超入門! お城セミナー 第121回【歴史】源頼朝が幕府を開いた鎌倉が「お城」だったって本当!?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。鎌倉を舞台にした大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が2022年1月からスタートしますね。その鎌倉は、ときに「鎌倉城」と呼ばれることもある要害の地。鎌倉が「お城」ってどういうことなのでしょうか?


鎌倉殿の13人
北東側から鎌倉を望む。鎌倉は南側が海に面し、ほか三方が丘陵に囲まれた要害の地である

鎌倉が攻めにくく守りやすい理由とは?

NHK大河ドラマ『青天を衝け』が好評のうちに大団円を迎え、2022年1月からは『鎌倉殿の13人』がはじまります。執権・北条義時を主人公にした本作は、源平合戦が起こった平安時代末期から鎌倉時代前期が舞台。脚本は、『新選組!』『真田丸』といった過去の大河作品も評判を集めた三谷幸喜氏です。期待が持てますね!

ドラマの主な舞台となるのが、源頼朝が幕府を開いた鎌倉です。関東を代表する観光地として知られており、訪れたことがある人も多いでしょう。若宮大路をまっすぐ歩いて鶴岡八幡宮を詣で、小町通りでお団子なんかをほおばってから北鎌倉や鎌倉大仏、銭洗弁財天まで足を伸ばしてみるなんて、なかなか素敵な1日観光コースです。

そんな感じで鎌倉散策を楽しんでいるとき、「なんて山がちな街なんだろう」と感じたことがある人もいることでしょう。どの名所へ行くにも結構アップダウンがあり、坂道が多いのが鎌倉歩きの特徴。散策中に周囲を見渡すと山や丘。トンネルをくぐって次の目的地まで行くことも少なくありません。

鎌倉、巨福呂坂
鶴岡八幡宮から建長寺などがある北鎌倉方面へと向かうときに通る巨福呂坂のトンネル。鎌倉散策では坂道やトンネルによく出会う

安国論寺、鎌倉
安国論寺から鎌倉市街地を望む。このような高台から望むと、ぐるりと丘陵に囲まれていることがよくわかる

そう、鎌倉は周囲を山に囲まれた土地なのです。正確に言うと、南方向は太平洋と由比ヶ浜に面しており、ほかの三方は丘陵に囲まれています。鉄道や車道が整備されていない頃には、鎌倉に入ろうと思うと丘を越えるか、舟で海を渡るしかありませんでした。こうした地理的特徴のため、軍勢が鎌倉を攻めるのはとても厄介であり、逆に鎌倉側から見れば守りやすいということになります。自然地形による要害の地なんですね。それが「鎌倉城」と呼ばれるゆえんです。

外部からこの“城”に入るには、「切通し(きりどおし)」を通る必要がありました。切通しとは山や丘の一部を掘削し、人工的に切り開いて通した道のこと。鎌倉の出入り口としては7つ切通しがあり、「鎌倉七口」と呼ばれてきました。朝夷(比)奈(あさひな)口・名越(なごえ)口・巨福呂坂(こぶくろざか)口・亀ヶ谷坂(かめがやつざか)口・化粧坂(けわいざか)口・大仏坂(だいぶつ)口・極楽寺(ごくらくじ)口の7ルートです。車道などのために開発されてしまった切通しも多いのですが、往時の姿を偲ぶことができる切通しを写真で紹介しましょう。

鎌倉七口、朝夷(比)奈口
[朝夷(比)奈口]中世に港があった六浦へ抜ける要路。和田義盛の息子・朝比奈義秀が一晩で開削したという伝説が残る

鎌倉七口、化粧坂口
[化粧坂口]新田義貞の鎌倉攻めで激戦地となった。名称の由来は、化粧をした平氏武将の首実検をしたからとも、そばに遊女の館があって彼女らが化粧をしていたからともいわれる

鎌倉七口、名越口
[名越口]三浦半島と鎌倉を結ぶ重要な切通し。中世の姿を保っているといわれてきたが、発掘調査により当時の道は地表面の下に埋め立てられていることがわかった

これらの写真からもわかるとおり、切通しはときにすれ違うのも気を遣うほどせまいため、大軍で攻めたとてゴリ押しするのはなかなか困難! 逆に守備側は兵数が少なくても、要所を押さえればとても守りやすい。地の利を最大限利用できたのです。

このように、攻めにくく守りやすいという特徴が、鎌倉が「鎌倉城」と称されてきた理由です。

鎌倉七口
復元イラストでみる鎌倉七口の場所。切通しの整備をはじめ、鶴岡八幡宮の移築や若宮大路の開通など、鎌倉の都市整備を行ったのは源頼朝であった(イラスト=香川元太郎)

頼朝はなぜ鎌倉を本拠地にしたのか?

