理文先生のお城がっこう 城歩き編 第14回 最強の虎口「桝形虎口」

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回は、最強の虎口(こぐち)「桝形虎口(ますがたこぐち)」がテーマです。桝形虎口とはいったいどんな構造なのか。理文先生といっしょに見ていきましょう。



■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第13回 虎口(こぐち)の役割と種類を考えよう」はこちら

前回、様々な虎口についてまとめてみました。単純(たんじゅん)に真っすぐ入るより、折(お)れ曲げて側面(そくめん)から攻撃(こうげき)出来るようにするなど、敵(てき)方が中へ入りにくい構造(こうぞう)としていったことが解(わか)りましたか。虎口は、城を守る側が、より守りやすいような工夫を凝(こ)らしていたのです。今回は、そうした虎口の中で最強の虎口と言われる「桝形虎口(ますがたこぐち)」とは、いったいどんな構造(こうぞう)をしていたのかを考えて見ましょう。

枡形虎口とは、どんな構造をしていたのでしょう

戦国時代の末期(まっき)になって、初めて造(つく)られた形の虎口です。虎口の前面に方形(ほうけい)(四角形)の空いた場所を設(もう)けることで、直角に曲がらないと門へ入れないため、より横側からの効(き)き目のある攻撃(こうげき)が出来るようになったのです。造られ始めた頃は、門が一つしかありませんでしたが、やがて方形の区画を石垣(いしがき)や土塁(どるい)・堀(ほり)によってほぼ四方を囲い込み、前と後にそれぞれ門を構(かま)え、二つの門を配置(はいち)する形が広く行きわたるようになりました。

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熊本城の門が一つしかない桝形 左が西出丸西大手門、右が西出丸南大手門(罹災前)

この四角形の空間(桝形)は、城(しろ)を守備(しゅび)する兵士(へいし)たちにとって、城の外で攻めかかってこようとする敵への武器(ぶき)や装備(そうび)を準備して備える場所にもなりました。もし、ここが敵の手に落ちたとしても、周りを石垣や土塁によって囲(かこ)い込んであるため、敵の動きを封(ふう)じることができたのです。こうした桝形空間の内部を仕切って、桝形を二つ連続(れんぞく)させることで、より守りを固めようとすることもありました。二つ連続(れんぞく)するような枡形を、連続枡形(れんぞくますがた)と呼(よ)んでいます。

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桝形門模式(もしき)図(大坂城大手門)イラスト:香川元太郎

外枡形(そとますがた)と内枡形(うちますがた)

枡形虎口を大きく分けると外枡形内枡形、二つの枡形が混(ま)じり合ったような形のものがあります。曲輪(くるわ)の外側にとび出して造られた枡形(四角形の空間)を外枡形(出枡形(でますがた))といいます。反対に、曲輪の内側に枡形を設けたものを内枡形と呼びます。

一部分が、外側に突(つ)き出たり、一部分が内側に入り込んでいたりするのが両者の混合型(こんごうがた)になります。

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混合型(こんごうがた)の江戸城の桝形門  大手門(左)と清水門(右)は、左右は逆(ぎゃく)になりますが、鉤(かぎ)の手に曲がる場所に桝形を設けるため、堀に面するのは二面のみになるのが、江戸城の特徴(とくちょう)の一つです。

曲輪の内部から虎口部分を外側に飛び出させた形の外枡形は、使える空間(場所)がその分だけ増えることになりました。また、多くが外にとび出た枡形の三方を堀で囲んでいたため、攻め寄せる敵方に対する前線の武器や装備(そうび)を準備して備えるなど、城を守備する兵士たちの活動の足場となる重要な地点にもなったのです。

曲輪の内部の空間に虎口部分を包み込むような形をした内枡形は、曲輪の内部の面積を減(へ)らしてしまうという大きな欠点がありました。しかし、外枡形とは違って三方が曲輪と隔(へだ)てられることなく続いているため、枡形の後ろ側にも守備兵を配置(はいち)することが出来るため、枡形に入り込んだ敵に対し、三方向から連続して攻撃を仕掛(しか)けることがたやすくできました。

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外桝形(出桝形)(左)と内桝形(右)の模式図   イラスト:香川元太郎

