籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第5回 砥石城の戦い

戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に敗れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第5回のテーマは、北信濃の支配者・村上義清が砥石城に籠城し武田信玄を破った「砥石城の戦い」です。戦国時代最強の武将とうたわれる信玄を義清がどのように退けたのか、籠城戦の行方を詳しく見ていきましょう。

武田信玄と村上義清の熾烈な戦い

諏訪氏を倒して信濃の一部を領国化することに成功した武田信玄は、次第に北信濃へ進出していったが、更級(さらしな)・埴科(はにしな)地方を領する葛尾城(長野県埴科郡)の村上義清が信玄の行く手にたちふさがった。義清は天文17年(1548)正月18日、信玄に敵対する軍事行動をおこし、信玄も2月1日、躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)を出発し、大門峠を越えて小県(ちいさがた)郡に入った。7000の軍勢といわれている。

それに対し、村上義清も葛尾城を出て、ついに2月14日、上田原で戦いとなった。義清の軍勢は5000(一説に7000)といわれている。この戦いで、信玄の先鋒板垣信方が村上勢の第一線を突破し、敵陣深く追いこんだが、かえって深追いしすぎて村上勢に包囲されてしまい、信方は討ち死にし、これに勢いを得た村上勢が逆襲に転じ、信玄の家臣のうち、甘利虎泰・初鹿野(はじかの)伝右衛門といった重臣も討ち死にするという事態になり、信玄自身も傷を受ける大敗北で終わった。

「砥石崩れ」といわれた信玄の大敗北

村上義清との戦いで、信玄はもう一度大敗北を喫している。それが「砥石崩れ」である。砥石城(長野県上田市上野)の戦いで、字は戸石城とも書かれる。

砥石城
真田本城から砥石城を望む

このとき、砥石城には村上義清のほか、信玄に逐われた小笠原長時および高梨政頼の軍勢も加わり、籠城した兵の数は5000といわれている。それに対する信玄もおよそ5000(一説には8000)の兵を率い、信玄の軍師駒井高白斎の日記『高白斎記』によると、天文19年(1550)8月28日、砥石城の城際の「屋降」というところに布陣したという。ただ、その「屋降」がどこなのかはその地名の場所がないので不明である。

実際に砥石城攻めがはじまったのは9月9日の夕方からであった。しかし、砥石城は天険の要害で、城内に攻め入ろうとする武田軍は城内からの攻撃にさらされ、いたずらに死屍を積み重ねるだけで、ついに信玄も攻撃中止を命じている。

こうして籠城戦がはじまったわけであるが、事態が大きく動いたのは9月23日だった。この日、砥石城の麓で全軍を指揮している信玄本陣の背後に突如として4000ほどの大軍が姿をあらわし、武田軍に攻撃をはじめている。「越後から後詰の援軍がくるはずもないのに」と思っていると、何と、城内にいるはずの村上義清率いる軍勢だった。城内と城外とで挟み撃ちになった形で、攻守ところを変え、武田軍が防戦にまわっている。

結局、武田軍はそれから8日間ほど防戦に終始したが、その間にも、重臣の横田備中守高松(たかとし)をはじめ、およそ1000の兵を失い、とうとう信玄も10月1日、退却命令を下し、翌2日、諏訪に兵を引いている。先の上田原の戦いに続く、武田軍の完敗であり、世にこれを「砥石崩れ」とよんだ。

砥石城本城
砥石城本城

このあと、勢いづいた村上義清は、小笠原長時を助け、安曇郡の平瀬城(長野県松本市)に進出し、さらに佐久郡にも侵入し、武田軍と戦う態勢を強めており、信玄にとって手ごわい敵となったのである。

真田幸隆が砥石城を落とす

ところが、信玄が大軍でも落とせなかった砥石城を、翌天文20年(1551)5月16日、真田幸隆がわずかの兵で落とすことに成功している。

幸隆は、史料によっては幸綱とも書かれるが、はじめは武田信玄に敵対しており、天文10年(1541)の海野平(うんのたいら)の戦いでは信玄に敗れ、上野に逃れたりしていた。しかし、信玄に敵対し続けることが不利と判断し、同15年(1546)ごろから信玄に仕えていた。

その幸隆が、わずかの軍勢で砥石城を落としたのである。前年、城を守り抜いたことで城側が油断していたことも理由であるが、幸隆は調略によって落としたといわれている。城中の将兵に対する内応工作が功を奏したのである。

この功によって、武田家臣団の中でも幸隆の名は知られる存在となったばかりでなく、同22年(1553)ごろには本拠地の真田郷を回復することにも成功した。この幸隆の子が昌幸、その子が信繁(通称幸村)である。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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