理文先生のお城がっこう 城歩き編 第16回 石垣山城を歩こう 2

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。16回目の今回は、前回「石垣山城を歩こう 1」の続きとなります。石垣山城の魅力とは? 石垣山城の見どころを理文先生といっしょに見ていきましょう。



■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第15回 石垣山城を歩こう 1」はこちら

2019年3月30日に、「城びと」の「小・中学生向け石垣山城ツアー」を開催しました。そこで、ツアーに参加できなかった皆(みな)さんに、石垣山城(いしがきやまじょう)の魅力(みりょく)を少しでも解(わか)っていただけたら、あるいはご両親(りょうしん)と機会(きかい)を見つけて行ってみる時の参考になるよう、その見どころをまとめてみたいと思います。ツアーに参加した皆さんは、復習(ふくしゅう)を兼(か)ねてあらためて石垣山城に登った日を思い出してください。

今回は前回の続きです。前回、本城曲輪(ほんじょうくるわ)まで行きましたので、今回は本城曲輪から北虎口を降(お)りて、馬屋曲輪(うまやくるわ)(二の丸)そして最大(さいだい)の見どころ「井戸曲輪」(いどくるわ)へ向かいます。図面は、前回と同じものを載(の)せておきますので参考(さんこう)にしてください。

石垣山実測図
史跡(しせき)石垣山実測(じっそく)図(『史跡石垣山(石垣山一夜城)早川石丁場群関白沢支群』2012 小田原市教委)
度重(たびかさ)なる大地震(だいじしん)にも耐(た)え、今日まで当時の面影(おもかげ)が大変よく残されています。この地は国立公園区域(くいき)(およ)び国指定史跡(くにしていしせき)に指定(してい)されています。近年(きんねん)、城跡(じょうせき)の樹木(じゅもく)が伐採(ばっさい)され、城の様子が非常に見やすくなりました

1 本城曲輪北虎口(こぐち)へ降りて行こう

本城曲輪北側の西寄りに築(きず)かれ、馬屋曲輪(二の丸)に通じる北口城道のルートです。本城曲輪から一段低くなっており、四角形の枡形空間(ますがたくうかん)を設けています。本来は、内枡形虎口(うちますがたこぐち)になるのでしょうが、周囲を囲んでいた石垣の多くが崩(くず)れ、本来の姿形がはっきりしません。門と石段があったのでしょうが、どこに門があったのか、また門が2つだったのか、1つだったのかもわかりません。馬屋曲輪へは、逆(ぎゃく)L字状(じょう)に折(お)れた道が続いています。この道に横矢(よこや)を懸(か)けるように、本城曲輪北面が高石垣(たかいしがき)になり、防御(ぼうぎょ)強化(きょうか)が図(はか)られています。本城曲輪の搦手口(からめてぐち)と思われますが、南側大手口と同様(どうよう)の工夫を凝(こ)らした虎口です。

本城曲輪北虎口、桝形、本城曲輪北面
左が本城曲輪北虎口の桝形内部に落ちた石材の状況で、かなり崩落(ほうらく)しています。右は、本城曲輪北面の石垣です。崩落はしていますが、中央部の上部に本来の石垣が見えています

2 馬屋曲輪(二の丸)の特徴を見ておこう

本城曲輪から北門を通って降りた場所が、二の丸に相当する馬屋曲輪です。東西100m×南北80m程の広さで、本城曲輪とほぼ同じくらいの大きさを持つ曲輪です。中心となる平らな部分、北側へ長方形に張(はり)出した部分及び東側の腰曲輪(こしくるわ)部分の3つによって構成(こうせい)されています。

『新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふどきこう)』では、二の丸となっていますが、伝承(でんしょう)では、ここに馬屋が置(お)かれ、本城曲輪寄りに「馬洗い場」と呼ばれた湧水(ゆうすい)があったと言われます。現状(げんじょう)では、その痕跡(こんせき)を認(みと)めることは出来ません。馬屋曲輪から本城曲輪を見ると、崩落はしていますが、完成直後は見事な高石垣であったことが解(わか)ります。

