理文先生のお城がっこう 城歩き編 第59回 櫓① その起源と種類

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回は、城を守るための施設として門などに建てられた櫓がテーマです。いつごろどのように誕生したのか? また、どんな種類があるのか? 櫓のルーツや基本について見ていきましょう。

櫓の起源

(やぐら)の始まりが、遠くを見渡(わた)すための物とするなら、縄文時代の三内丸山(さんないまるやま)遺跡(いせき)(青森県青森市)で見つかった、直径約1mの巨大(きょだい)な栗(くり)の柱を6本並べた掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)跡が、遠くを見渡すための櫓の可能性(かのうせい)があるとも言われています。

弥生(やよい)時代には、遠くを見るための物見(ものみ)櫓が確かにあったことが解(わか)っています。吉野(よしのがり)遺跡(佐賀県神埼市、吉野ヶ里町)では、弥生時代後期後半から終末期(3世紀頃(ごろ))になると、遠くを見るための櫓(物見櫓)を備え、環濠(かんごう)(外からの侵入(しんにゅう)を防(ふせ)ぐため周り(ほり)を巡(めぐ)らせることです)によって囲(かこ)まれた特別な空間(北内郭・南内郭)があったことが確かめられたのです。

ここで見つかった物見櫓の形を見ておきたいと思います。6つの柱を使った建物で、西側の物見は梁間(はりま)5.4m×桁行(けたゆき)7.8mの規模(きぼ)をもつ1間×2間の建物でした。柱の穴(あな)の大きさから柱の根元の直径50~70cmと考え、6本の柱で建つ建物が想定され、床高(ゆかだか)6.5m、高さは12mで復元(ふくげん)されています。上に登ると、佐賀平野を遠くまで見渡せます。

吉野ケ里遺跡、物見櫓
吉野ヶ里遺跡に復元された物見櫓。南内郭(くるわ)は集落の支配者(しはいしゃ)が生活していた場所と考えられ、20棟(とう)の建物が復元されています。物見櫓は4棟が復元され、一部は上に登ることが出来ます

古代に東北地方に造(つく)られた城柵(じょうさく)にも櫓があったことが、『日本三代実録』の記録や、志波(しわ)(岩手県盛岡市)の発掘調査(はっくつちょうさ)で見つかり、塀(へい)をまたぐような簡単(かんたん)な施設(しせつ)として復元されています。中世の絵巻物(えまきもの)である「後三年合戦絵詞(ごさんねんかっせんえことば)」や「結城(ゆうき)合戦絵詞」などに描(えが)かれている櫓は、土塀(どべい)の後の方に数人が立てるスペースを設(もう)け盾(たて)で守り、弓を射(い)かけています。極めて単純(たんじゅん)で、簡単にできる施設で「石打棚(いしうちだな)」とも呼(よ)ばれ、屋根なしの射撃(しゃげき)用の場所だったと思われます。

志波城、外郭櫓
志波城に復元された外郭(がいかく)櫓。外郭は南門1棟を中心に、築地塀252m、外郭櫓10棟などが復元されています。櫓は、塀をまたいで6本の柱で支えています

櫓は、「矢倉」「矢蔵」と記され、最初は武器(ぶき)を納(おさ)める倉庫だったと考えられており、戦いが起こった時には攻撃(こうげき)するための兵士などが居(い)る場所ともなったようです。戦国時代になると、敵(てき)方の攻撃を防(ふせ)ぎ、攻(せ)める時の重要な場所として発展(はってん)していくことになります。櫓は、城門とともに城の守りを固めるための大切な建築(けんちく)でした。従(したが)って、天守は無くても、櫓の無い城はありませんでした。

