2021/08/18
日本100名城・続日本100名城のお城 【続日本100名城・美濃金山城】破城跡が残る森蘭丸ゆかりの織豊系城郭
エメラルド色の木曽川を堀代わりにし、中山道の要衝にそびえていた美濃金山城(岐阜県可児市)。織田信長の側近を務め、本能寺の変で最期を迎えた森蘭丸が幼少期を過ごしました。森蘭丸の兄弟や、父・森可成らが居城とした見ごたえのある織豊系城郭を堪能できます。令和元年(2019)年11月に開催された「全国山城サミット」のイベント会場のひとつでもあります。(※2019年9月3日初回公開)
随所に残る織豊系城郭の石垣
搦手側麓に築かれた迫力ある野面積の石垣。美濃金山城と同時期に築かれたと考えられている
美濃金山城のルーツだと考えられているのは烏峰(うほう)城。天文6年(1537)、守護代一族の系譜をひく斎藤正義によって、標高276mの古城山山頂に築かれました。斎藤家の後、織田信長の家臣であった森可成(もりよしなり)が改修し、城の名を「金山城」に改称。織田信長や豊臣秀吉の建築技法の影響を受けた「織豊系城郭」の中でも、石垣・瓦・建物礎石が残る好例として国指定史跡に指定されています。
自然岩盤と石垣を組み合わせた本丸跡。総石垣造りだったと考えられている
本丸虎口(入口)正面の石垣沿いには、4つの柱の土台石である礎石が確認されており、虎口全体を覆うような建物があったと想像できます。また、石垣には等間隔で縦置きした石も配置されていることから、「見せつける」石垣だったと考えられています。
三の丸跡に残る、天端(一番上)と角が崩された痕跡
関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)に美濃金山城は取り壊されてしまいます。城を故意に破壊して再び城が築かれないようにする、「破城(はじょう)」の跡が多く残っているのも、美濃金山城の特徴。特に三の丸跡には、崩れた石垣とともにはっきりとその痕跡が残っています。
織田信長の家臣・森可成が改修し、森蘭丸ら兄弟が過ごす
本丸跡に立つ石碑。本丸を中心として、左翼と右翼に二の丸と三の丸が配置された
永禄8年(1565)、織田信長は東美濃経路の拠点として、森可成を金山城主としました。天正10年(1582)に甲斐(現在の山梨県)の武田氏を攻める途中で信長が金山城に一泊したという記録が残っています。しかし同年に本能寺の変が起こり、信長とともに討ち死にしたのは、森可成の三男・森蘭丸(長定)、四男・森坊丸(長隆)、五男・森力丸(長氏)。兄弟で信長の側近として仕えていました。
2代目・美濃金山城主は、森可成の二男である森長可(ながよし)。武勇にすぐれ、「鬼武蔵」とよばれました。岩村城(岐阜県恵那市)や海津城(長野県長野市)の城主も務めますが、天正12年(1584)、羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康が争った長久手の戦いで最期を迎えてしまいます。こうしてわずか15年ほどの間に、森家の父子6名が亡くなりました。
本丸跡から一望。美濃金山城の北側を流れる木曽川は、物流や交通に利用された
3代目の美濃金山城主には森忠政(ただまさ)が就きます。豊臣秀吉に仕え功績を重ねた後、関ヶ原の戦い直前に徳川家康の命で海津城に移封。美濃金山城は、犬山城(愛知県犬山市)主・石川光吉の領有となり、慶長6年(1601)には天守や諸櫓を一切取り壊し、木曽川を下って犬山城の増築・修復に使われました。また、金山城の諸施設が犬山城に移築されたという「金山越」の伝承(津田房勝『正事記』等)があり、戦前から関心が向けられてきました。
慶長8年(1603)、森忠政は津山城(岡山県津山市)に国替えとなり、以後13年かけて津山城を築城。現在の岡山県津山市の礎を築きました。
どちらの登城道から攻める?大手道と搦手道
大手道の登城口付近。「蘭丸ふる里の森」では桜や紫陽花、紅葉など四季の風景が楽しめる
美濃金山城の登城道は大きく分けて大手道と搦手道の2つあります。大手道側から登ると、「蘭丸ふる里の森」を通って、大手門や三の丸、二の丸を経て本丸へとたどり着きます。登るにつれて増えていく石垣の量や、連続して待ち受ける虎口が、気持ちを高ぶらせてくれます。
搦手道側の麓には、高さ約6m、長さ約40mもの野面積の石垣が広がります。石垣の上の台地には登城する人をもてなすための大きな屋敷があったと考えられ、江戸時代以降は、年貢米を貯蔵する米蔵があったと伝えられています。米蔵跡は、明治11年(1878)ごろから昭和20年代まで、天然氷を製造する製氷地として使われていたそうです。
搦手道の登城口付近。遊歩道が整備されている
また、搦手道側の麓にある「和菓子処 梅園」は、銘菓「蘭丸もなか」など蘭丸シリーズのお菓子が有名ですので、森蘭丸ファンはぜひ立ち寄りたいですね。
大手道と搦手道、それぞれに楽しみ方がありますので、できれば両方の利用がおすすめです。
かつての城下町の名残がわずかに残る搦手道側の麓
美濃金山城の軍事も経済を支えた兼山湊
兼山湊跡では木曽川の清流を目近で感じられる
城下町周辺には、木曽川に面した「兼山湊(かなやまみなと)」の跡が残っています。室町時代末期頃から記録に登場し、木曽川を使った木材の輸送や、森家の軍事的要衝として利用されるのにとどまらず、城下町経営のため、経済、交通手段の拠点にもなりました。
永禄11年(1568)には、織田信長が京都へ上洛の際、京都御所修築用木材を、木曽から馬荷駄で運び、兼山湊で船積みをしたといわれており、時代が下がって江戸時代以降も活用されていきます。
美濃金山城の情報を収集はバス停留所周辺で
レトロな造りの名鉄「明智駅」。路線バス乗り場は駅前すぐ
美濃金山城への最寄り駅は名鉄「明智駅」。明智駅からは路線バスの「YAOバス」を利用します。「城戸坂」停留所は大手道側の登城口、「元兼山町役場前」停留所は搦手道側の登城口へのアクセスに便利です。
また、「元兼山町役場前」停留所付近にある、続100名城スタンプ設置場所の可児市観光交流館や、戦国山城ミュージアムもお見逃しなく。可児市観光交流館では、甲冑体験のほか、甲冑を着用して美濃金山城を登城する「イクササイズ」も体験できます。(※スタンプの設置場所は変更になる場合があります。事前にご確認ください)
「城戸坂」停留所から見上げた美濃金山城
麓で入念な情報収集をして、織豊系城郭と森蘭丸ゆかりの地である美濃金山城を、ぜひ堪能してください。
令和元年(2019)年11月9日、10日に開催される「第26回全国山城サミット」の会場は、美濃金山城のある可児市。美濃金山城でもイベントが予定されています。(※第26回全国山城サミットは終了しています)
美濃金山城
住所:岐阜県可児市兼山
電話番号:0574-62-1111(可児市役所)
入城時間:自由
料金:無料
アクセス:名鉄広見線「明智駅」からYAOバスで約15分、「元兼山町役場前」または「城戸坂」停留所下車、徒歩15分で登城口
執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。異業種とコラボした城を楽しむ体験プログラムを実施。旅行雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)などを編集。
※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています。