前田慶次の自腹でお城めぐり 【第26回】凸田中城 後編~令和も難攻不落の城~

お城に関する豊富な知識を持つ前田慶次様(名古屋おもてなし武将隊®)による田中城紹介の後編。本丸櫓は遊興のための施設!? そしてお堀を見て回っていた慶次様に異変が!?

皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。

此度(こたび)城びとと同盟を結び、此の前田慶次が連載を持つ事と相成った。
先ずは、名乗りを上げよう。

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

前田慶次齢四八十三歳。戦国の世では天下御免ノ傾奇者として名を馳せ申した。現世に蘇りは名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に名古屋を世界一の観光都市にせんが為、日々戦働きに勤しむ。

演武といったパフォーマンスなるものを披露し、全国各地に遠征を繰り広げる。
結成十六年目を迎え、全国の武将隊の先駆けとして日ノ本を代表とする武将隊である。
して、儂前田慶次は現世に蘇り歴史の語り部として多くの戦に出陣して参った。

伝統芸能を伝える舞台出陣、歴史学者との対談、寺子屋(学校)での歴史授業。
名古屋城検定名誉顧問に叙任され、検定過去最高得点を叩き出す。
日本城郭検定にも挑戦し合格。
日ノ本が誇る歴史文化をより多くの者に伝えるべく、城びとでの連載を始める次第。

題して
 
前田慶次の自腹でお城めぐり、犬山城

【前田慶次の自腹でお城めぐり】

他の連載と何が違うのか!?

・現世に生きる戦国武将自らが感じたことを紹介!
・傾奇者による城郭魅力度数値化!
・城巡りの手引書(案内)となる!
・地域の特色を織り交ぜ、観光が楽しくなる!
・イケメン(前田慶次)が見られる!
・要点を抑えた紹介!
・兎に角分かりやすい!

全国の城に直接己が足で出向き、城の見方、歴史を伝え、其の城の傾き所(見所)や天守閣、男前田度(イケメン)を前田慶次の独断で評価する。
歴史初心者から玄人まで楽しめる、国宝連載となっておる。

ただ城を巡るのではなく! 儂の金子(金)で城に登城する。つまり限られた金子で巡る
旅の道中劇にも注目してもらいたい!!
また巡り方については、王道の道順を歩む故に参考にすると良い。

田中城(静岡県) 城郭の魅力度を数値化

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

徳川家康が最も愛した土地?田中城!? 

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

【基本情報】

城郭構造 :平城
主な築城者:一色信茂、馬場信春
主な改修者:馬場信春、酒井忠利
築城年      :15世紀頃
廃城   :1871年(明治4年)
主な指定文化財:市指定史跡、市指定有形文化財など


【歴史】

■徳一色城から田中城へ!今川から武田へ!
16世紀頃に今川家の命を受け館を拡大し出来たのが、徳一色城と言われておる! 1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで駿河の戦国大名今川義元が敗れ、この機に乗じてきたのが武田信玄。世で言う「駿河侵攻」が1568年(永禄11年)に始まり、1570年(永禄13年/元亀元年)に攻められ攻略された。武田家重臣、馬場信春が入城し大規模な改修工事を行い田中城と呼ばれるようになった。武田流の三日月堀(馬出曲輪)を作らせて現在の原型が誕生した! 遠州攻略の拠点に考えていたようじゃ。

■徳川軍も苦戦した田中城攻略!
1575年(天正3年)徳川家康が田中城を攻撃開始! 以降7年にわたり何度も合戦を繰り返し徳川対武田の激戦の地と化した。徳川家康は田中城の他、遠江、駿河にある武田諸城を攻略し、1581年(天正9年)高天神城が落城。武田軍は劣勢となるが田中城は耐え抜く。そこで徳川家康は、刈田(かりた。苅田。麦や稲を刈り取る)攻めを行う。1582年(天正10年)徳川軍による進撃は凄まじく、同年3月1日田中城は開城! 家康が田中城を支配するようになる。

■江戸幕府、西の守りとして重要視!
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌年酒井忠利(家康の縁戚)を田中城主とする。忠利が大改修を行い、現在伝わる田中城が誕生する! 江戸時代に入り田中城は譜代大名が城主を務め、12氏21代を数える。幕府の要職を任せられる者も多数輩出! 田中城は駿府城の西の守りという立地もあり重要視された!

