「最後の将軍」徳川慶喜と幕末三名城 第3回【慶喜と江戸城】延々たる後半生をまっとうした希有な権力者

江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜。2021年放送のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、草なぎ剛さんが深みのある演技で慶喜役を演じています。慶喜は幕末の動乱にあたり、二条城・大坂城・江戸城において変転する時代と対峙しました。第3回は江戸無血開城までの流れと、慶喜の知られざる後半生を紹介します。

徳川慶喜
晩年の徳川慶喜。彼は長すぎる余生をどのような気持ちで過ごしたのだろうか

災難まみれだった幕末の江戸城

歴史上、権力者が一夜にしてその座から転げ落ちるというのは珍しくありません。近代以前では、乙巳の変で殺された蘇我入鹿や本能寺の変で業火に焼かれた織田信長のように、乱や暗殺によって地位を失うというのが多いケースです。

それに対して、徳川慶喜の転落の仕方はとてもまれな例といえるでしょう。彼が権力の座を失う決定打になったのは、大政奉還でも鳥羽・伏見の戦いでの敗戦でもありません。それらは大いなる前フリではありましたが、最終的には大坂城(大阪府)から「敵前逃亡」をした一夜の出来事によって、運命が決してしまったのです。(鳥羽・伏見の戦いの経緯と敵前逃亡事件については前回【慶喜と大坂城】をご覧ください)

慶応4年(1868)1月6日、軍艦・開陽丸によって大坂を脱した慶喜一行は、途中、悪天候によって八丈島まで流されながら、ようやく11日に品川沖に到着。そして翌日早朝、江戸城(東京都)西の丸御殿へ入りました。15代将軍ではなく、敗軍の将としての帰還。京都で将軍職に着任した彼は、結局、将軍としては一度も江戸城に君臨することはありませんでした。

江戸城二重橋と西の丸大手門
江戸城二重橋と西の丸大手門。本来は大手門が正式な門だが、西の丸御殿に向かうため慶喜は西の丸大手門から入城したと考えられる

さて、先ほど西の丸御殿に入ったと書きましたが、なぜ西の丸御殿だったかというと、将軍の本邸といえる本丸御殿は失われていたから。黒船来航以降の動乱は江戸幕府にとって試練続きでしたが、江戸城にとっても幕末は災難の連続で、何度も大火事に苛まれました。御殿だけをピックアップしてみても、本丸御殿が1844年と1863年、二の丸御殿が1863年と1867年、西の丸御殿が1852年と1863年に全焼の憂き目にあっています。いくら「火事と喧嘩は江戸の華」だからと言っても、江戸城の長い歴史の中で、これほど集中して火難が集中した時期はありません。何かに呪われているのかと疑った人も多かったでしょう。

江戸城、中雀門
本丸御殿の入り口となる中雀門。幕末の大火で焼きただれた石垣を見ることができる

一応その都度再建していたのですが、幕末も押し迫ると幕府は財政不足に見舞われ、政治的にも城のことなどかまっていられなくなり、本丸御殿は1863年、二の丸御殿は1867年の焼失後は2度と再建されませんでした。将軍は京都に行ったまま戻ってこないし、参勤交代もなあなあになっているしで、御殿は唯一残っている西の丸御殿で代用が効いたのです。その西の丸御殿に大坂城から遁走してきた慶喜が入るのですが、結局1カ月あまりの滞在で出ていくことになります。

それから約半年後、明治天皇が江戸城に入り、主人のいなくなった西の丸御殿を仮の宮殿としました。江戸城は「東京城」へと改称されて天皇が住まう宮城(皇居)となり、やがて西の丸御殿の場所に「明治宮殿」が新たに建設されました。現在も皇居が西の丸に置かれているのは、このような経緯があったためです。

流転する慶喜〜江戸から水戸、そして静岡へ

時代の針を慶喜の江戸入城まで戻します。江戸に帰ってきた慶喜は、その段階で新政府への恭順を決意していました。大坂撤退に及んで、薩摩藩に対してもはや主導権争いはしない、自らは政治の一線から退くということを決めていたようです。

ただし、慶喜が降りるからといって、江戸城内の幕臣や佐幕派の藩が黙ってそれに従うわけがありません。江戸にはまだ一戦も交えていない兵力もあれば艦隊もあります。幕府が立ち上がるとなれば、それに従う藩もあるでしょう。何より、幕臣にはこれまで日本を統治してきたという矜恃があります。数日間にわたって開かれた会議では、終始、主戦派がリードしました。その中でも徹底抗戦を主張したのが元勘定奉行の小栗忠順。彼は煮えきらない慶喜の袖をつかんで、「なぜ、すみやかに正義の一戦を決しないのか」と迫ったと伝えられます。

しかし、幕臣らがどれだけ主張したところで、慶喜が抗戦に同意することはありませんでした。主戦派が抗議のために江戸城内で自刃するという悲劇も起こりましたが、それでも恭順の気持ちは変わらなかったのです。小栗ら主戦派を罷免し、続いて老中職を廃止。新たに勝海舟を陸軍総裁に就任させるなど、幕府解体と最低限の組織再編に手をつけたところで、2月12日に江戸城を出て、上野・寛永寺で謹慎生活を始めてしまったのです。新政府に対して恭順の姿勢を表明するためでしたが、主戦派の幕臣らには、トップとしての役割を放棄してまた逃げ出したと映ったことでしょう。

