2021/08/31
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第34回【岐阜城】発掘調査で判明した信長の石垣と道三の一ノ門
城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第34回は、織田信長が斎藤龍興から奪い、天下統一の拠点とした岐阜城(岐阜県岐阜市)。調査で明らかになった信長時代の城の姿や道三時代の遺構について岐阜市ぎふ魅力づくり推進部文化財保護課の森村知幸さんが紹介します。
史跡指定範囲と地区区分
織田信長が斎藤龍興から奪い、「天下布武」の拠点とする
岐阜城は岐阜県岐阜市の中央部に位置する標高329mの金華山(稲葉山)に築かれた山城である。天文8年(1539)頃、斎藤道三は稲葉山に城を築き、麓に城下町を整備したと伝えられている。永禄10年(1567)、織田信長は稲葉山城を占領し、城主の龍興(道三の孫)を追放した。この時、城と町の名を「岐阜」に改めたとされる。天正3年(1575)、信長の息子の織田信忠に家督が譲られるが、本能寺の変以降は5人の城主が次々に入れ替わる。織田秀信(信長の孫)が城主であった慶長5年(1600)に関ヶ原合戦の前哨戦が起こり、岐阜城は落城し、廃城となる。
岐阜城は昭和59年(1984)、岐阜公園の再整備構想を契機に初めて発掘調査が行われ、4次調査中の平成23年(2011)に国の史跡に指定された。史跡指定地を山上部・山麓部・山林部の3つに地区区分し、調査や保存管理を行っている。
巨大な庭園や信長時代の天守台石垣が見つかる
山麓部全景
山麓部は現在のロープウェー乗り場周辺の歴代城主の居館が存在したと推定される場所であり、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの記述では複数の庭園が存在したとの記録が残っている。
山麓部での発掘調査は昭和59年(1984)の1次調査を皮切りに4次調査まで行われ、巨石石垣に区画された大規模な通路や石垣などが検出された。庭園に関する遺構は2次調査で円礫を敷き詰めた石敷遺構などが、4次調査では様々な場所から池泉遺構や人工的に修景された谷川や岩盤が確認された。これら個々の庭園は谷川や岩盤を介して繋がり、高さと奥行きのある大きな庭園空間を作り出していることが明らかになってきた。
加工された岩盤と池泉遺構
山上部は金華山山頂とそれに続く尾根筋を中心とした地区で、平成30年(2018)より本格的な発掘調査に着手し、令和元年(2019)までに信長期の天守台石垣などの遺構が見つかっている。
信長期の天守台石垣
令和2年(2020)は一ノ門と天守周辺で調査を行った。天守周辺では、天守台の2段目の石垣を発掘調査で初めて確認し、天守台石垣が2段で構築されていることが判明した。また、2段目の石垣の裏込めは1段目の石垣の基礎を兼ねており、1段目と2段目の石垣は同時に築かれた可能性が高い。
天守台2段目の石垣
遺物は軒丸瓦や軒平瓦などが見つかっている。軒丸瓦は文様の特徴が信長の家臣団の城である坂本城(滋賀県大津市)や勝龍寺城(京都府長岡京市)などで見つかっている軒丸瓦と類似していることから、同時期に造られたものと考えられ、天守台石垣が信長期に築かれた可能性がさらに高まった。
天守周辺出土の軒丸瓦
道三が築いたと判明した一ノ門!明らかになりつつある城の全貌
一ノ門では、門の痕跡や構造を調査したところ、岩盤の高まりの周りに石垣と巨石石垣を組み合わせてコーナー部分を造り出しており、通路はこの石垣と巨石石垣を右に見ながら左へ屈曲する構造であることが確認された。このような構造と平面形は岐阜県山県市にある大桑城岩門と酷似している。大桑城(岐阜県山県市)は16世紀前半に美濃国守護土岐氏によって築かれた城郭であり、一ノ門は大桑城岩門と同じ技術を用いてほぼ同時期に斎藤道三によって築かれたことが判明した。
一ノ門全景
大桑城「岩門」と岐阜城「一ノ門」平面図
出典:内堀信雄1997「考古資料から見た16世紀代の美濃(2)-城郭石垣の変遷を中心として-」『美濃の考古学』第2号 美濃の考古学刊行会
また、岩盤上面には平坦に加工された痕跡が直線上に3ヶ所見つかり、門の柱を据え付けた跡の可能性がある。岩盤は火を受け赤く変色しており、焼けた壁土や瓦が見つかったことから、織田信長入城以降に瓦葺の門に改修され、関ヶ原合戦の前哨戦による火災で焼け崩れたと考えられる。
岩盤の加工痕
岐阜市は平成23年(2011)に『史跡岐阜城跡保存管理計画』、平成25年(2013)に『史跡岐阜城跡整備基本構想』を策定した。その後、平成30年(2018)から岐阜城に関する多角的な調査研究を行い、岐阜城跡の本質的価値を明らかにするための総合調査に着手した。調査の成果は令和3年(2021)3月に『史跡岐阜城跡総合調査報告書Ⅰ』として刊行し、現在は調査成果を基に計画の改定を行っている。しかし、山上部の発掘調査は始まったばかりであることや、発掘調査以外にも文献史料の集成や基礎作業など課題も多く残っており、岐阜城跡の調査は現在も道半ばである。そのため、今後も発掘調査をはじめとした各種調査を継続し、研究を積み重ねることで岐阜城の知られざる価値が明らかになることは間違いない。
岐阜城(ぎふじょう/岐阜県岐阜市)
もとは稲葉山城という名前で、美濃守護代・斎藤氏が居城としていたが、家臣の長井新左衛門らにより奪われ、その後新左衛門の子・斎藤道三が国盗りの拠点とした。息子の義龍に城をゆずるが、その後二人は不仲となり、道三は義龍に討たれてしまう。道三の死後は婿の織田信長が稲葉山城を攻めるが落とせず、義龍の子・龍興が城主の時にようやく攻め落とした。この名城を手にした信長は、地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改め、ここで「天下布武」の朱印を用い始めたと伝わる。
執筆/森村知幸(岐阜市ぎふ魅力づくり推進部文化財保護課)
写真提供/岐阜市