理文先生のお城がっこう 歴史編 第61回 秀吉の城13(指月伏見城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。豊臣秀吉が築いたお城の特徴について見ていくシリーズの13回目で、今回取り上げるのは、秀吉が晩年に築いた伏見城(京都府京都市)です。伏見城は秀吉と徳川家康によって合計4度建てられましたが、そのうち指月の地に築かれた「指月伏見城」について見ていきましょう。

京洛(きょうらく)の南に位置する伏見(ふしみ)(京都府伏見区)は、巨椋池(おぐらいけ)を一望する観月(月の美しさを眺(なが)めて楽しむことです)の名所で、池の北側の指月(しげつ)の地とその北側の木幡山(きはたやま)の地に都合4度に渡(わた)って建てられました。

最初の城は、文禄(ぶんろく)元年(1592)豊臣秀吉(とよとみひでよし)隠居(いんきょ)(官職(かんしょく)を離(はな)れて静かに暮(く)らすことです)生活を送るためとして築(きず)いた指月屋敷(やしき)で、現在の観月橋団地付近にあったと考えられています(第Ⅰ期:秀吉指月隠居屋敷)。2度目の城が、翌文禄2年の秀頼(ひでより)誕生(たんじょう)後に指月屋敷を改修し、石垣(いしがき)や天守・櫓(やぐら)などを持つ本格的な城の姿かたちに仕上げたもので、指月伏見城と呼んでいます(第Ⅱ期:秀吉指月伏見城)。3度目が、指月伏見城が文禄5年の慶長の大地震によって倒壊(とうかい)したため、東北側の木幡山を中心に慶長2年(1597)に新たに築いた城で、豊臣期木幡山伏見城と言われます(第Ⅲ期:秀吉木幡山伏見城)。最後が、関ヶ原合戦の最初の戦いで、秀吉木幡山伏見城の主要部が焼失したため、慶長6年に徳川家康(とくがわいえやす)の手によって再建された徳川期木幡山伏見城になります(第Ⅳ期:家康木幡山伏見城)。

現在、指月伏見城の遺構(いこう)は、地表面で確認(かくにん)することは出来ません。徳川期木幡山伏見城は、明治天皇陵(てんのうりょう)となっており立ち入ることが出来ません。今回は、指月に築かれた城について見ていくことにします。

指月城跡・伏見城跡位置図
指月城跡・伏見城跡(あと)位置図(『指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告書』2021年 京都市文化市民局刊行 P.17 図5 指月城跡・伏見城跡位置図 )

指月伏見への築城

天正19年(1591)、ただ一人の子供(こども)であった鶴松(つるまつ)を失い、関白職(しょく)と政庁(せいちょう)である聚楽第(じゅらくだい)(京都市上京区)を甥(おい)(姉・智(とも)の長男)の秀次に譲(ゆず)った秀吉は、翌年伏見の地に隠居所の構築(こうちく)を開始します。神祇大副(じんぎのおおきすけ)(朝廷(ちょうてい)の祭祀(さいし)をつかさどる神祇官の次官(副長官)です)の吉田兼見の日記である『兼見卿記(かねみきょうき)』には「伏見御屋敷」、奈良興福寺(こうふくじ)の多聞院(たもんいん)の僧(そう)3人が描(えが)き継(つ)いだ日記の『多聞院日記』には「大(太)閤(たいこう)隠居所」と記されており、当初は城と言うより隠居生活を送るための屋敷だったようです。

京都市の南部に位置する伏見の地は、奈良時代から山陽道が整備(せいび)され、巨椋池が広がり水運も発達した要衝(ようしょう)の地でした。平安時代には、鳥羽上皇(じょうこう)の院御所(いんのごしょ)である「鳥羽離宮(りきゅう)」が置かれ、経済(けいざい)や商品が消費者(しょうひしゃ)の下に届(とど)けられる流れの拠点(きょてん)であり、政治(せいじ)の中心地ともなっていました。また、関白藤原頼通(よりみち)の次男である橘俊綱(たちばなのとしつな)の「伏見山荘(さんそう)」に代表される貴族(きぞく)の山荘が営(いとな)まれる景色が優(すぐ)れている地だったのです。淀川(よどがわ)を利用した水運により大坂とも繋(つな)がることから、秀吉により選び出された最良の地だったのです。

この指月伏見屋敷の場所は、宇治川(うじがわ)右岸の指月の岡と呼(よ)ばれる台地上にあったとしか解(わか)っておらず、観月橋(かんげつきょう)から桃山(ももやま)駅に至(いた)る範囲(はんい)が推定(すいてい)されていました。家康の侍医(じい)であった板坂卜齋(いたざかぼくさい)が記した『慶長年中卜齋記』には、「秀吉が、伏見の指月にかりの城を構(かま)えた」ということと「文禄3年に、向島(むかいじま)(伏見区向島)を築いて、指月城との間の川(宇治川)に橋(豊後(ぶんご)橋)が完成した」とあります。ここに出てくる指月城は、文禄2年に改修された第Ⅱ期:秀吉指月伏見城のことで、近年の調査(ちょうさ)によって、石垣と堀(ほり)を備えた本格的(ほんかくてき)な城であったことが解ってきています。向島城は、指月伏見城の支城(しじょう)として築いた城です。巨椋池に浮(う)かぶ水城で、月見用のために築いたと言われています。

伏見城跡
伏見城跡(指月伏見城期復元図)(『指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告書』2021年 京都市文化市民局刊行 P.100 図100 伏見城跡【指月城期復元図(大正都市計画図)】 )