中央(ちゅうおう)部分に、当時の状況(じょうきょう)を残した石垣を見ることが出来ますので、確認(かくにん)しておきたいですね。この曲輪に出入りする門は、3カ所確認(かくにん)されています。1つは、本城曲輪北門、2つ目は南東隅(すみ)に位置(いち)する南腰曲輪北門、3つ目が井戸曲輪及び北口外門へと通じる北口中門です。この北口外門が本来の大手口ではないかという見解(けんかい)も示(しめ)されています。

北口中門は、馬屋曲輪北側にある櫓台(やぐらだい)が門跡(もんあと)になります。櫓台は、曲輪面より約1.4m高く、北西-南東が長いほうの軸(じく)になる平面形をしています。規模(きぼ)的には、15m×9m程を測(はか)ります。

享保(きょうほう)5年(1720)に描かれた「太閤(たいこう)御陣城相州石垣山古城跡」では、門の幅(はば)が3間(約5.4m)あったと記されています。なお、後にふれますが東下側へ降(お)りる通路は、近年に設けられた公園(こうえん)管理(かんり)用の園路(えんろ)で、往時(おうじ)の通路ではありません。

この曲輪の北東側隅に「馬屋曲輪展望(てんぼう)台」があります。箱根湯本(はこねゆもと)の山々を望むことが出来ます。かつては、眼下(がんか)に東海道(とうかいどう)や箱根湯本の街並み、紹太寺(しょうたいじ)の伽藍(がらん)などが見えましたが、正面の樹木(じゅもく)が成長し遮(さえぎ)ってしまっています。

二の丸、北口中門の跡
本丸より見た二の丸(左)です。本城曲輪同様の広大な規模であることがわかります。右は、北口中門の跡です。一段高い櫓台が門跡になります

3 井戸曲輪

井戸曲輪は、馬屋曲輪(二の丸)北東側にあり、もともと沢(さわ)のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁(かべ)で囲むようにして造られている場所で、東西65m×南北50m程の規模です。この時期の井戸は、水の通り道となる谷地形を石塁(せきるい)などで堰(せ)き止め、その内部に石組の方形の井戸を造(つく)る例(れい)が多く見られます。安土城(あづちじょう)(滋賀県近江八幡市)や高取城(たかとりじょう)(奈良県高取町)にも同様(どうよう)の形の井戸が、今も残されています。

井戸は、二の丸から25mも下がったところにあり、谷を堰き止めるように内側と外側の壁を石垣によって積み上げた石塁(せきるい)で北側と東側を囲み、西側と南側の斜面(しゃめん)にも石垣(いしがき)が積まれています。石塁の規模を見ておきましょう。下幅が11.5~17.5m、上幅が5.8~7.0mで、高さは約10mにもなります。井戸は谷の湧水を利用したもので、400年が経過(けいか)した今でも湧(わ)き出る水を見ることができます。

井戸の底から約6m上方の東・南・西側には、テラス状の平坦(へいたん)面が設(もう)けられています。ここから螺旋状(らせんじょう)の石段を設けて取水口まで降(お)りて、水を汲(く)んでいました。なお、井戸曲輪への通路は、北口中門から入る現在(げんざい)の通路ではなく、馬屋曲輪北東隅付近(ふきん)から入っていたと考えられています。

井戸曲輪、石塁
井戸曲輪を堰き止める石塁の規模を見てください。高さ、幅とも圧倒(あっとう)的な規模を誇(ほこ)っています。中央のくぼんだ箇所(かしょ)が「井戸」の湧水地点です。眼下(がんか)には相模湾(さがみわん)を見ることが出来ます

この井戸は「淀君化粧井戸(よどぎみけしょういど)」または「さざゑ(さざえ)の井戸」とも呼ばれています。前者は、秀吉(ひでよし)が大坂から淀君を呼び寄せたことから、ここの水で化粧(けしょう)をしたとでも考えたのでしょう。後者(こうしゃ)はまるでさざえのように通路が回りながら井戸に続いていることから付けられたと思われます。

