2022/07/11
逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第1回【上杉謙信】最強武将の居城は意外と防御が薄かった!?
戦国時代を彩った大名や武将を1人クローズアップ。関わった合戦や城との関わりを紹介する新連載「逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将」がスタート!
お城・歴史ビギナーな方はもちろん、「名前は知っていたけど、実は詳しい生涯までは知らない」「お城を知ると武将が出てくるので、武将についても詳しく知りたい」と思っていた方にもぴったりです。「こんな武将が存在したんだ!」という、教科書などに名前の載らない武将も出てくるかも!?
記念すべき第1回は人気も知名度も高い武将、上杉謙信。数多の合戦で領地を広げた謙信が、生まれ育った春日山城(新潟県)に住み続けた理由を解説します!
春日山城に立つ上杉謙信像。頭巾と甲冑をまとった姿で来城者を出迎える
高潔な軍神・上杉謙信が生涯を過ごした城とは?
上杉謙信は越後守護を補佐する守護代・長尾為景(ながおためかげ)の子として、越後国の春日山城で誕生。兄がいたため本来なら当主にはなれないのですが、病弱な兄に不満を持った家臣に擁立され、当主の座につきました。その後、領内の反乱分子を抑えて越後国を統一。信濃や関東へ遠征を行い、武田信玄や北条氏康らの強敵と戦いに明け暮れます。
謙信といえば、なんといっても「軍神」「越後の龍」とも賞賛された合戦の強さ。第四次川中島の戦いで信玄と一騎討ちをしたという逸話はあまりにも有名ですよね。他にも北条氏との戦いでは、味方を救うために単騎で斬り込んで敵を蹴散らした、敵の目の前で悠々と酒を飲んでいたなど、超人的ともいえる武勇譚が知られています。
このように合戦では無類の強さを誇った謙信ですが、平時は毘沙門天を篤く信仰し義を重んじる人物でした。また、私欲による領土拡大を嫌っていたとも。前述の川中島の戦いも信玄に圧迫された信濃国衆・村上義清(むらかみよしきよ)の救援要請からはじまったもの。また、関東遠征は北条氏康に追い出された関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)に、上杉家と管領職を継いで管領家を復興して欲しいと依頼されたために行ったとされています。
また、酒どころ・新潟を本拠地にしていた影響か、戦国武将の中でも一、二を争う酒豪。将軍・足利義輝の要請で上洛した際には、義輝らと徹夜で飲み明かしたのだとか。前述のように合戦中も酒を嗜んでいたようで、謙信の遺品として騎乗用の酒器である「馬上杯」が残されています。梅干しや塩をつまみに飲むのが好きだったともいわれており、これが死の原因になったという説もあります。
甲斐の大名・武田信玄とは信濃をめぐり川中島で衝突した。激戦となった4度目の戦いでは、謙信が単騎で切り込み信玄と一騎討ちを演じたなどの伝説が生まれた(国立国会図書館蔵)
謙信が生涯を過ごした居城は、新潟県上越市の春日山城。日本海を一望する標高約180mの山上に築かれていました。この城の最大の特徴は、山上が居住スペースになっていたこと。反面、防御施設は曲輪を区切る堀切程度で、数も城の規模に対して少なめ。北条氏康や武田信玄が、馬出や横堀を多用した技巧的な城で領内を守っていたことを考えると、少々不用心ともいえます。実際、兄・晴景が当主だった頃、謀反を起こした家臣に攻め込まれてしまっています。
謙信像から見た春日山城の本丸方面。大小様々な曲輪が連なっている
しかし、謙信はこの城に住み続け、越中や能登に領土が広がった後も居城を移転することはありませんでした。これは、当時の武士には父祖から受け継いだ土地を守る事が本懐、という価値観があったことや、春日山城が流通拠点である直江津を押さえる場所にあったことなどが理由と考えられます。また、家中最大の軍事力を持つ上、独立心が強い揚北衆(あがきたしゅう)の根拠地との位置関係も見逃せないでしょう。彼らの本拠地があった村上市や新潟市と春日山城の距離は約130〜160km。謀反が起こった際に奇襲される恐れがない遠さである一方、同じ国内にあるため謀反が拡大する前に対応することができます。
春日山城の本丸からは、直江津の湊や日本海が一望できる
揚北衆の一人・本庄繁長(ほんじょうしげなが)が居城としていた本庄城。繁長は永禄12年(1569)武田信玄と結んで謀反を起こすが、謙信の迅速な包囲により翌年鎮圧された。なお、本庄城は織豊期に近世城郭に改修され、村上城と名を改めている
しかし、春日山城を拠点とし続けたことによる弊害もありました。謙信が十数年を費やした関東遠征です。この外征で謙信は多数の城を攻略しますが、結果的に得た領土は北上野の一部だけ。これは、雪国・越後から遠征する上杉軍は冬に帰還しなければいけない制約があったため。関東の国衆たちは、謙信が関東にいる間だけ従い、帰還するやいなや離反することを繰り返し、ついに謙信に屈することはなかったのでした。
歴史にifはないと言われますが…。もし、謙信に冬という制約がなければ、あるいは、領地拡大に応じて居城移転ができる国内情勢だったら、上杉領はどこまで広がったのか…。ちょっと考えてみたくなりますね。
越後平定時の居城・支城と謙信が攻めた城
【居城】春日山城(新潟県上越市)
春日山城は、南北朝時代に築かれた山城。越後守護・上杉氏が守護館の詰城として使用していましたが、謙信の父・為景が上杉房能(うえすぎふさよし)を追放した際に長尾氏のものとなりました。現在も山上に曲輪や堀切が良好に残っており、戦国ロマンを感じられます。
山麓から見た春日山城。近年、城内が伐採整備され、城下から城の様子が見えるようになった
【支城】栃尾城(新潟県長岡市)
栃尾城は元服した謙信が配置された城です。病弱な晴景や若年の謙信を侮った国人たちにより攻められますが、謙信は二手に分けた城兵に敵の背後を突かせる鮮やかな用兵で敵を撃退。これが謙信の初陣でした。
山麓の秋葉公園から眺めた栃尾城。公園内には謙信の銅像も立つ
【攻めた城】七尾城(石川県七尾市)
能登の守護大名・畠山氏の居城。7つの尾根を城塞化した堅城で、攻め込んだ上杉軍に対して10ヶ月もの間抵抗を続けました。結局、力攻めは不可能と悟った謙信は重臣・遊佐氏を調略。七尾城を開城に追い込んだのでした。林の中に石垣がたたずむ、趣深い光景が楽しめます。
七尾城内の石垣。城の陥落後、謙信は越中に続いて能登を手にした喜びを漢詩に詠んだという
▶併せてこちらの記事もチェック!
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)が好評発売中!
<お城情報WEBメディア 城びと>