■家康の休日は田中城にあり!
徳川家康は駿府城に大御所として隠退した晩年、田中城へ何度も足を運んでいる。その理由は「鷹狩り」! 趣味の鷹狩りの聖地として重宝したようじゃ。記録にも何度行っておるか丁寧に残されておる! また、その後将軍秀忠、家光も田中城を宿泊で利用しておる!


前田慶次,名古屋おもてなし武将隊


前田慶次,名古屋おもてなし武将隊
本丸櫓

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

【現存する本丸櫓が面白すぎて参考にしたい!】

田中城には天守は無いが現存する櫓が斯様に存在しており、元々は本丸に存在したが史跡田中城下屋敷に移築され申した! 市指定有形文化財に平成5年(1993)には指定され、象徴として紹介される事が多い。いわば田中城の顔じゃな! ご覧の通り二重の層塔型造りで木造銅板葺という江戸時代の代表的な見た目である!(当時は杮葺)。加えて城好きならば気付くであろう、

慶次「軍事基地となる櫓でないことを!!」

江戸期の象徴的な見た目であるが、窓の造りといい攻守を考えての造りとは思えない見た目。
嘗ては「御亭」と呼ばれ、遊興や”数寄活”の為に造られたのじゃろうな。

慶次「徳川様が遊興でよう来ておったくらいだで、田中城は泰平の世を示すかのような城で面白い!!!! 本丸に遊興施設は渋い! 名古屋城もあるが、本丸じゃのうて二之丸に建立させた。当然城主の住まいの御殿近くに建てるのが定石だでな! 儂も城を築くならば田中城を参考に致すか! 当時高さ2.7mの石垣の上に建てたそうだで!」

因みに、実際田中城には太鼓櫓等の合戦を想定した櫓も無論存在しておるからのう! ただし、数は少ない!
下屋敷の庭園や御殿の方に注力を注いでおる具合が古地図からも感じ取れる!

慶次「円郭式を活かした堀や馬出の防御施設、土地の特性である湿地帯に絶対的な自信があったのやもしれんな!」

現在の櫓土台となる石垣はご覧の通り、現世の技術で築かれた石垣となっておる! 切込接ぎ布積形式の如き見た目である!

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

いざ、櫓内部へ。

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊
階段は登り易い工夫もある故に安堵せよ!

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

【円郭式の縄張りは強い?過去と現在の違い】

内部はご覧の通り展示物が多く田中城の歴史を学べる施設となっておる!
嘗ての田中城は此の古地図ならぬ模型を見ると想像がしやすい!
赤○は三日月堀がある箇所である! 現在川として機能する堀は分かり易いが、埋められておる箇所も多い故に、現地に参る前に此方で確認すべし!

外濠の外側に下屋敷(現在地)があり嘗ての半分程の広さとなっておる!
泉水や堀としても機能しておる六間川の改修により姿が大きく変化しておる!

慶次「三日月堀により大軍を分担させることができるし、城内が見られにくい利点に加え円郭式の強みである最短距離で移動がかなうので守りやすい! ゆえに徳川軍は田中城を落とすことに苦労した!」

結果徳川軍は田畑の稲を刈り取る”刈田”攻めで落としたのじゃ!

慶次「徳川家康様が遊興に来る際は、右手の御成街道を通って来たそうじゃ! 遊興の鷹狩については前編の記事を読んでちょ。」

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

【仲間部屋・厩】
仲間部屋は武家屋敷の奉公人が住まう屋敷である! 田中城下屋敷の此方では、仲間部屋に加え隣に納屋と厩を併設しておる! 現在市指定有形文化財となっておる。
また、地元の住民達が“アイスキャンディーの棒”なるもので築城した田中城本丸櫓と幻の天守が見られるぞ! 精巧に造られておる故に甘味の棒で出来ておるとは一目では判断が付かなんだ!

慶次「いつの日か幻の天守を築城して良いやもしれんな! 独立式のようだで場所も天守にしては取らぬ造りだで、可能性はあるやもな!? 此れを読む主が此の天守を築城するか!?」

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊
 
前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

【茶室】

下屋敷内には他にも茶室も御座る。元は田中藩家老の茶室であったと伝えられておるが、移築改造されたようじゃ! 数寄屋造で茶室と待合が接続しておる。

慶次「我等武家にとっては必要不可欠な茶室であるが、現世の者からすれば見栄えの良いものと考える者も多いと聞く。和装して写し絵撮るならば誂え向きであろう! 四畳半の茶室は武家の会合の雰囲気も伝わるであろう。」

では、此れよりは下屋敷を飛び出し本丸跡地を始め遺構を巡って参るぞ!!

