「最後の将軍」徳川慶喜と幕末三名城 第2回【慶喜と大坂城】慶喜はなぜ、大坂城から逃亡したのか?

江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜。NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、草なぎ剛さんが深みのある演技で慶喜役を演じています。慶喜は幕末の動乱にあたり、二条城・大坂城・江戸城において変転する時代と対峙しました。幕末の三名城とも呼べる各城と慶喜との関わりを解説します。第2回の舞台は大坂城。大政奉還で新政権参画への望みをつないだ慶喜と武力討幕を目指す討幕派の暗闘と、戊辰戦争の契機となった鳥羽・伏見の戦いについて紹介します!

徳川慶喜
将軍在位中の徳川慶喜(福井市立郷土歴史博物館蔵)。大坂城敵前逃亡事件によって政治生命を絶たれることになった

クーデターで追い込まれた慶喜

慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜は朝廷に大政奉還を上表。つまり、日本を統治する権利を、幕府から朝廷に返しました。それに先駆け、10月12・13日には、京都における徳川将軍家の拠点であった二条城(京都府)において、幕臣や諸藩に向かって大政奉還の説明会を実施しました。

大政奉還によって江戸幕府は終焉を迎えましたが、慶喜自身は新しくできる政府の中枢を担うつもりだったという点は、前回【慶喜と二条城】の最後で解説したとおりです。しかしその後の歴史を見てみると、政権構想の目論見は大きく外れて、慶喜は新政府に参画することはできませんでした。なぜそうなったのか、理由についてはさまざまな要因が挙げられるのですが、最終的には慶喜が自ら選択した悪手により、政権の座から転げ落ちることになったのです。その悪手とは、「大坂城敵前逃亡事件」のこと。この事件について触れる前に、大政奉還以降の政情と慶喜の動きを見ていきましょう。

二条城二の丸御殿
幕臣や諸藩に対して大政奉還が報告された二条城二の丸御殿

大政奉還によって追い込まれたのは、幕府ではなく、むしろ討幕派でした。それまで、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、公家の岩倉具視らを中心とする討幕派は、幕府を叩きつぶして新政府を樹立しようと画策していました。それなのに慶喜が機先を制して、形の上では政権を返上してしまったので、武力討幕をする名目がなくなり、振り上げた拳の矛先を見失ってしまったのです。

そこで討幕派が考えた非常手段が、王政復古のクーデターでした。天皇や朝廷を巻き込んで、強引に自らの政府を立ち上げようと試みたのです。

大政奉還から約2カ月後の12月9日、薩摩・長州・土佐・尾張・福井の藩兵が厳重に警備する御所の中で、王政復古の大号令を告知。その後行われた小御所会議では、幕府に代わって朝廷が政治を担うことが明確にされ、さらに慶喜に対しては、「辞官納地」(将軍職を辞して幕府の領地を朝廷に返上すること)を要求したのです。

京都御苑、小御所跡
御所(現・京都御苑)の小御所跡。小御所会議は薩摩藩と岩倉具視が主導し、慶喜への辞官納地が決められた

じつは、この王政復古の計画については、事前に二条城にいた慶喜に伝えられていました。また、大政奉還をしたということは、将軍職の辞職は素直に応じざるを得ません。ただし、領地の返上については、慶喜は簡単には納得しませんでした。なぜ幕府の領地だけが対象になるのか、領地を返上するなら全国の諸大名の土地も同様の処置をすべきではないか、というのが慶喜の考えでした。慶喜の討幕派、特に薩摩藩に対する敵対心は一気に高まりました。

ただし、慶喜以上に憤っていたのが、幕臣や慶喜に近い会津・桑名の藩兵らです。二条城に集っていた彼らはクーデターに反発し、討幕派を主導する薩摩藩に対して徹底抗戦を唱えました。二条城と御所は直線距離でわずか1kmほど。怒りにまかせて御所に示威行動をとるようなことがあれば、そのまま合戦に発展するかもしれない。それを避けたい慶喜は、幕臣ら自勢力を引き連れて、大坂城(大阪府)へ下りました。王政復古のクーデターからわずか3日後の、12月12日のことでした。

幕府の軍事拠点だった大坂城

慶喜が入城した大坂城は、二条城とともに西国における江戸幕府の拠点城郭でした。

その歴史を簡単に振り返ると、古くは織田信長も手を焼いた大坂本願寺が建っており、信長の後継者となった豊臣秀吉がこの地に、史上空前の規模の大坂城を築き、豊臣政権の本拠地としました。しかし、徳川VS豊臣の最終決戦となった大坂夏の陣で秀吉の大坂城は灰燼に帰し、一度更地になった城跡に、2代将軍・徳川秀忠が新たな大坂城を築きます。現在の大阪城は「太閤はんの城」と崇められることも多いですが、実際は江戸幕府が建設した城なのです(なお、現在の天守閣は昭和初期に再建されたもの)。

大阪城
現在の大阪城。水堀や高石垣、現存する建物はすべて江戸時代に築かれたものである

江戸時代の大坂は幕府直轄領であり、再建された大坂城の城主も歴代将軍という名目でした。とはいえ、実際に城を訪れたのは、3代・家光、14代・家茂、15代・慶喜の3人だけ。泰平の世を謳歌していた時代は見向きもされず、天皇が重要視される幕末になって、家茂が約230年ぶりに入城を果たすのです。このあたりの事情は、二条城とまったくいっしょですね。

徳川家茂は9年間の将軍在位中に3回上洛しており、その都度、二条城と大坂城を拠点にして活動。3度目の上洛は第二次長州征討の総大将として、大坂城で指揮をとりました。しかし、もともと病弱だった家茂は敗戦の心労もあってか病に倒れ、そのまま城内で死去してしまいます。享年21という若さでした。