それでは、源頼朝は攻めにくく守りやすいという「鎌倉城」の特質を見抜いて、ここに幕府を建てたのでしょうか。歴史を振り返ると、どうやらそれが1番の理由ではなかったようです。

鎌倉と源氏のゆかりは、平安時代中後期までさかのぼります。頼朝の5代前にあたる源頼義は朝廷から相模守(神奈川県の知事のような立場)を命じられて、鎌倉をその本拠地にしました。今とは違う場所ですが、鎌倉に鶴岡八幡宮を建立したのもこの頼義です。

頼朝の父親である源義朝の館が鎌倉にあったこともわかっています。頼義以降、歴代の源氏棟梁が鎌倉の地を守っていたということでしょう。鎌倉入りを果たした頼朝は、自分が正統な源氏棟梁であることをアピールするため、真っ先に義朝の館跡を尋ねました。頼朝はここに自分の屋敷を建てようとしましたが、地形的にせまかったため断念したといいます。

このエピソードからもわかるとおり、頼朝が鎌倉に入った理由は、鎌倉が源氏にゆかりのある土地だったからです。鎌倉を本拠にすることで、源氏の正式な跡取りであることを関東の武士たちに示したかったのでしょう。鎌倉の地理的特徴については、その後都市づくりをしていく過程で、「おっ、鎌倉ってなかなか使える場所じゃん!」って気づいていったのだと思います。

最後に、最近では「鎌倉城」という名称について、専門家の人たちから疑問の声が挙がっています。「鎌倉城という呼び方は間違っているんじゃないの?」という投げかけです。

「鎌倉城」の名称は、同時代の貴族である九条兼実の日記『玉葉』に、「鎌倉城にいる源頼朝が木曽義仲追討のため出発した」と記述されていることにはじまります。時代は下り、現代の城郭研究や都市研究の中で鎌倉の城塞都市としての軍事面が強調されるようになり、九条兼実が用いた「鎌倉城」の言葉が援用されるようになりました。

ただし、九条兼実はあくまで京都にいた貴族であり、実際の鎌倉を訪れて「これは城だ」と感じて書いたわけではありません。この時代の「城」は戦国時代や江戸時代の「城」とは異なり、街道を臨時的に封鎖した防御施設のような、軍事的に用いられた空間も「城」と言い表していました。「城」の意味するところが現在よりもずっと広範だったんです。だから九条兼実も鎌倉の防御性や地理的特徴などの情報を持たないまま、「武士の本拠地だから“城”って付けてみたけど、何か?」程度の意識だった可能性が高いわけです。

さらに、「城とは何か?」というそもそも論になるのですが、堀にしろ土塁にしろ櫓にしろ人の手によってつくられた防御施設であり、「人工的な軍事拠点」というのが城の基本コンセプトです。だとすると、自然地形を利用しているだけの鎌倉は「城」といえるのでしょうか? 切通しは人工的に切り開いた道ですが、これは都市生活のためのインフラであり、軍事施設ではありません。切通し周辺には人工的に崖(切岸)が築かれたという意見もありましたが、それらは発掘調査の結果、石材の石切り場や屋敷などの造成地だったことがわかっています。

鎌倉七口、名越口、大切岸
名越口にある大切岸。以前は人工的な防御施設だと考えられていたが、発掘調査によって石切り場跡であることが判明した

つまり、鎌倉は地理的特徴として「まるで城のように」堅固な都市でしたが、手の込んだ防御施設があったわけではありません。「鎌倉城」というのはあくまでイメージだけの言葉であり、一般的な城とは本質的に異なっていることは理解しておきたいところです。

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。最近は中世関連の制作物を多数手がける。主な媒体に『キーパーソンと時代の流れで一気にわかる鎌倉・室町時代』(本郷和人監修/朝日新聞出版)、『鎌倉草創 東国武士たちの革命戦争』(西股総生著/ワン・パブリッシング)など。

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