逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第6回【朝倉義景】信長を追い詰めた男!優柔不断は身を滅ぼす?

「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」。第6回は一乗谷城でおなじみ、越前の戦国大名・朝倉義景です。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、ド派手な衣装に身を包み主人公そっちのけで蹴鞠にいそしむ、一癖も二癖もあるキャラクターでしたが、史実ではどんな人物だったのでしょうか。


朝倉義景
心月寺(福井市)に伝わる朝倉義景の肖像画。朝倉支配下最後の心月寺住職の画賛があることから、義景の没後あまり時間を経ずに描かれたものと考えられている。(東京大学史料編纂所所蔵模写)

朝倉義景

朝倉全盛期に生まれるも、その生涯は前途多難だった5代・義景

朝倉義景といえば「蹴鞠大好きな貴族かぶれ」とか、「信長に倒された弱小大名」とか、あまり良い印象はないかもしれません。そんなネガティブなイメージは一体どこから湧いてきたのでしょうか。彼の生涯を紐解くと、その原因が見えてきます。

義景が生まれた朝倉氏は、初代・孝景以来の名門家でした。その全盛期を築いたのは、義景の父で4代当主の孝景。初代と同じ名前を授かった彼は、忠臣の朝倉宗滴(そうてき)らとともに、室町将軍の名の下、治安維持のため各国に出兵を繰り返しました。また、歴代朝倉氏の拠点である一乗谷を、「北の京」と謳われるほどの一大都市に育て上げます。

父・朝倉孝景の死により状況が一転

一乗谷は京から近いため、応仁の乱で京から逃れた貴族の受け皿となり、彼らによって雅な文化が一乗谷に広まったのです。こうして孝景は、強固な軍備と豪華な都市で影響力を高め、幕府からは守護と同等の扱いを受けるようになります。

そんな朝倉全盛期に生まれた5代・義景は、幼い頃から和歌や漢詩をたしなみ、まるで貴族のような暮らしぶりだったことでしょう。しかし天文17年(1548)、父・孝景が急逝したことで、突如16歳で家督を相続。当初は宗滴の補佐もあり順調な統治を行いましたが、その宗滴も天文24年(1555)に病死します。宗滴はちょうど加賀の一向一揆衆との戦いの最中で、彼の死によって戦は泥沼化します。

朝倉義景を救った足利義昭との関係とは

そんな義景を救ったのは、のちに室町幕府15代将軍となる足利義昭でした。このとき義昭は、13代将軍の兄・義輝が暗殺されたために亡命し、義輝と親交があった朝倉氏にかくまってもらっていたのです。ちなみに、朝倉義景はもともと「延景」という名前でしたが、義輝の「義」の字を拝領して、「義景」と改名したそう。このエピソードからも足利将軍家と朝倉氏の信頼関係がうかがえますね。

永禄10年(1567)、足利義昭の仲裁により一向一揆と和睦した義景は、義昭の後見人となり、元服の儀を行います。あとは義昭を京の都に送り届ければ、義昭は将軍位に就き、義景はその立役者として超有力大名になれたでしょう。しかし、義景は一向に上洛しません。

京で増長する義輝暗殺の首謀者・三好氏を討伐する器量が自分にはないと思っていたからです。そうこうしている間に義昭はしびれを切らし、隣国の織田信長のもとへ逃亡。信長はみごと義昭を伴って上洛を果たします。これより、朝倉を滅亡させた義景の「優柔不断伝説」が幕を開けたのです。

一乗谷の御所跡
足利義昭が身を寄せた一乗谷の御所跡

上洛命令を無視したため、織田信長は一乗谷に侵攻

京で強権を手に入れた織田信長は、近隣の大名に上洛を促しますが、義景は無視。元亀元年(1570)、怒った信長は朝倉討伐を開始します。破竹の勢いで支城を攻略する信長軍に対し、義景は相変わらずの優柔不断ぶりで、救援に向かおうとしては引き返しと一進一退。これには義景の従兄弟・朝倉景鏡(かげあきら)も進軍を辞めてしまいます。

ところがこのとき、朝倉と同盟関係にあった浅井氏が信長の退路を塞ぎ、挟み撃ちに成功、信長は猛スピードで退却します。。これがかの有名な「金ヶ崎の退き口」です。体制を立て直した信長は、姉川の地で決戦を挑むも勝敗はつかず、両軍は和睦しました。

その後信長は浅井を滅ぼすために再び近江に進軍。元亀4年(1573)2月義景は、反信長勢力の武田信玄や本願寺顕如、そして足利義昭から「近江に出兵してくれ」と要請され、義景は自領の若狭や一乗谷から動きませんでした。この間に信玄は死去し、義昭は降伏。同年7月、ようやく近江出兵を決断した義景ですが、時すでに遅し。信長の猛攻を受け一乗谷に逃げ帰ります。

そこへ織田軍に寝返った景鏡が義景に切腹を強要し、自刃。栄華を誇った一乗谷の都も焼き払われます。しかし、一乗谷の都は、逆に灰燼(かいじん)と化して放棄されたおかげで、城下町が戦国時代の姿のままそっくり残っていることがわかったのです。そして2009年、特別史跡に指定されました。

一乗谷城下町、復原町並
発掘調査をもとに復元された復原町並

リーダーでありながら決断力が鈍く、ダメなところばかりが目立つ義景ですが、彼の才能を示す書状があります。それは永禄10年、薩摩の大名・島津義久宛に、島津家経由で琉球王国と勘合貿易を行うことに合意する手紙。義景は北陸をグローバルな交易拠点にのし上げようとしていたのです。実際、一乗谷遺跡からは東南アジアの陶磁器が発掘されています。素晴らしい都、強大な軍事力、将軍からの信頼、そして優れた先見性。慎重すぎる性格さえなければ、天下に最も近かった男は、朝倉義景だったのかもしれません。

朝倉義景、書状
『島津家文書』より義景が島津義久に送った書状。(東京大学史料編纂所所蔵)

義景の居城と攻めた城

朝倉義景の居城と攻めた城

【居城】一乗谷城(福井県福井市)
一乗谷といえば山麓の居館跡が有名ですが、一乗谷山の標高約470mの位置には朝倉氏の詰城があります。城内は尾根を断絶する堀切や、100本以上の畝状空堀があり、その徹底した防御力とそれを完成させた築城テクニックからは朝倉氏の戦国武将としての一面を感じさせられます。

一乗谷城、堀切跡
堀切跡。一乗谷城内にはこのような堀切が複数残存する

【支城】戌山城(福井県大野市)
朝倉家のナンバー2であった景鏡の拠点。城跡としても一乗谷に次ぐ朝倉氏ナンバー2の堅牢ぶりで、主郭を360度囲む竪堀&堀切ラッシュは圧巻です。近年はお隣りの越前大野城(福井県大野市)の雲海ビュースポットとしても話題に。

戌山城、畝城竪堀
戌山城の畝城竪堀。このようなV字状の竪堀・堀切が城中に張り巡らされている

【攻めた城】国吉城(福井県美浜町)
若狭武田氏の重臣・粟屋勝久の居城。永禄6年(1563)に朝倉氏に反旗を翻して以来、10年以上にわたって義景に攻撃されるも、粟屋氏は籠城戦でこれを撃退したことから、「難攻不落の城」としてよく知られています。

国吉城
主郭部分には当時の石垣があちこちに残っている

▼朝倉義景の居城となった一乗谷。一乗谷朝倉氏遺跡や、一乗谷朝倉氏遺跡博物館について詳細はこちらの記事をご覧ください。


執筆・写真/かみゆ歴史編集部(中村蒐)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)が好評発売中!

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