超入門! お城セミナー 第131回【武将】徳川家康が住んでいたお城ってどこにあったの?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回は2023年大河ドラマ主人公としても注目を浴びている徳川家康の居城について。乱世を終わらせ260年の平和を築いた家康は、どのような城をつくり住んでいたのでしょうか?

岡崎城
徳川家康が誕生した岡崎城。左に見える天守は1959年に造られた復興天守である

何度も居城を変えた家康

さあ〜、いよいよ徳川家康の生涯を描くNHK大河ドラマ『どうする家康』が始まりしたね。この放送にともなって、今年は東海・関東地方の家康関連史跡がガゼンにぎやかになりそうです。そこで、今回は家康の城にスポットを当ててみましょう!

さて、戦国時代や江戸時代の多くの武将・大名は、政情によって居城を変えることが常でした。もちろん、三河の小領主の子に生まれ、乱世の荒波を見事に泳ぎきって天下人にまで上りつめた徳川家康も同様です。ざっと並べると、岡崎城(愛知県)→浜松城(静岡県)→駿府城(静岡県)→江戸城(東京都)→再度の駿府城 となります。それでは、家康の生涯を大まかに追いながら、この歴代居城を紹介していきましょう。

家康出生の城:岡崎城(愛知県岡崎市)

まずは、家康出生の城・岡崎城から。二川合流地点の低湿地にある台地の先端に築かれたこの城は、三河の守護仁木氏の代理人としてこの地に入った西郷氏が室町時代に築城し、居城としていました。やがてこの北側にある松平郷の松平氏が勢力を強め、松平清康(まつだいらきよやす)が城を奪います。この清康が、家康のおじいさん。そしてこの岡崎城で、天文11年(1542)にのちの家康である竹千代が生まれます。

岡崎城、井戸
岡崎城内に残る家康産湯の井戸。付近には家康のへその緒を埋めた「胞衣塚」も立っている

とはいえ一介の小領主だった松平氏。隣国尾張(愛知県)の織田氏に狙われていたため、家康の父・広忠は、駿河・遠江の今川氏を後ろ盾にしようと、幼い息子・竹千代を人質に差し出します。ところがほどなく広忠が亡くなったため、松平氏は岡崎城もろとも今川に吸収されてしまい、竹千代と松平の家臣は今川に従属する日々を過ごすことになります。

松平元康として元服するまでのこの人質時代を過ごしたのは今川館で、ココが実はのちの駿府城……なのですが、詳細はもう少し後に。さて、成長した元康は、主君・今川義元に従って尾張の織田攻めに参加します。この時起こったのが……そう、桶狭間の戦いです。ここで、元康は今川氏の支配から離れることを決断し、徳川家康と名を改めます。今川軍がちりぢりに敗走する中、自分の家臣を集めて決起の場としたのが岡崎城。ですから、岡崎城は家康出生の城であり、徳川氏躍進の拠点となった、家康、そして徳川家にとって、特別な城なのです。

今川館
今川館の推定復元イラスト。当時、東国有数の都市だったが、のちに家康が駿府城を建てた際に館は失われてしまった(イラスト=香川元太郎)

家康が次の浜松城(静岡県)に移ってからの岡崎は、嫡男・信康の切腹と、城代・石川数正の豊臣方への出奔など紆余曲折ありますが、関ヶ原の戦い後には本多氏が入ります。現在建つ復興天守は、この本多氏時代に行われた大改修時に築いた下見板張の天守をベースにしているそうです。

強敵と対峙した城:浜松城(静岡県浜松市)

さて、家康が次に敵対したのは……出ました、甲斐の武田信玄です。武田の脅威に備えて自分の勢力圏の東端にあった曳馬城(ひくまじょう)を改修して浜松城と改名、居城としました。このあと、関東に移るまでの17年間を、東海道の要衝であるこの城で過ごすことになります。