井戸曲輪の石垣は、石垣山城の中でも特に当時の姿をよく留(とど)めている部分で、その石垣の特徴(とくちょう)を知るうえで貴重(きちょう)な遺構(いこう)となっています。石垣が崩れそうで危険(きけん)な個所(かしょ)にはネットが張ってあります。近づかないように注意して見学してください。

井戸、 汲取 口
井戸の汲取 口 (くみとりぐち)です。左側が崩れていますが、 かつては方形に 囲まれ、一段 上 と二段上に 平坦面 が確保されていたようです

4 馬屋曲輪東面の石垣

井戸曲輪を見学した後、馬屋曲輪東側斜面から東曲輪中段へと続く公園管理用の新しい園路があります。整備(せいび)と樹木(じゅもく)伐採(ばっさい)と草刈(か)りによって、非常(ひじょう)にきれいに馬屋曲輪東面の石垣が約100mに渡って見えるようになりました。やはり、ここも高石垣になっています。隅角は、シノギ積になっている個所が多く見受けられます。南東部の石垣と東曲輪との入隅(いりすみ)部分は、良く旧状(きゅうじょう)を留めており、往時(おうじ)の石積の状態(じょうたい)が確認できます。短期間で築いた城ですが、石垣構築(こうちく)技術は先進的であったことが良く解(わか)ります。

東曲輪の石垣、二の丸の石垣
左側が東曲輪の石垣で、正面が二の丸の石垣です。かなり崩落した部分もありますが、旧状を留めている部分も見られます。高石垣に囲まれた城は、陣城(じんしろ)というより拠点(きょてん)城郭(じょうかく)の趣(おもむき)があります

5 南曲輪の石垣

城内(じょうない)で最(もっと)も旧状を残す石垣が、南曲輪南面石垣です。東面も崩れてはいますが、一部旧状を留める個所が残されています。隅角部分は、崩れてはいますが旧状が解り、まだ算木積(さんぎづみ)(横長の石材を短辺と長辺を交互に組み上げた石垣)が完成(かんせい)途上(とじょう)であったことが見て取れます。

ここに使用されている石材(せきざい)は、石垣山周辺で多く産出(さんしゅつ)される安山岩(あんざんがん)転石(てんせき)(転がっている石)で、ほとんど未加工(みかこう)の大きさの異(こと)なる石を積み上げています。俗(ぞく)に「野面(のづら)積み」と呼ばれる石垣で、石材間の隙間(すきま)には丁寧(ていねい)に間詰石(まずめいし)が積められてもいます。

石垣の角度にも注目しましょう。江戸時代の石垣と異なり、非常に緩(ゆる)い勾配(こうばい)で立ち上がっています。勾配の緩やかなことも、天正の終わりから文禄(ぶんろく)年間に積まれた石垣の大きな特徴(とくちょう)の一つです。

石垣山城、石垣
石垣山城内で最も築かれた段階の様子を残す石垣です。高さや斜面の勾配、石と石の間に詰められた小型の間詰石の状況などが確認できます。この石垣が、天正18~19年の姿とわかる極めて貴重な石垣です

6 北曲輪(三の丸)と出曲輪

北口中門から井戸曲輪に至(いた)る途中、北へ折れて井戸曲輪西側の帯曲輪状の平坦面を北上すると北口外門に至ります。この先が、北曲輪(三の丸)になるわけですが、民有地(みんゆうち)となり見学は出来ません。また、南曲輪・西曲輪の南側にある大堀切(ほりきり)を隔(へだ)てたところにあるのが出曲輪です。ここも民有地で見学することは出来ません。

これで、石垣山城をぐるりと一周したことになります。石垣山城は、作られた年代と築城(ちくじょう)者がはっきりしている上に、廃城(はいじょう)年代もほぼ押(お)さえることが出来ます。このように、年代の押さえが解る城は、極(きわ)めて貴重(きちょう)で城の歴史を知る上で、重要(じゅうよう)な役割を果たしています。

次回(第17回)は、「堀の役割と種類を見てみよう」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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