櫓の種類

櫓に割(わ)り当てられた大切な役割(やくわり)は、遠くを見張(みは)ることと高い場所から弓や鉄砲(てっぽう)で敵に撃(う)ちかけることでした。そのため、周囲をよく見渡せ、城壁(じょうへき)に近づいた敵にききめのある攻撃が出来るように、石垣(いしがき)や土塁(どるい)(すみ)っこに多くが建てられることになったのです。隅角(すみかど)に建てれば、2つの方向に対し側面から弓や鉄砲で攻撃できるという有利な点がありました。方形(四角形)をした曲輪(くるわ)では、曲輪の四つの隅に建てられていました。隅に建てられたため「隅櫓(すみやぐら)」とも呼ばれるわけです。近世城郭(きんせいじょうかく)の櫓の多くは「隅櫓」でした。

二条城、二の丸東南隅櫓
二条城二の丸東南隅櫓(重要文化財(ざい))。寛永(かんえい)期(1624~44)に建てられた隅櫓が四隅にありましたが、天明8年(1788)の火災で2基(き)が焼失しましたが、2基は火災を免(まぬが)れ現存(げんぞん)しています

櫓の形や型(かた)は、屋根の重(階)数によって表されます。屋根の重数から、一重(屋根が1つだけ)の櫓は「平櫓(ひらやぐら)」になります。二重の櫓は「二重櫓(にじゅうやぐら)」で、二重の櫓が正当な形をした隅櫓になります。外から見ると平櫓ですが、曲輪の中からだと二重櫓になる櫓も見られます。

伊予松山城、一の門南櫓
伊予(いよ)松山城一の門南櫓(重要文化財)。紫竹門(しちくもん)東塀と本壇(ほんだん)入口を固める平櫓で、桁行3間×梁間2間の規模で、本壇の石垣上に建てられました。嘉永(かえい)5年(1852)に再建された櫓です

「三重櫓(さんじゅうやぐら)」は、天守台用(てんしゅだいよう)櫓ともなるため、巨大な城にしか建てられませんでした。天守を持たない城では、三重櫓を「三階櫓(さんかいやぐら)」「御三階(ごさんかい」と呼んで、天守の代用としていました。幕府(ばくふ)のひざ元である関東地方に多く見られます。これは、幕府に遠慮(えんりょ)して天守を建てずに、代用櫓で済(す)ませていたからだと言われています。

「四重櫓(よんじゅうやぐら)」は、ほとんど建てられませんでした。なぜなら、四重以上の櫓はすべて「天守」と呼ばれることになったからです。三重櫓は、屋根の重数と内部の階数が一緒(いっしょ)にならない城もあります。二重三階櫓(外から見たら二階建てに見えますが、内部は三階の建物です)がほとんどですが、熊本城(熊本県熊本市)宇土(うと)櫓のように、三重五階(外から見たら三階建てに見えますが、内部は五階の建物です)の櫓も建てられました。

名古屋城、御深井丸西北隅櫓
名古屋城御深井丸(おふけまる)西北隅櫓(重要文化財)。慶長(けいちょう)16年(1611)の清洲越(きよすご)しに際(さい)し、清洲城の天守を移築(いちく)した伝承(でんしょう)が残り、「清洲櫓」とも呼ばれます。桁行8間×梁間7間で高さ約16.3mの規模を誇(ほこ)っています

横に長い櫓は、「多門櫓(たもんやぐら)」として区別されています。「多門」「長屋(ながや)」「走櫓(はしりやぐら)」とも呼ばれますが、すべて「多門櫓」になります。松永久秀(まつながひさひで)の「多聞城(奈良県奈良市)」から始まった櫓とされ、「多聞櫓」と書く例もありますが、江戸時代の記録は「多門」と記録されている例がほとんどです。江戸時代は、長屋のことを「多門」と呼んでいたからです。従って、正式な名称は「多門櫓」になりますが、現在(げんざい)は「多聞櫓」と表記されることが多くなっています。

