「最後の将軍」徳川慶喜と幕末三名城 第1回【慶喜と二条城】慶喜は二条城を嫌っていた? 意外な理由とは

江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜。2021年放送のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、草なぎ剛さんが深みのある演技で慶喜役を演じています。慶喜は幕末の動乱にあたり、二条城・大坂城・江戸城において変転する時代と対峙しました。幕末の三名城とも呼べる各城と慶喜との関わりを解説します。

二条城、大政奉還
二条城大広間の大政奉還の模型(二条城事務所提供)。なぜ、慶喜は大政奉還に踏み切ったのか?

尊王思想の総本山、水戸徳川家の出身・徳川慶喜

徳川15代将軍・徳川慶喜。風雲急を告げる幕末において朝廷や雄藩と対峙し、大政奉還によって朝廷に政権を返上。これにより、江戸幕府264年の歴史に幕が下りました。この大政奉還の舞台が、二条城大広間。二条城(京都府)は徳川家康の命で築かれ、江戸時代を通じて、京都における江戸幕府の拠点になった城です。

徳川慶喜は、なぜ大政奉還を行ったのか。そして、なぜその舞台が二条城だったのか。まずは、慶喜の前半生を簡単に振り返ってみましょう。

天保8年(1837)に徳川御三家のひとつである水戸徳川家に生まれた慶喜。水戸徳川家は徳川将軍家を守る立場にありながら、天皇を敬う「尊王思想(水戸学)」の中心地だったことで知られています。徳川将軍家の家臣という立場にありながら天皇を尊ぶというのは、一見、矛盾するように感じます。ただし、徳川将軍家は「征夷大将軍」というかたちで天皇から日本を治める権利を与えられた存在であるため、徳川将軍に従い、同時に天皇も敬うというのは相反するものではありませんでした。

徳川慶喜、銅像
水戸・千波公園に立つ子供時代の慶喜(左)と実父・徳川斉昭の銅像(右)。慶喜は幼き頃から水戸学の薫陶を受けていた

慶喜は11歳のとき、水戸徳川家から一橋家の養子に出てこれを継ぎます。御三卿は御三家と同様に江戸幕府の支柱となり、家族といえるほど徳川将軍家に近しい家系です。一橋家を継いだその6年後に黒船来航があり、さらにその3年後の安政の大獄では蟄居の身に。井伊直弼の強引な開国政策や、朝廷を無視した政治姿勢に反対を唱えたことが理由とされました。

桜田門外の変で井伊直弼が斃(たお)れ、蟄居を解かれた慶喜は、14代将軍・徳川家茂の将軍後見職に就任します。これ以前、慶喜と家茂(当時は慶福)の2人は将軍候補に選ばれ、慶喜を推す一橋派と家茂を推す南紀派は激しい政治闘争を繰り広げました。結果は家茂と南紀派の勝利となりましたが、慶喜は家茂に対して何のわだかまりもなかったようです。慶喜は「将軍にならなくて大いに良かった」という手紙を、実父に送っているほど。元来が淡白な性格で、将軍職にも強いこだわりはなかった(初めから及び腰だった)ようです。

将軍・家茂と慶喜は文久3年(1863)、朝廷から攘夷(開国を止めて外国人を日本から追い払うこと)の実行を求められ、その協議をするために上洛。将軍の上洛は、じつに230年ぶりの出来事でした。これは政治の中心地が江戸から京都へ移ったことを象徴する出来事であり、また慶喜が幕末の動乱の最前線に立った瞬間といえるでしょう。

慶喜は同年11月に再上洛を果たし、それから足かけ6年にわたり京都に滞在し続けました。一度も江戸に帰ることはなかった、というよりもできなかったのです。この6年間に彼は15代将軍に就任し、そして大政奉還を実行することになります。

二条城
二条城空撮。京都における幕府の政庁であり、幕末政治の中心地となった

二条城を本拠にしなかった理由とは?

さて、将軍が上洛する際、京都での宿泊所になったのが二条城です。そのため、慶喜も二条城に滞在したと考えがちですが、じつは二条城を避けてほかに宿所を構えていました。

まず、二条城の状況から説明しましょう。

幕末に家茂が上洛する以前、最後に上洛した将軍は寛永11年(1634)の3代将軍・家光であり、その後は約230年にわたり主人が泊まることはありませんでした。その間は「二条在番」と呼ばれる幕臣が管理していましたが、城内は草木が茂る荒れた状況で、天守は落雷で焼失後に再建されることもなく、主要な御殿も移築や解体されたままとなっていたそうです。そのため家茂の上洛を前に、本丸に仮御殿が建設されるなど、大規模な改築・修繕が施されました。

二条城、本丸御殿
現在の二条城本丸御殿。明治になって江戸時代の本丸御殿は破却され、この御殿が京都御所から移築された

ただし、リフォームされた二条城に住んだのは将軍・家茂だけだったのです。慶喜はというと、当初は東本願寺を宿所とし、その後は旧小浜藩酒井家の屋敷に腰を据えます。酒井家の屋敷はその国名(若狭国)から「若州屋敷」と呼ばれており、二条城の南側に隣接していました。その後、将軍に就任してからも若州屋敷を離れず、二条城に入ったのは慶応3年(1867)9月、大政奉還のわずか1カ月前というタイミングでした。将軍の宿所ということで、若州屋敷は「御旅館」とも呼ばれていたそうです。

どうして慶喜は、若州屋敷を離れなかったのでしょうか。慶喜は将軍就任後、福井藩藩主・松平春嶽(しゅんがく)から「なぜ二条城に住まないのか」というようなことを問われて、「二条城に入れば旧来のやり方から脱することができない」と回答。つまり、幕政改革を進めたい慶喜にとって、二条城は旧弊の保守勢力がはびこる伏魔殿(裏で悪事などが企まれている場所)であり、外のほうが幕閣らに邪魔されずにのびのびと政治にあたることができたわけです。