軍学書(ぐんがくしょ)による枡形の良い結果をもたらす働(はたら)きとは

甲斐国(かいのくに)の戦国大名(せんごくだいみょう)である武田氏(たけだし)戦略(戦争に勝つための総合的・長期的な計略)戦術(戦いに勝つための個々の具体的な方法)を記した『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』などの軍学書(戦いでの兵の動かし方・勝つための具体的な方法などや、中国の春秋時代の武将・孫子の兵の動かし方や剣術を中心とする武術に関する学問をまとめた本)では、桝形空間の理想(りそう)の大きさを「五八(ごはち)」としています。

それは奥行(おくゆき)(正面手前から奥にかけての寸法)が五間(約10m)、間口(まぐち)(敷地の幅)八間(約16m)、面積40坪(約130㎡)が決まった型ということです。そこに騎馬武者(きばむしゃ)(馬に乗った戦闘兵)25騎から30騎、一騎(いっき)につき従者(じゅうしゃ)(主人の供をする人)4名を収容(しゅうよう)することができるとしています。

軍学書が理想とする大きさの枡形は、おそらく中世段階(だんかい)の小規模(しょうきぼ)なお城のものでしょう。実際(じっさい)に残っている枡形を見ると、名古屋(なごや)城本丸表門枡形は11・5(約21m)×10間(約18m)、江戸城外桜田門(さくらだもん)枡形は15・5(約28m)×21・5間(約39m)、徳川(とくがわ)大坂城大手門枡形に至(いた)っては17(約31m)×28間(約50m)と、軍学書が理想とした大きさの実に10倍以上の広さを持っていることになります。

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駿府(すんぷ)城二の丸東大手門桝形を見る。巽櫓(たつみやぐら)から門へせまる敵兵の攻撃ができるようになっていました。

枡形内部では、必ず通っていく道を折り曲げさせることだと軍学が教えています。また、奥にある主に櫓門(やぐらもん)となる一の門と、手前の高麗門(こうらいもん)となる二の門は向きを、直角にずらすのが良いとしています。だが、実際の門を見ると直角ではなく、左右にずらしただけの枡形も多く見られます。折れ曲がりの方向も右折れにするのが決まったやり方だと説明しています。そのためでしょうか、桝形の多くは右折れを採用(さいよう)しています。だが実際の枡形門を見ると、桝形が曲輪の右の端(はし)に設けられたため、左折れになっていることも少なくありません。高麗門と櫓門の二つの門によってはさまれた枡形の登場は、関ヶ原合戦(せきがはらがっせん)以降(いこう)のことになります。

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大坂(おおさか)城大手の高麗門(左)と櫓門(右)


今日ならったお城の用語

桝形(ますがた)
門の内側や外側に、攻め寄せてくる敵が真(ま)っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗門、奥に櫓門が造られるようになります。

連続桝形(れんぞくますがた)
桝形を二つ連続させてたものを呼びます。高低差(こうていさ)があるため、折れを続けて設けると、自然に連続する桝形になることが多く見られます。熊本(くまもと)城などが好例(こうれい)です。

外桝形(そとますがた)
曲輪の外側に飛び出して造られた桝形のことです。飛び出す分だけ、使える場所が増えるという利(りてん)がありました。

内桝形(うちますがた)
曲輪の内側に造られた桝形です。敷地(しきち)面積が減ってしまうという難(なんてん)がありますが、その後ろにも兵を置(お)くことができるため、より強固(きょうこ)な防備(ぼうび)を持たせることができました。

軍学書(ぐんがくしょ)=江戸軍学 ※
戦いでの兵の動かし方・勝つための具体的な方法などや、中国の春秋時代(しゅんじゅうじだい)の武将(ぶしょう)・孫子(そんし)の兵の動かし方や剣術(けんじゅつ)を中心とする武術に関する学問をまとめた本のことです。

櫓門(やぐらもん)
二階建ての門で、階下が城門、階上が櫓になる形の門のことです。両脇(りょうわき)が石垣になることが多いですが、石垣のない城では、単独(たんどく)の総(そう)二階建ての門になります。最も、強固な門です。

高麗門(こうらいもん)
冠木(かぶき)(門の左右の柱の上部を貫く横木のことです)の上だけをおおう小さな切妻造(きりづまづくり)の屋根を架(か)け、二本の控(ひか)え柱の上にも別々に小さな屋根を架けた門のことです。慶長(けいちょう)年間頃(ころ)から使われるようになります。

※は、再掲(さいけい)

次回(第15回)は「石垣山城を歩こう 1」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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