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

下屋敷から本丸に向かうは北方面也。道中で先に紹介した三日月堀である。
各所の虎口に設けられた三日月堀と馬出であるが、城絵図等によれば長さ約45m・幅約10m・深さ約1.8mという巨大な堀と、背後の土居は長さ約35m・高さ2.4mにもなる!
甲州流として名を馳せたこの守備は見たかったのう!

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊


【本丸は寂しい!?学校周りに掘!】
三日月堀から北にちぃと歩めば本丸跡に着陣する! 現在本丸跡地には小学校(西益津小学校)があり申す!

慶次「城内に学校が建てられるのは現世あるあるじゃな!」

本丸は円形ではなく、四角形で約800坪の実に狭い曲輪である。天守も無く、江戸時代後期になり紹介した櫓である“御亭”と御蔵のみ建っており他の城と比べるとちと寂しい本丸やもしれんな。
ほいで、そのまま北に直進すると“大手二之門跡、二之堀”が御座る! 二之門は無いが、堀は一部残っており橋がある故に見ての通り誰が見ても分かる具合じゃ!
二之堀は、最も広い所で約22mの堀幅である!

慶次「学校は小学校だけでなく中学校も御座り、もし嘗て建てておったらばこの学校は壮大な堀に囲まれ最も登校が困難な学校になっておったやもしれんな!」


前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

更に北に進むとご覧の通り“外堀跡”の碑が立っておる。現在は道路となっておる故に姿は見られぬが、道路の幅等を見れば嘗ての堀を想像する事ができるぞ!!

このまま二之丸に御座った清水御殿跡(中学校がある)という田中藩の政務の要であり屋敷を見たかったが……

慶次「日陰も無く暑さに耐えられぬ! この日気温38度! 儂は屋内で名物を食べ申す! 皆も体力と相談致せ!」


ええ匂いを辿って国道1号へ。

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

ええ匂いがするぞここから!!

前田慶次,名古屋おもてなし武将隊

【自ら焼き育てる!?藤枝ハンバーグ】

黒毛和牛だけで仕上げた現世のハンバーグ也。藤枝の地ではハンバーグが有名だそうじゃ。
また、藤枝ハンバーグ殿は仕上がった品ではなく、自ら焼き好みの具合まで育てる手法!

慶次「面白い! 我等モノノフは肉を食う事が滅多に無かったものの現世ではようけ食べるようになったが、自ら焼くというのは殆ど経験が無い! 楽しみながら食せるとは良い!」

また、味付けの調味料も沢山用意されており“味変”の楽しみもある!
儂はニンニクとやらで食すのが気に入った! これは尾張名古屋でも毎週食べたいくらいじゃ!


【まとめと無念の撤退】

して。腹を満たし田中城を外堀を超えた旭傳院に参ろうと思ったが、酷暑に儂が敗れる
無念の尾張へ撤退!!!

慶次「はっ? 此の前田慶次も田中城攻略できぬとは…流石は日ノ本唯一の円郭式城郭。徳川軍も難儀した城郭は令和の世で傾奇者も途中で撤退させるとは恐れ入った!! 儂が攻略できなんだ田中城を読者の皆に託す! 旭傳院の山門は城内にあった門と言われておる。儂の代わりに見届けてちょ。」

田中城は遺構も少なく感じるやもしれんが、地図を用いて巡れば嘗ての縄張を感じつつ城攻めが難儀であると痛感するであろう! 天守が無く城郭の建物好きにとっては、ちと物足りないか? 否! 天守がある城はそもそも一握り以下の珍らかな存在。斯様な多くの猛者を撃退した難攻不落の城郭こそ城巡りで楽しんで欲しいぞ! 城好き必見! 田中城は前田慶次も撤退した名城と令和より伝えよう。



次回の記事も楽しみに致せ!

以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益

▼これまでに紹介した城を知りたい者は、こちらを見よ!

凸伝令
執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)