2022/02/02
籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第11回 能登末森城の戦い
戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に敗れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第11回のテーマは、佐々成政と前田利家との間で勃発した「末森城の戦い」です。この攻城戦と歴史に残る小牧・長久手の戦いとの関係や、籠城戦の勝敗を決めた意外な功労者の存在について見ていきましょう。
「北陸版」小牧・長久手の戦い
織田信長の親衛隊である母衣(ほろ)衆は、母衣の色によって赤母衣衆と黒母衣衆の二つに分かれていた。赤母衣衆のトップが前田利家であり、黒母衣衆のトップが佐々成政(さっさなりまさ)で、信長が二つの母衣衆の功を競わせたこともあり、二人の仲は悪かった。
天正11年(1583)4月の賤ヶ岳の戦いのとき、成政は上杉景勝への押さえとして越中に残っていたため、戦いには加わらなかった。そのことが幸いし、羽柴秀吉勝利後、秀吉に謁し、越中の所領を安堵されていた。
前田利家も、それまでの所領能登に加え、加賀の河北・石川2郡を加増され、金沢城(尾山城)(石川県金沢市)へ移っており、そのようなとき、翌12年(1584)、尾張で小牧・長久手の戦いがはじまった。秀吉対徳川家康・織田信雄連合軍の戦いである。
戦いの当初、傍観していた佐々成政だったが、4月7日の長久手の戦いで秀吉軍が敗北したという情報を得るや否や徳川・織田連合軍側に属し、秀吉方の前田利家と戦端を開いている。いわゆる「北陸版」小牧・長久手の戦いである。
利家は、ライバルだった成政の去就を警戒しており、すでに前年5月から、能登・越中の国境に近い末森城(石川県羽咋(はくい)郡宝達志水町竹生野)に重臣の奥村永福(ながとみ)を入れ、城の修造に着手していた。さらにもう一人の重臣村井長頼を朝日山城(石川県金沢市加賀朝日町)に入れ、成政に備えさせていた。
天正12年8月28日、佐々軍の一隊が朝日山城に攻撃をしかけたことで「北陸版」小牧・長久手の戦いの幕が切って落とされ、倶利伽羅(くりから)峠に新しく堡塁を築き、ついで9月9日から、成政自ら指揮を執って末森城攻めをはじめている。小瀬甫庵の『太閤記』にはその数1万5000とするが、その数は信用できない。

倶利伽羅峠。源平合戦古戦場の記念碑が山頂付近に残されている

倶利伽羅峠の猿ヶ馬場。写真奥に建っているのは「猿ヶ堂」
奥村永福と目賀田又右衛門の差
このとき、佐々軍は末森城だけでなく、もう一つの前田方の要衝鳥越城(石川県河北郡津幡町七黒(しちくろ))も同時に包囲し、しかも、両城の連絡が取れないようにした上で謀略をしかけている。末森城に対しては、「鳥越城はもう落ちた」という嘘の噂を流し、鳥越城にも「末森城はもう落ちた」という嘘の噂を流している。戦国時代、よく採られた謀略戦である。
鳥越城を守っていた目賀田又右衛門は、「末森城が落ちてしまったなら、鳥越城を守っていても仕方がない」と、嘘の噂を信用して城を出てしまった。城を出た後、それが敵の謀略であることを知ったが後の祭りで、金沢城に戻っている。後日譚になるが、利家は、「城を死守すべきなのになにごとか」と怒り、目賀田又右衛門は前田家から追放されている。このような場合、仮に噂が本当であっても、城を守るのが武士のつとめだということを全軍に徹底させるねらいが利家にあったのかもしれない。ふつう、その部将が城を枕に討ち死にしても、子がその地位を継ぐことになるが、目賀田又右衛門は、子も追放処分を受けているのである。
末森城が佐々軍に包囲されたという第1報を受けた利家は10日夕方に金沢城を出発し、その日の夜に津幡(つばた)城(石川県河北郡津幡町津幡)に入り、軍議を開き、翌11日未明から、末森城を包囲している佐々軍に攻撃をしかけることを決めている。
本丸を死守した奥村永福と籠城中の女性の働き
9日から末森城を包囲され、籠城戦を戦うことになった奥村永福であるが、このとき城兵はわずか500ほどだったという。本丸に永福、二の丸に千秋範昌と滝沢金右衛門、さらに三の丸を副将格の土肥伊予が守っていた。

末森城の戦い地図(小和田哲男著『戦国合戦事典』より)
戦いは三の丸の攻防戦からはじまり、三の丸を守っていた土肥伊予は城外に打って出たところを成政の大軍に包囲され、壮絶な最期を遂げ、三の丸は占領されてしまった。
そのあと、二の丸も落ち、本丸だけになってしまったが、そのとき、奥村永福の妻つねが城兵たちを叱咤激励していた様子が小瀬甫庵の『太閤記』にみえる。やや長い引用になるが、籠城中の女性たちの働きぶりがどのようなものだったか、女性の役割を考える上で興味深い内容である。
奥村が妻つねは、心もいとしづかに、万の事に物おそれをし、青柳の糸をも欺(あざむく)計(ばかり)に、つよからぬ女性(にょしょう)なるが、信長公の御母堂の事聞つる事ありとて、かひがひしき女房二三人相ともなひ、長刀をよこたへ、よるひるのさかひを分ず城を打廻り、戦つかれ眠りがちなる番衆をば、事(ことの)外(ほか)にいかり禁(いまし)め、或はをだやかにも睡(ねぶり)をさまし、或はゆるがせもなく番をつとめぬる所をば、仮名実名(けみょうじつみょう)をしるし付、さぞくたぶれさふらめ、やがて金沢より後巻なさるべきとの事にておはしますなどと云慰め、或時は粥を大器に入持せつゝ、所労のほどをかんじ、或時は、夜寒の袖の露をはらはんがため、紅葉を焼(たき)酒をあたゝめ、塀うらの睡をさましければ、悦あへりつゝ、昔の巴、山吹、閑(しずか)の前などは、一旦の勇こそあらめ、かく籠城になれもやし給ふやうにおはしますよとて、城中の人々此義に恥つゝ、義を思ふ事、日々に新にして夜々に深し。
結局、奥村永福とその妻つねのがんばりで本丸一つを死守しているところに11日になって利家の救援軍が佐々軍の背後から攻めかかったため、佐々軍は城中と城外とで挟み撃ちとなり、佐々軍は壊滅し、成政は富山城(富山県富山市)に兵を引いている。この戦いで佐々軍の犠牲者は2000という。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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