指月伏見城の規模

京都市文化市民局から2021年に刊行(かんこう)された『指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告(そうかつほうこく)書』から、秀吉の指月伏見城の武家屋敷を含む全体的な範囲を見てみましょう。

検出(けんしゅつ)石垣から、南北方向の堀が2本存在(そんざい)していたことが確実(かくじつ)で、堀を東に越(こ)えるごとに郭(くるわ)が雛壇(ひなだん)のように一段ずつ高くなり、4つの平坦(へいたん)面で構成(こうせい)されていたようです。城は、観月橋を渡った北東側に位置し、東をJR桃山駅から東に200m程(ほど)の箇所(かしょ)を南北に入る舟入(ふないり)の西肩(かた)部とし、北を立売通(たちうりどおり)、西を24号線、南を外環状線(そとかんじょうせん)の北側に沿った丘陵(きゅうりょう)端部(たんぶ)の範囲を中心部分として考えることが適当(てきとう)としています。この範囲は、南北約200~240m、東西約500mになります。

指月城跡・伏見城跡発掘調査
伏見区桃山町泰長老(たいちょうろう)No.14-1 調査で、西面する石垣(東側石垣)と、東面する石垣(西側石垣)の2時期の石垣などが確認されています。写真は、西面石垣(北西から)です。(『指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告書』2021年 京都市文化市民局刊行 P.121 図版15参考 1 №14-1調査 西面石垣(北西から) )

指月城跡・伏見城跡発掘調査
伏見区桃山町泰長老No.15-1 調査では、東面する石垣と堀が確認されました。石垣は、最大で7段の石垣が残存(げんぞん)し、長さ14.5m以上、高さ2.8m以上だと判明(はんめい)しました。(『指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告書』2021年 京都市文化市民局刊行P.122 1 図版16参考 №15-1調査 東面石垣(北から) )

城域(じょういき)北東に一辺約50mの方形土壇(どだん)(周囲(しゅうい)に対して一段高く構えた場所です)状の高まりがあり、その位置と規模(きぼ)から天守台の可能性(かのうせい)が指摘(してき)されています。記録によれば、天守は新規(しんき)築城ではなく、淀古城(京都府伏見区)(側室淀殿(よどどの)のために築かれた城)から、本丸の櫓(やぐら)、門、二の丸の櫓と共に移したと『駒井(こまい)日記』(豊臣秀次の右筆(ゆうひつ)駒井中務少輔重勝(なかつかさのしょうしげかつ)の日記です)などに記されています。

また、破却された聚楽第からも移築(いちく)されたようです。儒学者(じゅがくしゃ)であり医者でもあった小瀬甫庵(ほあん)が記した『甫庵太閤記』には「金銀によって磨(みが)き上げられたような調度品、様々な屏風(びょうぶ)、室内調度や座敷(ざしき)は余りに見事で言葉にも表せない」と、きらびやかな様子を伝えています。『慶長年中卜齋記』にも、天守を設(もう)け、御殿(ごてん)も非常に立派だと記されています。発掘調査でも、指月伏見城は中心部(本丸部分)が堀で囲(かこ)まれた方形区画であり、同様の堀で囲まれた複数の方形区画が接続(せつぞく)する構造(こうぞう)であったと推定されています。また、金箔瓦(きんぱくがわら)も出土しており、大坂城(大阪府大阪市)や聚楽第同様に、金泊瓦で飾(かざ)られた豪華(ごうか)な城だったことが解ります。

指月伏見城、金箔瓦
出土した金箔瓦は、軒丸(のきまる)瓦、軒平(のきひら)瓦、飾り瓦、輪違(わちがい)が確認されています。(『指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告書』2021年 京都市文化市民局刊行 P.115 図版9 1区から出土した金箔瓦 )

指月伏見城の崩壊

ところが文禄5年7月、京都・伏見付近でマグニチュード7~8程度(ていど)と推定される大地震(じしん)が発生しました(慶長(けいちょう)伏見大地震)。伏見城の天守が倒壊し、城内だけでも700人が圧死(あっし)したと言われています。『慶長年中卜齋記』には、夜半に地震が発生し、天守の上の2階が揺(ゆ)れで落ちてしまったと書かれています。イエズス会の宣教師(せんきょうし)ジアン・クラッセの記した『日本西教史』には、平地にあった伏見城の建物はことごとく壊れ、千畳敷(せんじょうじき)御殿や金銀で飾られた天守や櫓、石垣も崩(くず)れてしまったとあります。

無事だった秀吉は、城中にわずかに残った台所で一晩を過ごし、翌朝1km北東にある木幡山に仮小屋を造(つく)り避難(ひなん)し、そこから倒壊した状態の城跡(しろあと)を眺めたことが記されています。そして、避難した山上に新しい伏見城を築かせたとあります。「文禄大地震記」や『当代記』にも、地震後の木幡山に新たな城を築いたことが記されているため、平地の指月から山上の木幡山に城を移したことが解ります。

※図版及び写真は、すべて京都市文化市民局提供

今日ならったお城の用語(※は再掲)

舟入(ふないり)
船を止めるために設けた入江(いりえ)のことです。

※天守台(てんしゅだい)
天守を建てるための石垣の台座のことです。

※金箔瓦(きんぱくがわら)
軒丸(のきまる)瓦、軒平(のきひら)瓦、飾り瓦などの文様部に、漆(うるし)を接着剤(せっちゃくざい)として金箔を貼(は)った瓦のことです。織田信長(おだのぶなが)の安土城で最初に使用が始まったと考えられています。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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