お城の現場より〜発掘・復元最前線 第14回 【浜松城】出世城の下に埋まっていた豊臣時代の浜松城

日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、浜松市市民部文化財課 鈴木一有さんによる、徳川家康の居城・浜松城のレポート。発掘調査で判明した織豊期の姿とは…?



浜松城、天守、曲輪、平面図
天守曲輪周辺の平面図。赤く着色された部分が今回の調査箇所だ

発掘された堀尾氏時代の石垣

浜松城は、元亀元年(1570)に徳川家康が築いた城です。家康はそれまで当地にあった引馬城を拡張し、その名を改めるとともに要塞化を進め、武田信玄との対決に備えました。元亀3年(1572)に武田信玄と徳川家康の間で起こった三方ヶ原の戦いは、家康の惨敗に終わりましたが、浜松城は直接攻められることがなく守り抜いています。

天正18年(1590)の小田原の陣の後、徳川家康は江戸に移り、その代わりに豊臣秀吉の重臣である堀尾吉晴が新たな城主となります。吉晴は、それまでの土造りの城を改め、高い石垣を備え、瓦葺の建物をもつ姿に浜松城を大改修します。確かな記録はありませんが、このときに天守も建てられたとみてよいでしょう。

2018年に実施した発掘調査によって、この時期の浜松城の天守曲輪には高さ3mを超える石塁がめぐっていたことが判明し、私たちの想像を絶する特徴をもつ織豊期の城郭の実態が明らかになりました。

浜松城、天守、曲輪、石垣、石塁
天守曲輪石垣の調査状況。トレンチからのぞく野面積の石塁

この発掘調査で天守曲輪の石塁内側6か所にトレンチを入れたところ、6か所のうち5か所のトレンチで石塁が確認でき、下の模式図に示したとおり、最も高いところで9段分の石垣が現在の地表面下に埋もれていることが判明しました。この石塁は、後の時代に厚さ2m以上にわたり盛り土が造成されています。

浜松城、天守、曲輪、石垣、断面模式図
 天守曲輪石垣の断面模式図。堀尾氏時代のものと考えられる高さ約2.5m、幅約3mの石垣が確認された

この造成土からは堀尾氏在城期(1590~1600)とみられる瓦が大量に出土しました。出土遺物の時期がまとまっていることから、天守曲輪の造成は安土桃山時代末から江戸時代初め頃に行われたことがうかがえます。豊臣政権下に築かれた城郭の姿を否定する徳川政権下の動きが具体的に読み取れるでしょう。

浜松城、天守、曲輪、瓦、堀尾氏時代、発掘
天守曲輪から発掘された堀尾氏時代の瓦。天守曲輪造成時期推定の手がかりとなった

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、堀尾氏は東軍につき、軍功をあげます。堀尾氏はその功績によって出雲と隠岐を与えられ、島根県安来市の富田城に入り、ほどなくして松江に壮大な天守を築きました。近頃、国宝に指定された松江城天守は、浜松城に建てられていた天守を参考にして設計されたものと考えられ、両者の関係に注目が集まっています。

堀尾氏が去った後の浜松城では、徳川の譜代大名たちが城主を務めます。江戸時代、浜松城主は幕閣の要職に就く大名が通過する出世コースに位置づけられていました。浜松城主からは老中に6人、大坂城代に2人、京都所司代に2人が登用されていることから、浜松城は別名「出世城」ともよばれています。

明治6年(1873)の廃城令の後、浜松城の大部分は民有地化され開発が進みますが、天守曲輪と本丸は公園として残り、現在に至ります。その中心地は堀尾氏が築いた織豊期の石垣が残り、荒々しい野面積の姿を今でも見ることができます。

浜松城、復元、堀尾氏時代、石垣
 調査結果をもとに復元された堀尾氏時代の石垣

天守台には1958年に復興天守が建てられ、現在、歴史資料が見学できる展示館として使われています。また、2009~2012年には天守曲輪正門にあたる天守門跡の発掘調査を行い、天守門の礎石や渡り櫓の跡を確認しました。こうした発掘の根拠をもとに2014年には天守門が再建され、かつての歴史的景観がうかがえるようになっています。

浜松城、天守、曲輪、遠景、天守門
浜松城天守曲輪の遠景。手前に見えるのが、2014年に復元された天守門


浜松城(はままつ・じょう/静岡県浜松市)
浜松城は、今川氏の衰退により遠江に進出した徳川家康が築いた城。家康の関東移封後は堀尾吉晴(ほりおよしはる)が城主となりましたが、江戸時代に入ると浜松城主は徳川譜代の大名に任されるようになります。歴代城主に老中や奉行など幕府の要職を務めた人物が多く、天保の改革で有名な水野忠邦(みずのただくに)もその一人。

執筆/鈴木一有(浜松市市民部文化財課)

写真提供/浜松市市民部文化財課

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