理文先生のお城がっこう 歴史編 第60回 秀吉の城12(陣城・名護屋城Ⅲ)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。これまで豊臣秀吉が築いたお城の特徴について見てきました。今回も豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いた名護屋城(佐賀県唐津市)の3回目です。名護屋城の中に建てられた建物とその構造を詳しく見ながら、秀吉がどんな目的で名護屋城を築いたのかも考えてみましょう。

前回は、名護屋(なごや)の簡単な構造とシンボルである天守について見てみました。陣城(じんじろ)とはいいながら、その城域(じょういき)は実に約17万㎡にも及(およ)ぶ大城郭(じょうかく)だったのです。さらに、総石垣造(そういしがきづく)りで、屋根には金箔瓦(きんぱくがわら)が非常(ひじょう)に眩(まぶ)しくキラキラと輝(かがや)く五重天守を持ち、大変贅沢(ぜいたく)なうえ、華(はな)やかで美しい御殿建築(ごてんけんちく)、2階建て以上の櫓(やぐら)が10基(き)を越(こ)え、茶室・能舞台(のうぶたい)までもが備(そな)わるもので、伏見城(ふしみじょう)聚楽第(じゅらくだい)(ともに京都府京都市)と同じようなきらびやかな城だったのです。

今回は、その名護屋城の構造(こうぞう)を見ていきたいと思います。

本丸の御殿建築

様々な行事を行ったり、家臣と対面したりするための城の中心となる施設(しせつ)群は、『肥前(ひぜん)名護屋城図屏風(びょうぶ)』を見ると、本丸全体に隙間(すきま)なく建てられているように見えます。発掘調査(はっくつちょうさ)でも、建物の柱を支(ささ)えた礎石(そせき)や建物の周りに敷(し)かれていた玉石、雨落ち溝(みぞ)(屋根から落ちる雨水を吸収(きゅうしゅう)する溝です)の可能性がある側溝(そっこう)(排水(はいすい)のための溝のことです)などが発見されています。

名護屋城、本丸
発掘された本丸の建物配置。北西隅(すみ)に天守台、南東隅に本丸大手、南西隅に隅櫓、北東隅に北門が置かれ、内部に御殿が設(もう)けられていました(佐賀県立名護屋城博物館提供)

建物は、10棟(とう)以上存在(そんざい)していたことも解(わか)りました。発見された建物は、廊下(ろうか)や縁側(えんがわ)で繋(つな)がっていて、全体で大きな御殿を構成していました。発見された建物の機能(きのう)については、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の居城(きょじょう)である大坂城御殿の絵図(『中井家所蔵』)等との比較(ひかく)から推定(すいてい)されています。確認(かくにん)された最も南側の建物Aが「御広間(ひろま)」か「対面所」、その北側の建物B・Jで一体の大型(おおがた)建物は「御台所(みだいどころ)」が推定され、岩盤(がんばん)を切り下げた部分は土間が想定されています。この建物の北側で瓦が集中して出土することも、この建物が台所であることを裏(うら)付けます。両者を繋ぐ建物Lは、広い廊下を設けた建物で、ここで両者の高低差を解消(かいしょう)していたと考えられます。

建物Aの北側で、東西18m×南北11mほどの玉石敷きの空間が確認されています。この空間は、中庭だと考えられています。この中庭の北側で確認された建物Eは、建物Aと接続(せつぞく)する御対面所的機能を持つ施設が想定されています。この北側に建物Iが接続し、さらに北側の建物Cからが(おく)向きの御殿空間となり、「御小書院(こじょいん)」あるいは「御黒書院」、西隣の建物Kが「御座之間(ござのま)」、そして最西奥の6間四方の規模(きぼ)を持つ建物Mが秀吉自身の居室と考えられています。

名護屋城、本丸御殿と天守
CGで復元(ふくげn)したバーチャル名護屋城の本丸御殿と天守(佐賀県立名護屋城博物館提供)
アプリ「VR名護屋城」を使えば、名護屋城の位置とリンクしていて、スマホやタブレットで現実の名護屋城を映し出すと、当時の建物がアニメーションで表示され、どこにどんな建物があったのか見ながらお城歩きができるようになっています

『太閤記(たいこうき)』には、本丸で能が催(もよお)された記録が残り、能舞台も設けられていたと思われます。さらに、屏風に茅葺(かやぶき)屋根の建物が描(えが)かれていることから、これが茶室ではないかとも言われています。本丸入口は、南東部の本丸大手と北東部の本丸北口の2ヶ所が確認されており、その両門が土塀(どべい)で接続し、御殿空間を仕切っていた可能性(かのうせい)が高まっています。このように、今まで、不明であった本丸の姿(すがた)が、少しずつ明らかとなってきています。

