日本100名城・続日本100名城のお城 【日本100名城・高知城】超貴重!本丸がほぼ完存する四国屈指の名城

山内一豊・忠義親子が10年の歳月をかけ築いた高知城。日本で唯一天守と本丸御殿がダブルで現存しており、さらには本丸全体もほぼ完存している貴重な城です。高知城だけでしか見られない遺構や、堀切を仕切るように築かれた詰門、そして江戸時代の人が残した面白い落書きなど、高知城を楽しむためのポイントを紐解いていきましょう!

「南海道随一の名城」といわれた高知城

高知城
県立高知城歴史博物館の3階から眺める高知城の姿

慶長6年(1601)より、大高坂山(おおたかさやま)に築城を開始した高知城。築城者は、関ヶ原の戦いの功績で土佐藩24万石の藩主へと昇進した山内一豊(やまうちかつとよ)です。慶長8年(1603)には本丸と二ノ丸が、そして、慶長16年(1611)には二代藩主・忠義の手によって三ノ丸の工事が完了し、着工開始から約10年の月日を経て高知城が完成しました。

しかし、享保12年(1727)には城下町で火災が発生し、高知城も追手門以外のほぼ全ての建物を失ってしまいました。現在見る建物の多くは、宝暦3年(1753)までに再建されたもの。明治はじめの廃城令や、太平洋戦争での高知大空襲からも奇跡的に免れ、現存する15棟の建造物が国の重要文化財に指定されています。

高知城、鬼瓦
天守の鬼瓦には山内家の家紋が使われ治世を偲ぶことができる

土佐藩の藩主は、一豊からはじまり最後の藩主・豊範(とよのり)まで、山内家16代が務めました。城内の鬼瓦や軒丸瓦には、山内家の家紋「丸三葉柏紋(まるにみつばかしわもん)」を見つけることができます。

高知城
享保12年(1727)の火災で天守は焼失。寛延2年(1749)に再建された

高知城といえば、日本で唯一天守と本丸御殿が揃って現存している城! 江戸時代には、同じ形の構造物を重箱のように重ねた「層塔型(そうとうがた)」スタイルの天守が多く建てられたのですが、高知城は「望楼型(ぼうろうがた)」天守。江戸時代以前より続く古式のスタイルを採用しています。再建する際には、焼失する前の形にこだわり同じ望楼型天守を築いたそう。

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本丸正面から天守を見るとなんだか簡単に落城しそう…。いえいえ、それは違います! しっかり防御された城なのです。

高知城、天守
鉄門を登り、詰門付近から眺める天守

本丸下から天守を眺めると、どれほど防御が堅いかわかります! 石垣の上にそびえる天守に向かって行くと、正面や側面の塀から鉄砲玉が飛んできます。しっかりと横矢掛かりの効いたポイントですが、天守の下に着いてもまだ難関があるのです。

高知城で見る、3つの特徴

高知城、忍返、石落とし
(左)天守1階についた忍返と石落とし。(右)天守の中から石落としを見下ろした様子

まずはコレ「忍返(しのびがえし)」。天守石垣を登ってきた敵兵もこの並んだ鉄剣を前に、つい躊躇してしまう…というか、こんな危ない物があるならば登りたくない! そこのあなた、 悩んでいるすきに石落としから命を狙われていますよ。

忍返は名古屋城(愛知県)や熊本城(熊本県)の天守にもありますが、現存する忍返があるのは高知城だけ! 高知城の見どころの一つです。

高知城、物見窓
本丸御殿から庭を見ると土塀に物見窓を見つけることができる。(左)内側から(右)外側から

高知城でしか見られないものといえば「物見窓」もその一つ! こちらは、塀に設けられた横長の武者窓です。四角形や丸形の狭間とは異なり、敵の動きを確認できる範囲が広くとれる利点があります。物見窓がついた土塀が現存するのも高知城だけ。

高知城、石樋
(左)杉ノ段へ登る階段横にある石樋は城内で一番大きいサイズ。(右)三ノ丸では水路構造を見ることができる

そして、城内に設けられた16ヶ所の「石樋(いしどい)」も高知城の特徴的な遺構です。石垣にとって崩落の原因となる雨水は一番の敵! 高知県は降水量が多い地域なので、しっかり水対策も施されています。石が突き出ているのは、水が石垣に直接当たらないようにしている工夫。水が落水する場所にも石を置いて土が削れないようにしています。

また、三ノ丸には石樋の内部を見られる場所があります。この水路遺構は、排水路の内部に泥水がたまり目詰まりすることを防ぐために蓋石がされ、蓋を外して簡単に掃除ができる構造になっているのです。高知城を訪れた際は全ての石樋を見つけられるか挑戦してみましょう!

