理文先生のお城がっこう 城歩き編 第15回 石垣山城を歩こう 1

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」城歩き編。今回は、石垣山城について解説します。石垣山城が築かれた理由は? また、石垣山城とは? その歴史とともに、石垣山城の見どころも紹介します。



■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第14回 最強の虎口「桝形虎口」2」はこちら

2019年3月30日に、「城びと」の「小・中学生向け石垣山城ツアー」を開催しました。そこで、ツアーに参加できなかった皆さんに、石垣山城の魅力を少しでも解っていただけるように、あるいはご両親と機会を見つけて行ってみる時の参考になるよう、その見どころをまとめてみたいと思います。ツアーに参加した皆さんは、復習を兼ねてあらためて石垣山城に登った日を思い出してください。

石垣山城は、どうして築かれたのでしょう

石垣山(いしがきやま)は、もともと「笠懸山(かさかけやま)」と呼ばれていましたが、天正(てんしょう)18年(1590)に豊臣秀吉が水軍(すいぐん)を含(ふく)めて15万もの大群を率(ひき)いて小田原北条(ほうじょう)氏の居城(きょじょう)・小田原城を取り囲み、その本陣(ほんじん)(総大将が城攻めのために宿泊した場所)として総石垣(そういしがき)の城(曲輪(くるわ)のすべてを石垣造りとした城)を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。

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北条氏段段階の主要部から見た石垣山城跡。ここに突如(とつじょ)関東初の総(そう)石垣の城が出現しました。今まで見たこともない城の出現に、小田原城に籠城(ろうじょう)していた軍勢(ぐんぜい)は、秀吉の底知れぬ力を見せ付けられ、一気に戦意を失ってしまったと言われています

この城が、後の世に石垣山一夜城(いちやじょう)または太閤(たいこう)一夜城と呼ばれるのは、秀吉が城を築くにあたり、山頂の林の中に塀(へい)や櫓(やぐら)の骨組みを造り、白い紙を張って白い漆喰(しっくい)(壁の上塗りなどに使われる消石灰を主成分とした建材)で塗った壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採(ばっさい)し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気(しき)を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人を動員し、天正18年4月から6月まで約80日間が完成までに費(つい)やされました。秀吉は、この城に淀君(よどぎみ)ら側室(そくしつ)や茶人の千利休(せんのりきゅう)、能役者(のうやくしゃ)を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使(ちょくし)(天皇の使者)を迎えたりしました。

この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、自然石を積み上げた野面積(のづらづみ)という積み方で積まれました。長期戦に備えた本格的な城であったといわれています。

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史跡石垣山実測図(『史跡石垣山(石垣山一夜城)早川石丁場群関白沢支群』2012 小田原市教委)
度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定されています。近年、城跡の樹木が伐採され、城の様子が非常に見やすくなりました

東口城道から南曲輪へ

駐車場側にある入口から南曲輪・南腰曲輪(みなみこしくるわ)を通って本城曲輪(ほんじょうくるわ)へと続く道を東口城道(ひがしぐちじょうどう)と呼んでいます。城内道は、逆L字状に直角に折れて南曲輪の北東側に造られた虎口(こぐち)(中門)に続いています。道は、右側の三段の東曲輪、左側の南曲輪に挟(はさ)まれ、正面にも南腰曲輪から続く同じ高さの平坦(へいたん)面があります。一段低い道は切通(きりどお)しのようで、三方向から狙(ねら)い撃(う)ちできる、非常に守りを固めた通路になっています。途中大きな石がいくつも通路に崩れ落ちています。よく見ると、通路の側溝(そっこう)(道の両端や片端に造られた排水のための溝)の跡(あと)もわかります。

中門を抜けた場所に位置するのが南曲輪です。東西35m、南北25mほどの狭い曲輪です。東口城道から侵入(しんにゅう)してくる敵を攻撃(こうげき)するための役割が考えられます。この曲輪の最大の見どころは、南面と東面に残されている石垣です。城を一周してきた最後に見ることにしましょう。

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「東口城道」は、元の通路を覆(おお)うように石材が散乱(さんらん)しています。石垣に使われた石材がかなりの大きさだったことがよくわかります。写真左下が側溝の石列です

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左側の写真は、曲輪内から見た「東口城道」です。正面が東曲輪になります。道は、直角に折れて曲輪に入ってきました。右側が、城内から見た「南曲輪」です。面積は狭くても、通路を守る重要な役割を持っていました

