超入門! お城セミナー 第36回【構造】「支城」ってどんな城のことをいうの?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは「支城」。お城の解説では頻出する言葉ですが、「支城とは何か」と聞かれたら、みなさんなんて答えられますか? 「なんとなくイメージしているけど、言葉にすると難しい」と感じる読者も多いことでしょう。意外と難しい「支城」について考えることは、「お城とは何か」を考えることにも通じます。

海津城、松代城
戦国時代は「海津城」という名を持っていた松代城。この城は本城? それとも支城?

「支城」なんて存在しない!? 城の種類は千差万別

お城関係の本を読んでいると、「支城」という言葉をよく聞きますよね。「家臣が住んでいた城?」「周辺の領地を支配する拠点?」「居城を守る砦のこと?」など、人によってそのイメージは異なるのではないでしょうか。試しに、手元にある城の解説本を片っ端から確認してみたのですが、「支城とは●●である」と明確に定義した本はほぼありませんでした。今回は簡単そうで難しい、「支城」について考えてみましょう。

まずは「支城」について考える足がかりとして、対となる言葉を押さえておきましょう。「支城」の対義語は「居城」、つまり大名や領主が住んでいた城のこと。「本城」や「根城」と呼ばれることもあり、軍事面では大名や領主を守る最終拠点、政治面では領地を治める中心地となります。

「支城」は、この「居城」や「本城」(以下、「本城」で統一します)を支えるために築かれた城です。ただし、一言で「支える」と言っても、その「支え方」は様々。例えば、本城が平地に建つ居館だった場合、いざ敵に攻められたら立て籠もるための城が本城のそばに築かれていました。そうした支城は「詰(つめ)城」と呼ばれます。武田氏の躑躅ヶ崎館と要害山城(どちらも山梨県)、朝倉氏の朝倉氏館と裏山に築かれた一乗谷城(どちらも福井県)などは、本城と詰城の関係になります。

一乗谷城、朝倉氏館
朝倉氏館と一乗谷城。山麓に大名・家臣の住む居館と武家屋敷が建ち並び、有事の際の詰城が居館背後の山頂に築かれた

また、敵の領地と接するような場所には、いつ敵が攻めてきても発見できるように城が築かれました。こうした国境の見張りや守備を目的にした支城は「境目の城」と呼ばれます。徳川と武田が領土争いをした遠江や三河(静岡県)に築かれた諏訪原城、長篠城、高天神城(いずれも静岡県)などは、いずれも境目の城といえるでしょう。

諏訪原城、境目の城
徳川と武田が奪いあった諏訪原城。境目の城は攻防の対象になるため、テクニカルな縄張の城が多い

他国へ侵攻するときも支城はつきものです。相手の城を攻め落とす際、その周囲にいくつも砦を築く場合があります。そうした攻城戦のための城を「付城」「陣城」と呼びます。「付城」の代表例としては、豊臣秀吉が鳥取城攻めで築いた太閤ヶ平(鳥取県)や小田原城攻めで築いた石垣山城(神奈川県)があります。

そうして城を攻め落とし、新領地を治めることになると、支配拠点となる支城が必要になります。占領地に築いた支城を「仕置きの城」といいます。武田信玄は西上野(群馬県北西部)に進出した際、真田幸隆・昌幸に岩櫃城や沼田城(どちらも群馬県)を築かせ、仕置きの城として地域支配の拠点としました。

本城と境目の城や仕置きの城が遠い場合、または遠方に軍事行動を行う場合、兵糧を運んだり、行き来する伝令を手助けするような中継地が必要になります。こうした中継地となる支城は「繋ぎの城」と呼ばれます。繋ぎの城は、敵を攻めるために臨時的に築かれ、そのまま使い捨てにされることも多かったようです。

ここまで紹介してきた「詰城」「境目の城」「付城」「仕置きの城」「繋ぎの城」、そのすべてが本城を支えるための「支城」となります。つまり「支城」は、「本城」以外のすべてということになり、その目的も様々。通常は人が住んでいない城や、使用後は破却された城も多かったのです。あらゆる解説書で「支城」を一言で定義できないのは、こうした理由があるからです。

支城ネットワーク、香川元太郎、イラスト
戦国大名は様々な役割の城を領内に配し、支城ネットワークを築いて領地を支配した(イラスト/香川元太郎)

コロコロと変化する城の役割と機能

「支城」とは「本城」以外の城の総称だと説明しましたが、この「本城」と「支城」の区別もたいへんあいまいなものです。群雄割拠の戦国時代、小国の領主が大国の支配下に入って家臣になる、というのは日常茶飯事でした。そうすると、領主時代には「本城」だった城が、大国の「支城」に変わるわけです。

例えば、地方の領主であった佐野昌綱を城主とする唐沢山城(栃木県)。越後(新潟県)から関東平野へと進出した上杉謙信は、関東を一望できる要衝に建つ唐沢山城の攻略に、異常なほど執着します。そして、佐野昌綱が降伏して唐沢山城は謙信の手に落ちたにも関わらず、謙信が越後に帰還すると昌綱が寝返って城を奪取する、ということが三たび四たびと繰り返されました。唐沢山城はその都度、昌綱の「本城」から謙信の「支城」、そしてまた昌綱の「本城」へと役割を変えたわけです。

唐沢山城、関東平野
関東平野を一望できる唐沢山城からの眺望。現在でも、晴れた日は東京スカイツリーや富士山を見ることができる

こうした城の役割や機能が変化するというのは、戦国時代には当たり前のことでした。石田三成の居城として知られる佐和山城(滋賀県)は、はじめ六角氏と浅井氏の「境目の城」として築かれ、織田信長が浅井氏を滅ぼしたのちは岐阜と京都を結ぶ「繋ぎの城」となり、その後豊臣政権下で三成の「本城」となりました。また、松代藩真田家の政庁だった松代城(長野県)は、はじめ武田信玄が謙信に対抗するための「境目の城」として築かれ(当時の城名は海津城)、信玄が北信濃を支配下にすると「仕置きの城」となり、本能寺の変後は上杉が占領して再び「境目の城」として機能し、最終的には真田信之が入城して「本城」としました。

佐和山城、彦根城、
支配大名が変わるたびに役割を変えた佐和山城。関ヶ原の戦いで家康が勝利すると、そばに彦根城が築かれ、佐和山城は徹底的に破壊された。

現在に残る有名城郭は、江戸時代に大名の住まいであり藩の政庁だった城がほとんどのため、現代人はついつい「城=本城・居城」と考えてしまいがち。また、本城ばかり残っているように感じるのは、徳川家康が豊臣家を滅ぼしたあと、「一国一城令」によって「本城を残してすべての支城は破棄しなさい」と命じたことも理由のひとつです。しかし、「一国一城令」以前の戦国時代から江戸時代初期にかけては、本城の何十倍という数の支城が築かれていたわけです。「支城」を考えることで、「城」とは単に大名や領主の住まいだっただけではなく、その役割は多種多様であったことがわかりました。そうした支城の多くは、現在は山城としてひっそりと、しかし日本全国いたるところに残されています。「この城は何のために築かれたのだろう?」と考えながら訪れると、城を見る目が変わりますよ。


執筆・写真/かみゆ
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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