遊撃丸と二の丸・三の丸・弾正丸

天守西下に凸型(とつがた)に突出(とっしゅつ)する遊撃丸(ゆうげきまる)は、石塁(せきるい)(かこ)みの特別な曲輪(くるわ)で、眼下(がんか)に船手(ふなて)口が位置しています。文禄(ぶんろく)2年(1593)5月23日、明国使節の謝用梓(しゃようし)と徐一貫(じょいっかん)は、石田三成、小西行長に伴(ともな)われて名護屋城で秀吉と対面しました。この時、使節団が滞在(たいざい)した場所がここになります。文禄の役に際し、明の兵部尚書(へいぶしょうしょ)(軍を統括(とうかつ)する大臣)・石星(せきせい)の使節かつ遊撃将軍(しょうぐん)として朝鮮(ちょうせん)に派遣されたのが沈惟敬(シェンウェイチン)で、その使節が滞在したため、この名がついたと言われています。屏風では、周囲に多門櫓が連結しており、内部に瓦葺(ぶ)きの建物が描かれています。

名護屋城、遊撃丸
天守の西下に位置するのが遊撃丸で、南東隅と北東隅に虎口が開口し、周囲を多門櫓や土塀によって取り囲まれていたことが屏風から判明(はんめい)します。内部に、石塁へ上がるための石段が5ヶ所存在していました。天守の脇(わき)にあるためか、破城(はじょう)も丁寧(ていねい)に行われています。

南隣(となり)に連結する二の丸は、船手口から接続する曲輪であるため、倉庫もしくは物資(ぶっし)集散の役割(やくわり)が想定されます。二の丸西側には合坂(あいざか)が連続し、屏風には多門櫓が描かれています。二の丸西側の強固な防備(ぼうび)は、遊撃丸と連結し、西側防備を固める目的があったと思われます。

名護屋城、石垣
弾正丸から見た馬場の石垣。本丸の南下に帯曲輪状に直線で配されている曲輪が馬場です。東西端(はし)に櫓台が設けられ、本丸、三の丸の守備という役割を持っていたことが解ります

馬場(ばば)と通称(つうしょう)される本丸南下段(だん)の約150mの長さを持つ曲輪は、二の丸からは連続していますが、三の丸側には鉤(かぎ)折れ状(じょう)虎口(こぐち)が設けられています。曲輪の両端、いわゆる三の丸側と、二の丸側に櫓台が配され、2基の櫓の存在が推定されます。両櫓共に通路を守るだけではなく、南西方面への備(そな)えの役割も併(あわ)せ持っていたと考えられます。搦手口(からめてぐち)が存在する弾正丸(だんじょうまる)は、かなりの面積を要する曲輪です。ここは後の豊臣政権(せいけん)五奉行(ぶぎょう)の一人、浅野弾正少弼長政(あさのだんじょうしょうひつながまさ)の屋敷地となっていたため「弾正丸」と呼(よ)ばれたといわれます。

名護屋城、搦手口
搦手口の虎口を入ると、城の南西端に突出するように弾正丸が位置しています。ちょうど、遊撃丸と対になるような構造ですが、ほぼ倍の面積を有す重要な曲輪でした

秀吉のプライベート空間

山里丸は、書院・御座間(ござのま)・大台所・風呂屋(ふろや)・数奇屋(すきや)・能舞台などの存在が『太閤記』に伝えられ、さらに発掘調査により茶室が検出(けんしゅつ)されました。そのため秀吉のプライベート空間であったことが確実となっています。屏風にも、茅葺屋根の門や数奇屋風の櫓が描かれています。この櫓は、天守と同じような外観を美しく見せるための工夫が凝(こ)らされています。天守によく用いられる唐破風(からはふ)廻縁(まわりえん)高欄(こうらん)華頭窓(かとうまど)が採用(さいよう)されていました。非常に品格(ひんかく)が漂(ただよ)う、私的な場所に建てられた天守としても問題はないと思われます。山里丸に建てられていた建物の配置から、秀吉が、いかにこの山里丸を利用していたかがよく解ります。

名護屋城博物館,加藤理文
山里丸草庵茶室想像図(佐賀県立名護屋城博物館提供)
『宗湛(そうたん)日記』天正20年(1592)11月17日の項(こう)に、城内の山里曲輪に数寄屋を建て、柱もその外もみな竹で造った四畳半の竹の茶室があったと記されています

台所と鯱(しゃちほこ)池は、この山里曲輪と関連する遊びや宴会を行うための場と考えられ、屏風では茅葺建物と朱塗(しゅぬ)りの欄干(らんかん)に囲まれた場所までもが池にとびだす様に建てられています。池には小船が浮(う)かび、これまた趣(おもむ)きを感じさせます。確(たし)かに、北西側に対しての備えとなる堀(ほり)の役割もあるでしょうが、最初から山里丸に付随(ふずい)する池として設けられた可能性が高いと思われます。城である以上、堀があれば防御(ぼうしょ)施設と思ってしまったのかもしれません。

