分
[自動車]名神高速道路・彦根ICから約10分
[駐車場]龍潭寺駐車場(無料)を利用

次回は「豊前松山城」(福岡県苅田町)です。

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加藤理文
加藤理文
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