2022/06/21
逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第16回【松永久秀】派手な逸話に彩られた戦国きっての悪人の素顔
「逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将」、第16回は戦国三大悪人の一人に数えられる松永久秀(まつながひさひで )。三好長慶(みよしながよし)の片腕として活躍するも長慶死後に独立。大和一国を支配しますが上洛してきた織田信長に従い所領を安堵されました。しかし信長を2度も裏切り、ついには信貴山城で爆死するという壮絶な最期を遂げたという逸話を持ちます。さて、久秀はいったいどんな悪行を働いたのでしょうか。
自害の前に平蜘蛛を叩きつけて粉々にする松永久秀。織田信長が欲しがった名物「平蜘蛛」に爆薬を仕掛け、爆死したとも伝わる(国立国会図書館蔵)
日本一美しいと称された多聞山城
戦国時代きっての悪人とされる松永久秀。いったい彼は何をしたのでしょうか。あるとき織田信長は徳川家康に対して、そばに控える松永久秀が、世の中の人が成しがたいことを3つ成したと紹介します。1つ目は「将軍・足利義輝の殺害」、2つ目は「主君・三好義興の殺害」、3つ目は「東大寺大仏殿を焼き討ち」したことだと。このとき久秀は冷や汗を流して赤面したといいます。
また松永久秀は三好長慶に仕えていた頃、長慶の弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を讒言(ざんげん)により死に追い込み、冬康を殺したことを悔やんだ長慶は、病を重くし、亡くなりました。さらには織田信長を2度も裏切り、最期は名物「平蜘蛛」とともに爆死したとする衝撃的なエピソードとあいまって、悪人の代表格として語られてきました。
茶釜「平蜘蛛」。蜘蛛が這いつくばっているように見えるためその名で呼ばれる。久秀の平蜘蛛は破片を集めて復元されたというが、定かではない(九州国立博物館蔵/ColBase)
松永久秀の出自は諸説あって定まっていませんが、30歳頃に三好長慶に仕えはじめてからメキメキと頭角をあらわし、三好政権を支える重臣として活躍。大和をほぼ手中に収め、大和と河内の境にある信貴山城(奈良県平群町)を居城としています。
その翌年、久秀は多聞山城(奈良県奈良市)を築きます。城は東西約250m、南北約200mの規模と推定され、天守に相当する4階建ての櫓、のちに多聞櫓と呼ばれる長屋形式の櫓が備わっていたといいます。天守といえば織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)がその先駆けといわれますが、安土城以前にも天守を備えた城があったことが分かってきているように、多聞山城もそうした黎明期の天守の一つといえます。もしかしたら信長は、多聞山城の天守を安土城の参考にしたのかも知れませんね。
宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』の中で多聞山城を訪れたアルメイダの書簡を紹介しています。それには「城壁は白く輝き、建物は香り立つ杉材(檜と推定)でつくられている。壁は日本と中国の歴史物語が描かれた障壁画と金でできており、柱にはバラの彫刻が施されている。都で見たどのものよりも美しく、日本中から見学者が訪れる」と記されています。実際に薩摩から上京した島津家久も、天正3年(1575)に多聞山城を訪れたことを日記にしたためています。
多聞山城の遠景。信長の命により天正4年(1576)に城は破壊され、現在は中学校の敷地となっている
久秀は本当に3つの悪事を働いたのか?
冒頭で紹介した松永久秀の悪事は、そもそも本当のことなのでしょうか。3つの悪事のエピソードは、江戸時代に書かれた書物で紹介されている逸話なので、信憑性が薄いのでは? といわれています。また、近年の研究ではこれらを否定する意見もあります。
久秀の悪行が記された『常山紀談』。江戸時代中期に成立した、戦国時代から江戸時代初期までの武将たちの逸話集
将軍・義輝暗殺については、久秀は事件当日に京にいなかったことが分かっていますし、義輝とともにその弟なども一緒に殺害した三好三人衆に比べて、同じ弟である足利義昭に軽い処分を与えていることから、将軍暗殺に否定的だった、あるいは同意しつつも非協力的だった可能性が指摘されています。三好義興暗殺に関しては、当時畿内で久秀による毒殺説が流れたことは確かのようですが、あくまで風聞が流れただけでその真相は分からないようです。また東大寺焼き討ちについても、三好三人衆と松永久秀の戦いにより大仏殿が焼失したことは事実のようですが、意図的ではなく戦いの余波での失火が原因といわれます。
悪評が立つということは、周りから好かれていなかったとも考えられますが、それだけ強い権力を持っていたことの裏返しでもあります。三好長慶の右腕として政権を支えた高い政治力に多聞山城に代表されるような優れた築城技術を備え、茶人としても高名だった松永久秀。織田信長が一度叛いた久秀を許したように、捨てるには惜しいほど能力の高い人物だったのでしょう。
松永久秀ゆかりの城と攻めた城
【居城】信貴山城(奈良県平群町)
大和を攻略した久秀が居城とした城。東西約600m、南北約880mの規模を誇った城で、標高約437mの雄岳山頂を主郭にして尾根上に曲輪が広がる構造でした。織田信長に攻められた松永久秀が最期を遂げた城でもあります。
信貴山城址の碑
【支城】多聞山城(奈良県奈良市)
織田信長が安土城築城の参考にしたのではないかといわれる城。解体された4階櫓は安土城に運ばれていることから、信長に与えた影響は小さくないと考えられています。
多聞山城の堀切。城の遺構はほとんど残っていない
【攻めた城】筒井城(奈良県大和郡山市)
筒井城は大和興福寺の宗徒である筒井氏の居城です。筒井の集落を囲むように築かれた平城で、松永久秀との間では3度の攻防戦が行われ、最終的に筒井順慶が松永久秀から奪還。その後、筒井氏が郡山城に移り廃城となりました。
本丸跡に立つ碑。城跡は宅地や畑、水田となっている
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執筆・写真/かみゆ歴史編集部(丹羽篤志)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。主な制作物に、お城の“どうしてそうなった!?”を紹介する『ざんねんなお城図鑑』(ともにイカロス出版)など。2022年6月9日には戦国武将がお城の基本知識や名城の秘密を教えてくれる『戦国武将が教える! 日本最強の城』(ワン・パブリッシング)が発売!
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