熊本城、東十八間櫓
熊本城東十八間櫓(重要文化財)。本丸の北・東・南を囲む東竹の丸の東辺に設けられた櫓で、北十八間櫓の南に接続(せつぞく)して建っています。加藤清正(かとうきよまさ)が築いた創建(そうけん)当時の慶長6~12年(1601~07)の姿(すがた)を残していましたが、熊本地震(じしん)で罹災(りさい)しました

彦根城、佐和口多門櫓
彦根城佐和口多門櫓(重要文化財)。二の丸の南入口が佐和口で、右側はRC造りの昭和35年(1960)の再建建物です。西側が明和4年(1767)の火災で類焼(るいしょう)した後、明和6~8年にかけて再建された現存櫓で、左隅に望楼(ぼうろう)を載(の)せて二重二階としています

多門櫓は、一重(一階建て)で守りを固め、敵を攻撃することが十分可能な櫓でした。しかし、わざわざ二重にする例もあります。現存例だと「金沢城(石川県金沢市)三十間長屋」があります。また、一重の多門櫓の端部(たんぶ)のみ二階を設けて二重櫓とした例もあります。熊本城宇土櫓の続櫓(つづきやぐら)とか、福岡城(福岡県福岡市)二の丸多聞櫓などがこれにあたります。多門櫓を石垣の塁線(るいせん)(曲輪を区画するために石垣や土塁で造られたラインのことです)上に設けると、外部からの攻撃に対しては非常に守りやすくなるため、多門櫓は本丸を囲む塁線上や城門脇(わき)などの大事な場所に築(きず)かれたのです。

金沢城、三十間長屋
金沢城三十間長屋(重要文化財)。金沢城に現存する唯一(ゆいいつ)の二重二階の長屋建築です。本丸付段(つけだん)に安政5年(1858)に再建され、幅3間×長さ26.5間余りの堅牢(けんろう)な構造の建物でした

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)
礎石(そせき)を使わないで、地面に穴を掘って、そのまま柱を立て地面を底床(ていしょう)とした建物のことです。中世城郭の建物のほとんどがこの建物でした。

※城柵(じょうさく)
7世紀から11世紀にかけて、天皇(てんのう)を中心とした大和政権(せいけん)が、北の辺境(へんきょう)の地(現代の東北地方)に住む人々を支配下に置くために築いた、政治を行うためと軍隊を駐屯(ちゅうとん)させる機能(きのう)を併(あわ)せ持つ施設です。

※石打棚(いしうちだな)
城外の敵を攻撃するなどの場合に、上に乗って応戦(おうせん)する台のことです。城の内部でも、高い場所に窓(まど)が位置する場合には、窓から攻撃できる高さの台として設けられました。

※城壁(じょうへき)
外敵から守るために、城の周囲を囲んで建設された防御(ぼうぎょ)のための壁(かべ)のことで、土や石垣で築かれていました。

隅櫓(すみやぐら)
城の曲輪の隅角に建てられた櫓のことです。通常は、二重櫓になるのが普通でした。

※平櫓(ひらやぐら)
一重の櫓。最も簡略(かんりゃく)な櫓で、平面規模も二重櫓より小さいのが普通です。倉庫的役割が主な櫓になります。

御三階櫓(ごさんかいやぐら)
天守を建てることが出来なかった城では、最高格式の櫓である三重櫓を天守の代用としました。この代用の三重櫓は「御三階櫓」などとも呼ばれていました。幕府にはばかり、天守建築を建てなかった関東地方の城に多く見られます。

※多門櫓(たもんやぐら)
石垣の上などに建物が長く続く、長屋形式の櫓のことです。「多聞櫓」とも書かれます。これは、松永久秀の多聞城で初めてこの櫓を建てたとか、戦いの神である多聞天(毘沙門天(びしゃもんてん))を内部に祀(まつ)っていたためだとか言われます。

※塁線(るいせん)
曲輪を区画するために、石垣や土塁などの構築物で造った連続するラインのことです

次回は「櫓② 櫓の名称その1」です

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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