2021/10/06
籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第7回 近江肥田城の戦い
戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に敗れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第7回のテーマは、浅井長政が近江支配を進めるにあたって重要な転機となった「近江肥田城の戦い」。戦いの背景にあった浅井氏と六角氏の対立、さらに日本初とされる堤防を築いた水攻めなど肥田城での籠城戦について見ていきましょう。
浅井長政の六角承禎からの離脱
北近江の守護だった京極氏は、浅見氏・浅井(あざい)氏らの国人一揆によって逐(お)われ、代わって国人一揆の盟主だった浅井亮政が小谷(おだに)城(滋賀県長浜市)に拠って戦国大名として君臨することになった。国人一揆による戦国大名化の典型例として知られている。
ところが、亮政が亡くなり、子の久政の代になると、南近江の戦国大名六角氏に押され、ついには抗しかね、六角氏に従属する形となった。久政の嫡男が元服したとき、六角義賢(よしかた)の偏諱(へんき)を与えられ、賢政と名乗ることになり、さらに賢政の重臣平井定武の娘と結婚し、六角氏の家臣に組み込まれる形となったのである。この六角義賢が出家して承禎(じょうてい)と号した。
若い賢政は、祖父亮政のときに独立大名だったのに、六角氏家臣の扱いを受けることに不満だった。その思いは久政の重臣赤尾清綱・遠藤直経・安養寺氏秀らも同じで、賢政は彼らと相談の上、久政を隠居させ、六角承禎と手を切り、独立する動きをみせている。いわゆる「浅井長政のクーデター」である。賢政は、押しつけられていた形の「賢」の字をやめ、長政と改名し、やはり押しつけられていた形の平井定武の娘を離縁しているのである。
それだけではなく、長政は、六角氏との境に位置する国人領主に対し、六角氏家臣からの離脱をよびかけている。永禄2年(1559)のことであった。このよびかけに肥田城(滋賀県彦根市肥田町)の高野瀬秀隆が応じてきたのである。

肥田町公民館前に立つ肥田城址碑
六角承禎の肥田城水攻め
高野瀬氏は、佐々貴氏の支流と伝えられる近江の名族といわれ、応仁・文明の乱後は六角氏に属していた。本拠地の一つだった高野瀬城(滋賀県犬上郡)は六角氏の命によって高野瀬隆重が築いたと伝えられている。高野瀬秀隆の寝返りに怒った六角承禎は、すぐ肥田城攻めを命じている。

肥田城址。戦国時代の遺構はほとんど残っておらず、集落の周りを囲む土塁は江戸時代のものとされている
肥田城は宇曾(うそ)川の南岸に位置し、低湿地に築かれた平城で、承禎は、城の周囲に長さ58町(約6320m)、高さ13間(約23m)の堤防を築き、宇曾川および愛知(えち)川の水を引き入れ水攻めをはじめたという。この数値は誇張されているかもしれないが、城攻めの方法としては珍しい水攻めが行われたのはたしかなようである。なお、戦いのあった年次についても永禄2年とする説と翌3年とする説がある。
ただ、この六角軍による肥田城水攻めは折からの大水により、堤防が決壊したため、失敗に終わっている。籠城した肥田城側が城を守りぬいた形である。ちょうど、天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めのときの、石田三成による忍城(埼玉県行田市)の水攻め失敗と同じパターンである。
野良田表の戦いで浅井長政が勝利
しかし、それで終わったわけではなかった。承禎としては、寝返りの連鎖反応を未然に防ぐためにも、また、寝返ったばかりの高野瀬秀隆を討つことによって、それをみせしめにしようと考え、永禄3年(1560)8月中旬、再び肥田城攻めの軍をおこしている。
前回は水攻めで失敗しているので、このときは大軍を動員しての力攻めであった。「六角軍が肥田城攻めに向かった」という報告はすぐ小谷城の長政のところに届けられた。前回の水攻めのときには長政本人の出馬はなかったが、今回は、長政も伸るか反るかの、六角軍との雌雄を決する戦いになると考え、自ら出陣している。これが長政の初陣だった。このとき長政は16歳である。
浅井軍は、百々(どど)内蔵助・磯野丹波守員昌(かずまさ)・丁野(ようの)若狭守を先陣の大将とし、後陣として長政、そして赤尾氏をはじめとする上坂(こうさか)・今村・安養寺・弓削(ゆげ)・本郷氏などの重臣がそれを固めた。
それに対する六角軍は、先陣に蒲生(がもう)右兵衛大夫・永原太郎左衛門・進藤山城守・池田次郎左衛門、二陣に楢崎壱岐守・田中治部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田新介らが続き、後陣に承禎自身とその馬廻、さらに後藤氏らの重臣がそれを固めていた。『江濃記(ごうのうき)』によると六角軍が総勢2万5000、浅井軍が総勢1万1000とするが、浅井軍はこのあと、元亀元年(1570)の姉川の戦いのときですら最大動員兵力8000といわれているので、この時点で1万1000はありえない。六角軍・浅井軍ともに兵力は伝えられる半分以下ではなかったかと思われる。

野良田表の戦い(小和田哲男著『戦国合戦事典』)
しかし、それにしても、肥田城という一つの城をめぐって、六角軍・浅井軍ともに全力動員で戦いに臨んだことがわかる。この肥田城の高野瀬秀隆が籠城するところを六角軍が攻め、それを救うために浅井長政が後詰として出陣した形なので、そのまま浅井方とすれば籠城戦、六角方からすれば攻城戦となるところであるが、最後は、城攻めではなく、野戦で決着がついている。城攻めではなく、野戦にもちこんだのは六角方の戦略だったのかもしれない。承禎としては、肥田城の兵と、後詰として出陣してきた浅井軍に挟み撃ちになるのを嫌い、肥田城の少し西の野良田(のらだ)(彦根市野良田)に浅井軍をおびき出し、たたく作戦だったのかもしれない。
戦いがあったのは8月中旬で、はじめ、六角方が優勢であったが、緒戦の勝利に油断していたところを浅井方の新手に斬りこまれ、結局は浅井方の勝利で終わっている。『江濃記』によれば、六角方の犠牲者は920人、浅井方の犠牲者も400人にのぼったということで、かなりの激戦だったことがうかがわれる。
この戦いにより、浅井長政は近江支配における浅井氏の政治的立場を確立し、北近江の戦国大名としてゆるぎない地歩を固めることができたのである。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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