二条城、若州屋敷
二条城と若州屋敷の位置関係。若州屋敷は北は東町奉行所、南は三条通りにはさまれた広大なものだった(国土地理院の地図に加筆。なお屋敷地はおおよその範囲を示しており、正確ではない)

慶喜の側近は雄藩の志士と頻繁に情報交換を行っていたため、身分の高くない外様大名の藩士と会うには二条城では敷居が高く、外のほうが多様な志士を招きやすかったという理由もあります。慶喜自身が松平春嶽や島津久光、伊達宗城ら雄藩の諸侯と対面するときにも、若州屋敷が使われました。対面の場では喫煙も許されたそうで、格式張った二条城ではあり得ないような、忌憚のない話しあいが行われたことでしょう。

さらに二条城では江戸城(東京都)と同様に「表」と「奥」の区別があり、中での生活には様々なしきたりが伴います。そんなものにとらわれていては、刻一刻と変化する幕末京都において、臨機応変な対応などできません。慶喜が二条城を本拠にしなかったのは、必然的な選択だったのです。

慶喜が思い描いた大政奉還後の新政権構想

大政奉還前年の1866年7月、大坂城(大阪府)に滞在していた家茂が急死。次期将軍に推された慶喜ははじめ固辞したものの、同年12月にこれを受け入れ、二条城で将軍宣下を受けました。一度は将軍職を拒んだものの、幕府のトップが慶喜であることは疑いようがなく、彼は幕政改革にまい進します。

フランスを顧問に迎えた幕政改革は、政治・財政・軍隊・産業にまで及ぶ大規模なもので、ある程度の成功を収めていました。しかし一方で、幕府を取り巻く環境も厳しさを増していきます。長州藩や薩摩藩は討幕の動きを強め、朝廷の岩倉具視は王政復古に向けて積極的に行動していました。「もはや江戸幕府のままでは日本は立ちゆかない」というのが、慶喜の本音だったでしょう。

そうした状況下で、起死回生の策となったのが大政奉還でした。

【歴史解説】大政奉還とは…?
これは、徳川家康以来、約260年にわたって徳川家が握っていた政権を朝廷に返上するということ。土佐藩の後藤象二郎が前藩主・山内容堂を通じて慶喜に大政奉還を建白。討幕を回避したい慶喜がこれを受け入れたことで実現しました。大政奉還は、単に政権を天皇(朝廷)に返上することが目的だったわけではありません。大政奉還によって一度江戸幕府を終焉させ、来たるべき新政府内で主導的な地位に就くことが慶喜の目論見だったと考えられています。新国家の元首は天皇となり、自分は総裁のような立場で政治手腕を発揮する──そのような政権は、尊王論を子守歌代わりに育った慶喜としては、むしろ望むべき体制だったといえるでしょう。

慶応3年(1867)10月14日、慶喜は大政奉還を朝廷に上表。それに先駆け、12日・13日に幕臣と諸藩の藩士が召集され、大政を奉還する旨が公表されました。説明の場は、京都における幕府の公式な政庁である二条城をおいてほかにありません。

大政奉還のシーンというと、教科書にも掲載されている上記の絵画作品を思い浮かべる人が多いでしょう。二条城大広間の上段に慶喜がひとり座り、集められた大名が平伏している場面を描いていますが、じつはこの作品には“演出”が入っており、史実通りではありません。まず、大政奉還で召集されたのは各藩の家老や留守役クラスの藩士たちであり、大名が直接説明を聞いたわけではありません。そして、慶喜の口から直接説明があったわけではないのです。

大政奉還の説明会は、幕臣向けが12日、諸藩向けが13日に開催されました。ただし、そこでは政権を奉還する旨の書面が提示されただけだったのです。慶喜が重い口を開くのは、13日の説明会が終わった後のこと。意見のある者は残るようにいわれ、居残った6名は別室に集められ、そこで慶喜が直々に面会したのです。その6名の中には薩摩藩の小松帯刀や土佐藩の後藤象二郎ら有力藩士がおり、いずれも慶喜の大政奉還に賛同しました。

二条城、二の丸御殿大広間
庭園越しに見る二の丸御殿大広間。二の丸御殿は江戸初期の貴重な建物で、国宝指定されている

それを受けて10月14日に上表された大政奉還は、翌15日、朝廷に受理されました。将軍家の領地については追って沙汰すると保留された上で、慶喜に対しては諸大名と協議してこれまでどおり職務に尽力するよう命じました。つまり慶喜の思惑どおり、政権運営継続の手形を手に入れたわけです。

ここまで、大政奉還は慶喜の意図通りにコトが進んでいたように見えます。それがなぜ、討幕派の巻き返しにあってしまったのか。なぜ、慶喜の求心力は急速に失われて、政権の座から転げ落ちてしまうのか。それについては、第2回【慶喜と大坂城】で解説することにしましょう。

二条城、飾り、瓦、菊の御紋
明治になって二条城は宮内庁の所管となり、二条離宮と称された。そのため二の丸御殿の鬼瓦や破風板の飾りは、「三つ葉葵」から「菊の御紋」へと変更された

執筆/滝沢弘康(かみゆ歴史編集部)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。幕末関係の主な制作物に『マンガ 面白いほどよくわかる!新選組』(西東社)、『スッキリ!幕末』『天皇と皇室の謎99』(どちらもイースト・プレス)、『なぜ、地理と地形がわかると幕末史がこんなに面白くなるのか』『新選組 10人の隊長』(どちらも洋泉社)など。

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