名護屋城、鯱池と台所丸
鯱池と台所丸。名護屋城の唯一(ゆいいつ)の堀で、城の北東部にあり、鯱に形が似(に)ているため、この名があります。台所丸は、鯱池に向かって半島状に突(つ)き出た曲輪で、東側には船着き場所が発見されており、遊興(ゆうきょう)的な施設があったと考えられます

名護屋城は、敵(てき)方からの攻撃にも耐(た)えうるような守りを固めた前線基地(きち)として築(きず)かれた陣城ではありませんでした。朝鮮半島へ渡(わた)る武将(ぶしょう)のもてなしや励(はげ)まして奮(ふる)い立たせるための働きを優先(ゆうせん)させたシンボルであり、見せるための城だったのです。城内のあちこちで確認される不完全な戦に備えた構造に対し、極めて充実(じゅうじつ)した遊びや宴会(えんかい)を行うための場がありました。巨大な曲輪は、補給(ほきゅう)・連絡(れんらく)の中継(ちゅうけい)基地のための空間と思われます。

発掘調査が進んだことによって、本丸を初めとして城域全体で、大規模な改造や拡張(かくちょう)の跡(あと)が確認され、一時期に完成した城でなく、半島での戦闘(せんとう)の状況(じょうきょう)を参考にしながら、その姿が変化していったことが確実です。秀吉が肥前名護屋城に在陣したのは、文禄元年4月から7月まで、同10月から翌年(よくねん)8月までの都合1年3ヶ月間だけでしかありませんでした。秀吉が上方へ帰陣した後、朝鮮情勢(じょうせい)は大きく変わっていったのです。刻々(こくこく)と変化する朝鮮状況に併せて、前線基地・名護屋城の修理(しゅうり)改修が命令され続け、城はその時その時の状況に合わせてその姿を変えていったのです。

名護屋城、石垣
この石垣は本丸の南側および西側への拡張に伴って完全に埋(う)められていた築城当時の石垣になります。石垣は内・外面の両方が確認されており、非常に丁寧に積まれていますが、隅角は算木積(さんきづみ)になっていません。築城後に大規模な改造が行われていたことがよく解る石垣です

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※陣城(じんじろ)
戦闘や城攻(ぜ)めの時に、臨時的(りんじてき)に築かれた簡易(かんい)な城を呼びます。

広間(ひろま)
織豊(しょくほう)時代から江戸時代にかけての書院造りの表座敷(ざしき)のことで、会合や来客の接待(せったい)などに用いる広い畳(たたみ)敷きの部屋のことです。

※土間(どま)
室内に設けられた土足で歩けるスペースのことです。

※奥向御殿(おくむきごてん)
藩主(はんしゅ)の住む所で、居間(いま)・寝所(ねどこ)、また夫人・側室などの住まいにあてたられた建物のことです。庭園や遊びや宴会をする施設も付設されていました。奥御殿とも言います。

書院(しょいん)
書斎(しょさい)を兼(か)ねた居間の呼称(こしょう)です。奥向御殿の中心的な部屋になります。

※合坂(あいざか)
雁木(がんき)(石段)を向かい合うように配置したものをいいます。左右に分かれて昇(のぼ)れる利点がありました。長大な塁(るい)になると、いくつも付けることが必要になります。

馬場(ばば)
馬を養ったり、騎馬(きば)を鍛(きた)えたり、馬の乗り継ぎのために設けられた場所のことです。

※虎口(こぐち)
城の出入口の総称です。攻城(こうじょう)戦の最前線となるため、簡単に進入できないよう様々な工夫が凝らされていました。一度に多くの人数が侵入(しんにゅう)できないように、小さい出入口としたので小口(こぐち)と呼ばれたのが、変化して虎口になったと言われます。

※唐破風(からはふ)
軒先(のきさき)の一部を丸く持ち上げて造った「軒(のき)唐破風」と、屋根自体を丸く造った「向(むかい)唐破風」とがあります。もとは神社建築に多く使用された装飾性(そうしょくせい)の高い破風でした。

※廻縁(まわりえん)
建物の周囲に廻(めぐ)らされた縁側のことです。建物の本体の周りに短い柱を立て並(なら)べ、それで縁側の板を支えた物です。天守の最上階に用いられることが多い施設です。

※高欄(こうらん)
廻縁からの転落を防止するために手すりを付けますが、高級な造りの手すりであったため、高欄とか欄干と呼びました。

※華頭窓(かとうまど)
鎌倉(かまくら)時代に、禅宗(ぜんしゅう)寺院の建築とともに中国から伝来したもので、上枠(わく)を火炎形(火灯曲線)または花形(花頭曲線)に造った特殊(とくしゅ)な窓のことです。

次回は「秀吉の城13(指月伏見城)」です

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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