大坂城が第二次長州征討の本営となったことからもわかるとおり、幕末の動乱期にあって政局の拠点が二条城だったのに対して、大坂城は軍事的な前線基地という認識があったようです。城の構造を比較しても、二条城は二重の水堀が囲むだけのシンプルな縄張りなのに対して、上町台地を利用して築かれた大坂城は、日本一といえる広大な水堀と高石垣、各虎口に設置された大規模な枡形、攻め手の行動を制限する仕切りの設置など、徹底した防御の工夫がなされています。

慶喜は軍事的拠点であったこの大坂城にいったん退き、事態の打開にあたろうとしたわけです。

大坂城
広大な水堀と高石垣で鉄壁の防御を誇る大坂城。慶喜はなぜ、この堅城を放棄してしまったのか

戊辰戦争の契機となった鳥羽・伏見の戦い-敵前逃亡と大坂城炎上


大坂城に退いた慶喜と幕臣のもとに思いもかけぬ報告があったのは12月28日(30日とも)のこと。この頃江戸では浪士らによる放火や挑発行為などがひんぱんに起こっていたのですが、薩摩藩が裏で糸を引いているのは明白であり、幕府に近い庄内藩がその報復として江戸薩摩藩邸の焼き討ちを実行したのです。その一報を受け取った大坂城の主戦派は沸き立ち、一気に「薩摩討伐」の気運が高まります。その気運は、すでに将軍といえども抑えがきかないほどに高ぶっていました。

年が明けた慶応4年(1868)元日、慶喜は「討薩表」を発し、翌日には会津・桑名藩兵や新選組ら諸隊も加えた約1万5千の幕府軍が京都に向けて進軍をはじめます。ただし、慶喜は天皇のいる京都近郊での戦争を嫌い、決して戦端を開かないよう命じたと伝えられます。薩摩の勢力を京都から追い出し、慶喜自らが改めて上洛して新政府を立ち上げるための、露払いとしての軍事行動でした。

伏見の戦跡碑
薩摩軍が陣を敷いた御香宮に立つ伏見の戦跡碑。薩摩軍は大砲を並べ、新選組などが陣取る伏見奉行所を集中砲火した

しかし、討幕を掲げる薩摩もここで引くわけにはいきません。大久保利通が開戦を強く唱え、長州とともに幕府軍を迎え撃ちました。それが1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いです。戦争は背水の陣で臨んだ薩摩・長州軍が先制攻撃を仕掛けます。幕府軍は戦争を予期していなかったことに加え、戦場に位置する淀藩が中立を決め込んで支援を断り、さらに本来味方であるはずの津藩から砲撃を受けるなどの裏切りも重なり、3日間の戦いののち大坂城へと敗走しました。

忸怩たる思いで敗戦の報を聞いた慶喜には、この時2つの選択肢がありました。鉄壁とされる大坂城を枕にもう一戦交えるか、恭順を示すために江戸に撤退するかの二択です。慶喜が選択したのは後者、つまり大坂城からの撤退でした。その選択自体は仕方ないかもしれませんが、とった行動が彼の運命を決定づけてしまいます。

敗戦が決定的となった6日夜半、慶喜は老中や会津藩主の松平容保ら一部の近臣だけを伴って、大坂城を退出。大坂湾に停泊中の軍艦・開陽丸に乗り込むと、艦長の榎本武揚が不在にもかかわらず出港させ、江戸へと逃げ帰ってしまったのです。明くる日、将軍の退去を知らされていなかったため、大坂城内が大混乱に陥ったのは言うまでもありません。これが「大坂城敵前逃亡事件」のあらましです。

開陽丸
慶喜が大阪脱出で用いた開陽丸。北海道江差町の開陽丸記念館に復元されている

なぜ慶喜はかくもあっさりと、大坂城から撤退したのか。最大の理由は、「朝敵」、つまり朝廷の敵と認定されることを嫌ったことにあります。鳥羽・伏見の戦いでは、薩長軍に「錦の御旗」が掲げられました。錦の御旗は朝廷の軍隊である官軍だけが掲げることができる旗で、錦の御旗に銃を向けることは、天皇に反逆する朝敵となったことを意味します。幼き頃から水戸学(尊王論)を学んできた慶喜にとって、それは許しがたいことだったのでしょう。

「大坂城敵前逃亡事件」によって、慶喜は自らの政治生命を絶ち、結果的に薩摩が主導する新政府を認めることになりました。敵前逃亡という武士としてはあるまじき行為をめぐって、敵ばかりか味方からも罵られることとなり、生涯最大の汚点として慶喜の人生や後世の評価に影を落とすことになったのです。

さて、慶喜が退去した大坂城では、1月9日に本丸台所付近から出火して大火事となり、本丸御殿をはじめ城内のほとんどの建物が焼失する大惨事がありました。その数週間後に城を訪れた外交官のアーネスト・サトウは、「壮麗な城の建物は跡形もなく姿を消した」と書き残し、廃墟と化した惨憺たる有り様を嘆いています。

大坂夏の陣における大坂城の炎上は、豊臣から徳川へと時代が移行したことを示すものでした。同じように、主人のいなくなった徳川大坂城の炎上は、江戸時代から明治へと時代が一新したことを象徴する出来事だったのです。

▼「最後の将軍」徳川慶喜と幕末三名城 第1回はこちら

執筆/滝沢弘康(かみゆ歴史編集部)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。幕末関係の主な制作物に『マンガ 面白いほどよくわかる!新選組』(西東社)、『スッキリ!幕末』『天皇と皇室の謎99』(どちらもイースト・プレス)、『なぜ、地理と地形がわかると幕末史がこんなに面白くなるのか』『新選組 10人の隊長』(どちらも洋泉社)など。

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