西曲輪へ向かおう

南曲輪の一段上にある南腰曲輪の南側の突きあたりを西へ直角に曲がったところに門の跡が残っています。この門跡が、西曲輪への入口にあった西曲輪東門です。南西側には門の櫓台(やぐらだい)の石垣が残されていますが、崩れてしまっています。北側の本城曲輪の石垣も崩れ落ちているため、門の元の大きさや形がよくわかりませんが、櫓門(やぐらもん)があったのかもしれません。

門を抜けた場所が西曲輪です。天守台(てんしゅだい)と本城曲輪の南下に位置し、東西85m、南北50mほどの広さです。曲輪の南西隅に曲輪より70㎝程高い櫓台の跡が確認できます。西曲輪の南側には、城内最大規模の大堀切(だいほりきり)が設けられ、西側の守りを固める重要な曲輪だったことが解ります。大堀切は、当時の形があまり残っていませんが、急に低くなっていることは今でも確認されます。

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西曲輪の正面口であった「西曲輪東門」跡は、石材がかなり崩落し、原型が失われています(左側の写真)。「西曲輪」は、天守台と本城曲輪の南下の曲輪で、南の守りの拠点となる曲輪でした(右側)

東曲輪を通って、本城曲輪(本丸)をめざそう

来た道を戻ると、中門跡の先に東曲輪が良く見えてきます。東口城道の北側に段々畑のように三段で造られた曲輪で、合わせて東曲輪と呼んでいます。一番上の上段と中段の差が約10m、中段と下段の差が6m程です。大きな段差を持ちながら東口城道に沿って100m程細長く伸びているため、城道を守る役目が考えられます。

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左側の写真の「東曲輪」は斜面に高低差(こうていさ)があるため、階段状に三段で構成(こうせい)されています。手前が下段、奥に見えるのが上段です。右側の「本丸東虎口」へ続く城道は、逆L字型の通路で、石垣に挟まれた間を通るように工夫を凝(こ)らしています

東曲輪から本城曲輪へと続く城道を通って、本城曲輪へ入りましょう。道は、東口城道とほぼ同様の構造で、鍵の手に折れて本城曲輪へと続いています。本城曲輪は、石垣山城の本丸に相当する曲輪です。石垣山城の中で最大の面積を持つ曲輪で、東西105m、南北95mほどの平らな場所になっています。ここには、秀吉が小田原城攻めをしている間、生活した御殿(ごてん)がありました。よく見ると、建物の柱を支えていた礎石(そせき)を見ることが出来ます。ここからは、小田原城を真下に見下ろすことが出来るので、展望台(てんぼうだい)が設けられています。展望台からは、小田原城だけでなく町全体を見下ろすことが出来ます。小田原合戦では、北条方の動きが手に取るようにわかったのではないでしょうか。

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城内で最大規模を誇る「本城曲輪(本丸)跡」が、政治と生活の中心施設が置かれた場所です。秀吉は、小田原攻めの間ここで生活をしていたことになります

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展望台から見た小田原の街
ここから見下ろすと、約2.6㎞先にある小田原城天守閣(てんしゅかく)とその背後にある相模湾(さがみわん)を一望することが出来ます。「関東の連れしょんべん」と言われるのは、秀吉が石垣山から山下を見下ろし、北条氏が降参(こうさん)したら家康に「関東八州」を与えることを約束し、並んで小田原城に向って立ち小便をしたことに由来(ゆらい)します。ここでは、そんな景色を見ることが出来ます

天守台へ行こう

天守台は、本城曲輪の南西隅から西曲輪へ張り出すように造られています。本城曲輪から約4m、西曲輪からは10mほど高くなっています。天守台の石垣は、ほとんど崩(くず)れ落ちていますが、東西に長い長方形をしていたと考えられています。崩れた石垣の間には、数えきれないほどの瓦(かわら)が見つかっており、天守が瓦で葺(ふ)かれていたことが確実です。この中に「天正十九年」と書かれた瓦が見つかりました。この天守が、関東より北側で初めて瓦を葺いた建物だったのです

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左が、西曲輪から見た天守台で、右が本丸から見た天守台です。かつては、四周を石垣が取り囲んでいましたが、現在はほとんどの石材が崩落(ほうらく)しています。石材一つひとつが大きく、天守の威厳(いげん)を示していたようです

本城曲輪には、門が東門と北門の二カ所に設けられていました。次回は、この北門を下がって、二の丸そして最大の見どころである井戸曲輪(いどくるわ)をめざします。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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