上野・寛永寺
上野・寛永寺の本堂(根本中堂)。彰義隊が戦った上野戦争で焼失し、現在の本堂は明治期の再建

一方、新政府は武力による幕府討伐と慶喜の処罰を掲げ、東征軍が京都を進発しました。そして江戸城総攻撃が3月15日に決定するのですが、その直前に旧幕府代表の勝海舟と新政府代表の西郷隆盛が2日間にわたって会談し、総攻撃が回避されたのはよく知られているとおりです。最近では、回避劇の舞台裏で、イギリス公使パークスの働きかけがあったことが分かっています。慶喜の人柄や政権構想をよく知るパークスは、戦争に負けて捕らわれたナポレオンが処刑されずに島流しにとどまった例を持ち出し、恭順を示している慶喜が処罰を受けることは万国公法に反すると西郷らに圧力をかけました。それが慶喜の命と江戸の街を救うきっかけのひとつになったのです。

徳川慶喜、謝罪状
寛永寺で蟄居していた慶喜が新政府宛に送った謝罪状(部分)。新政府への恭順と江戸攻撃の中止を訴えている

4月11日、江戸城が新政府軍に明け渡されたその日に、慶喜は上野・寛永寺から生まれ故郷である水戸へと退去し、弘道館で謹慎生活を始めます。ただし、ここも安住の地とはなりませんでした。新政府は徳川家の領地を70万石に減らして静岡に持たせることを決定し、それにともない慶喜には静岡転居を命じます。わずか3カ月あまりの水戸生活に終止符をうち、7月に静岡に移住しました。

水戸へと退去したのち、上野では彰義隊の敗戦があり、東北の地ではかつて慶喜を支えた会津藩ら東北諸藩が新政府軍を相手に激戦を繰り広げ、劣勢を強いられていました。そうした情報を、蟄居先の慶喜はどのような面持ちで聞いていたのでしょうか。

私人に徹した後半生と渋沢栄一との交流

大坂から江戸へ、そして水戸から静岡へと流転した慶応4年(1868)、慶喜はまだ数え32歳でした。権力の座から転げ落ちた人間は、そこで張り詰めた糸がプツンと切れてしまったかのごとく、間を置かずに死没してしまうことが少なくありません。しかし、慶喜の場合はここから40年以上の長い長い後半生が始まるのです。その余生はじつに充実した、現代人から見てもうらやましい限りのセミリタイア(最近の言葉だとFIRE)でした。

徳川慶喜、屋敷跡
静岡で慶喜が移り住んだ屋敷跡。元は幕府の代官屋敷で、現在は料亭となっている

その余生を一言で表現すれば“趣味三昧”。慶喜の興味関心は多岐にわたり、主だったものだけでも写真、油絵、狩猟、乗馬、弓道、囲碁、自転車や自動車などが挙げられます。変わったところでは、刺繍や手芸にも熱心でした。これらの趣味に共通する点は、一人でも打ち込めるということ。もちろん、先生や対戦相手が必要な場合もありますが、ある程度のスキルを身につければ、あとはとことん一人の世界に没頭できるものばかり。なるべく他人との関わりを持たずにひとつの趣味の世界に浸りこみ、その趣味をある程度極めるとまた次の趣味へ、という生活を繰り返したようです。

他人と関わる趣味をなるべく敬遠したのは、彼が時の政治情勢にいっさい関わらず、私人として生きることを世間や新政府から強いられたことと無関係ではないでしょう。静岡に移住したその年の暮れ、フランスから帰国した渋沢栄一が慶喜に謁見しましたが、慶喜は欧州巡回の様子を聞いてくるばかりで、新政府への批判や境遇への愚痴めいたことは何ひとつ話さなかったそうです。その後も長い余生の中で、政治に関わろうとしたり言及したりすることはほとんどなく、最後の将軍としては沈黙を守り通しました。「君子危うきに近寄らず」——享年77という長寿をまっとうできたのは、後半生の徹底した処世術にあったのでしょう。

徳川慶喜、渋沢栄一銅像
東京・常盤橋公園の渋沢栄一銅像。栄一は生涯にわたって慶喜を支え、なぐさめ続けた

さて、後半生の慶喜は旧幕府関係者や将軍時代の側近とも面会することを避けていましたが、渋沢栄一との交流だけは生涯にわたって続きました。栄一は新政府に見出され、実業界の重鎮になってからもおよそ隔年で静岡を訪ねて、時には落語家なども同伴して慶喜を喜ばせたようです。私人であることに徹した慶喜が、心を許した数少ない理解者だったのでしょう。慶喜は明治後半に東京移住が認められ、さらに公爵が与えられて名誉回復がはかられましたが、栄一はその後も「徳川慶喜公伝」の編さんに取り組むなど、慶喜の汚名をそぐための活動を続けます。

慶喜の死去は年号が代わった大正2年(1913)11月のこと。葬儀委員長を務めたのは栄一でした。波瀾に満ちた前半生と、転落後の孤独ながらも穏やかな後半生。これほどギャップがある人生はそうありません。世界史上でも他に例のない権力者の生涯だったといえるでしょう。

▼「最後の将軍」徳川慶喜と幕末三名城 第1回・第2回はこちら

執筆・写真/滝沢弘康(かみゆ歴史編集部)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。幕末関係の主な制作物に『マンガ 面白いほどよくわかる!新選組』(西東社)、『新選組 10人の隊長』(洋泉社)など。

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