浜松城
遠江攻略後に居城とした浜松城。現在、本丸に復興天守が建っているが、戦国・江戸時代を通じて天守は存在しなかったという

浜松城といえば、元亀3年(1572)の三方ヶ原(みかたがはら)の戦いの時に、武田信玄に大敗した家康が命からがら帰還した城であることを思い浮かべる人が多いのでは。その後、家康はかなり念入り・複雑に城を改修したそうですが、家康が関東に移ってからは、譜代大名が入る城となり、幕末まで、実に目まぐるしく城主が交代しました。しかし、城主となった大名が老中などの重職に任じられたことから、いつしか幕閣入りへの登竜門のようになり、家康自身の出世とあわせて「出世城」と呼ばれるように。明治には建物がすべて取り壊され、現在の浜松城公園は、天守曲輪と本丸の一部。天守台に建つ天守は、昭和の復興天守です。そして近年、天守門と土塀が木造でしっかり復原され、見事な威風を漂わせています。

三方ヶ原では武田軍に惨敗した家康ですが、信玄死後の長篠の戦いで信長とともに武田に勝利。天正10年(1582)には武田氏を滅亡へ追いやり、家康は三河・遠江・駿河の3か国を領する大名となります。そして信長の死後は、後継者である羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立。家康は臣従を示しつつも京・大坂から距離を保った駿府城に移ります。そう、この駿府城が、前述したとおり今川館があったその場所なのです。かつては国府だった、1000年前からの駿河の中心地です。しかし、4年後には秀吉の命令で家康は関東へ移ることになります。

幕府草創の城:江戸城(東京都千代田区)

このあと家康は江戸に入り、地形や川筋を変えるほどの大工事によって、段階的に開拓・整備・拡張していきます。秀吉が没すると家康は天下取りに動き、関ヶ原の戦いを制して征夷大将軍に。ついに江戸に幕府を開き、全国の大名を召集して行われた江戸城の大改修で、粗末な土の城だった江戸城とその城下町を、日本最大規模の惣構(そうがまえ)の城へと生まれ変わらせました。その後も普請は続き、孫の家光の代に完成をみました。以前この連載でも何度か取り上げたように、現在の皇居も江戸城の一部です。

江戸城
家康・秀忠・家光によって完成した江戸城の惣構(イラスト=香川元太郎)

家康最期の城:駿府城(静岡県静岡市)

しかし、まだこれで終わりではありません。大坂には、秀吉の子・秀頼をトップにいただき、いまだ勢力を保った豊臣家が健在でした。家康は2年で将軍を退いて嫡男・秀忠にゆずり、駿府城に隠居します。この時の天下普請による駿府城の改修は、まさに江戸に匹敵するような規模だったようです。大御所家康はバリバリの現役で、駿府から日本を動かしていたのです。そしてついに大坂の陣で豊臣家を滅亡に追いやります。そしてその翌年、家康は駿府で生涯を閉じました。

現在、駿府城では家康時代の天守台とみられる遺構を調査中ですが、この最中、なんともう一つの天守台が見つかっています。こちらは大御所時代の切込接(きりこみはぎ)の石垣とは違い、自然石を積み上げた野面積(のづらづみ)。発見当初は、家康が江戸に行ってから入城した中村一氏が築いたものか? と報道されましたが……遺構からわかる天守の構造が、文献の記述と一致するそうで、現在はどちらの遺構も家康によるものだという見方が強いようです。

駿府城
駿府城天守台の発掘現場の様子。発掘された天守台の規模は、江戸城や大坂城よりも巨大であった

いずれにしてもここ駿府は、今川人質時代、豊臣家臣時代、そして最晩年の大御所時代と、家康がさまざまな思いをもって長い年月を過ごした場所。こちらも家康ファンには外せない城ですね。

かけ足で家康の生涯と居城の変遷を紹介しましたが、詳細はドラマの方でもぜひ確認してくださいね。そして、この機会に関連の城たちに多くの人が訪れて賑わい、この先の史跡としての維持・存続の大きな力となることを期待しようではないですか。さ〜あ、今年もお城に行きましょう!

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。主な制作物に、戦国時代を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、スタンプ帳付の子ども向けお城入門書『戦国武将が教える 最強!日本の城』など。

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