珍しい遺構「詰門」

高知城、詰門
天守から見る本丸と二ノ丸、その間にある詰門

城の防御として欠かせないものといえば、曲輪と曲輪の間を分断する堀の存在。高知城も本丸と二ノ丸の間に堀切を設けています。その堀切の真ん中を仕切るように建てられているのが「詰門(つめもん)」です。

高知城、詰門
「廊下橋」と呼ばれた本丸と二ノ丸を繋ぐ詰門。享和2年(1802)から残る現存遺構だ

詰門の内部には訪問者を監視する詰所があり、また籠城に備えて塩を備蓄する蔵としても利用されていました。詰門1階の入口を通る時は、手前と向こう側の入口がズレて喰い違いになっているため通りにくい! 先人の知恵が詰まっていて感動しますね。

むむ、この廊下橋は突破しにくいぞ…! 一癖も二癖もある難所です。

築220年の味わいある追手門

高知城、追手門と天守
追手門と天守をおさめた定番アングル

追手門は、高知城の正面玄関にあたる門。享和元年(1801)に創建当初の姿を模して建て替えられています。第二次世界大戦では空襲により半壊状態になりましたが、昭和の解体修理で現在の姿に修復されました。

ちなみに、追手門の柱包板からは昔の人の面白い落書きが見つかっています。「禁酒したれど酒屋みれば足がしとふあとあゆまれぬかな」…つまり、禁酒したけれど酒屋を見ると足が止まっちゃうよ〜という嘆きが記されているのです。なんだか人間らしさが窺える落書きですね。なぜこんな所に落書きをしたのかはわかりませんが、強く共感できてしまうのは私だけでしょうか? 落書きされた板は取り外され天守内にて展示されています。

こりゃ美しい!野面積みの石垣

高知城、三ノ丸、石垣
三ノ丸の石垣は平成11年より調査が行われ平成16年〜平成21年にかけて改修工事が行われている。写真は、修復された箇所ではなく往時より残る部分

天守や門もいいですが、荒々しい見た目の石垣もとてもカッコイイ! 石材は主にチャート、また一部に加工しやすい砂岩や石灰岩が使用されています。高知城は石垣のほとんどが、自然石をのせた野面積み。近江出身の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」が築いたものです。

石をきっちり加工した切り込みハギよりも、排水の面で優れている野面積みの石垣は雨の多い高知の気候にピッタリの積み方なのですね。

日本を変えた偉人を生んだ土佐藩

高知城、山内一豊像
初代藩主・山内一豊像

16代にわたり山内家が治めた土佐藩。幕末には、坂本龍馬や中岡慎太郎、山内容堂公など日本の歴史を動かした偉人たちを生み出しました。雨天の多い気候にも負けず、南海道随一の名城とまで言わしめた四国を代表する城。見どころいっぱいの史跡なので、丸1日滞在するつもりで遊びに行きましょう!

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<基本情報>
住所:高知市丸ノ内1丁目
電話番号:088-824-5701(高知城管理事務所)
天守・懐徳館・東多門・廊下門の利用料:420円
営業時間:天守・懐徳館 9:00~17:00(最終入館16:30まで)
休館日:12/26~1/1、その他臨時休館の場合あり。詳細は「高知城公式ウェブサイト(https://kochipark.jp/kochijyo/)」をご確認ください
アクセス:JR高知駅より路面電車に乗り「はりまや橋」駅で乗換え、「高知城前」駅下車すぐ。JR高知駅より、バスに乗車「高知城前」バス停下車すぐ。

いなもとかおり
 執筆・写真/いなもと かおり
 お城マニア&観光ライター
 年間120城を巡るマニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は600ほど。国内旅行業務取扱管理者、日本城郭検定1級、温泉ソムリエ、夜景鑑賞士2級の資格をもつ。城めぐりの楽しみ方を伝えるべく、テレビやラジオにも出演中。


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