超入門! お城セミナー 第127回【歴史】どうして信長は京のお城じゃなくて本能寺に泊まっていたの?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回は織田信長と京について。本能寺の変の時、なぜ信長は防御力が低い寺に泊まっていたのか。そもそも、なぜ京に自分の城をつくらなかったのか。宿所の変化から信長と京都の関係を解き明かします。

本能寺焼討之図
天下統一を目前にしていた織田信長・信忠父子が殺害され、日本中に混乱を巻き起こした本能寺の変。日本で最も有名といってもいい歴史的事件だが、謀反の動機や信長上洛の理由、信長の遺体の行方など、解明されていない謎が多い(『本能寺焼討之図』/東京都立中央図書館特別文庫室蔵)

京での拠点を持たず、寺院を転々としていた信長

6月です。日本史好き・戦国時代好きが6月と聞いて思い出すのは、天正10年のアレでしょう。……そう、「本能寺の変」です。旧暦の天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺に明智光秀の軍勢が押し寄せ、天下統一目前の織田信長が命を落とした、日本史上最大のクーデターとも呼ばれる事件。信長ファンなら、「天正10年」というワードだけで胸がギュッと締めつけられるそうですが、「6月」が付くとさらに感慨深いものになるのでは。

本能寺
本能寺の変後、寺は豊臣秀吉の命によって移転。境内には信長の廟所があり、事件を偲ぶことができる。なお、本能寺は度々焼き討ちによる焼失の憂き目にあっているため、「ヒ(火)が去る」という意味をこめて「能」のつくりを「去」に変えたとされている(PIXTA)

でも「城好き」の観点からみると、自らの居城をつぎつぎと移し、ついには安土城(滋賀県)という革命的な城を築いて日本の城の歴史を変えた信長が、その生涯を終えたのが町なかのお寺だったなんて……と、不思議に思うかもしれません。まこと、この世は常ならんもの。あの時、信長はどうして城ではなく防御のままならない寺に滞在していたのでしょうか?

武士が政治を行った時代、平清盛が六波羅(ろくはら)に、足利将軍が花の御所に住んだように、武士の大将は天皇の住居である内裏(だいり)を守るために洛中に本拠地を構え、政治を行いました。天皇のおわす京の都を攻めて内裏までをも壊滅させるという感覚は日本人にはなかったため、都の守りといえばまず風水などによる怨霊対策が重視されました。内裏も将軍の御所も、堀や土塁、塀や門といった防御設備はとりあえずあったものの、戦を想定して築いた城のようなガチガチの軍事的防御施設はありませんでした。それでも武士の大将が洛中に住まうことで、都に秩序をもたらしていたのです。

六波羅
初の武家政権を打ち立てた平清盛が住んだ六波羅にある六波羅蜜寺。平氏政権に続いて創設された武家政権・鎌倉幕府は将軍こそ京に住まなかったものの、朝廷の監視と京の治安維持をになう六波羅探題を設置していた(PIXTA)

ところが信長は、上洛して天下の実権を握っても、最後まで京にどっしり腰を据えることはありませんでした。あくまでも、岐阜城(岐阜県)・安土城という、自ら心血を注いで築いた城を本拠地とし、京と行ったり来たりを繰り返しました。当時正月の挨拶は、力関係の確認といった意味合いもあって重視されましたが、信長は年末年始を京で迎えたことが一度もなかったそうです。う〜ん、ちょっと「距離」を感じますよね。

そんな信長が在京中に滞在した所は、ほとんどが寺。以下は、信長が宿所として使用したおもな場所を列挙しています。ほぼ時系列ですが、この他にも記録に名前が出てくるものの場所が不明な宿所も数カ所あり、それらは省いています。

東寺 → 清水寺(成就院) → 妙覚寺 → 本能寺 → 知恩院 → 等持寺 → ☆相国寺
(→※二条御所) → 妙覚寺 → ※本能寺

織田信長、宿所マップ
信長の宿所マップ。上洛当初に拠点とした東寺・清水寺と、義昭が挙兵した時に軍勢を伴って拠点とした知恩院以外は、内裏や義昭の二条城からの距離を意識して宿所を選んでいたようだ(地理院地図を編集部で加工)

2度登場している妙覚寺・本能寺といった日蓮宗(法華宗)寺院は、戦国時代の洛中で1町(約120m四方)以上の広い敷地を持ち、堀や土塁といったある程度の防御設備を持ったものが多かったそうです。なるほど、守りの堅い城がない洛中で宿所とするのなら、こういう選択肢になるでしょう。

信長といえば本能寺のイメージが強いですが、実はこの中では妙覚寺がダントツの利用率でした。過去に13代将軍・足利義輝が御座所としていた“ハク”付きの寺であり、当時のメインストリート室町通に面し、15代将軍・足利義昭の御所(旧二条城)へのアクセスも良かった妙覚寺は、信長が京で最も親しんだ場所だったようです。後出する二条御所もこの妙覚寺のお向かいでした。この寺は天正11年(1583)の豊臣秀吉による都市計画で移転し、現在は「上妙覚寺町」と「下妙覚寺町」の地名のみが残ります。

離れたり縮まったり…信長と京の“微妙”な距離

織田信長、旧二条城跡
信長が足利義昭のために築いた旧二条城跡。義昭追放後も建物は残されていたが、安土城普請が始まると解体され、安土城の建物に転用されたという(PIXTA)

信長は生涯正式に参内(さんだい)したことがなかったといわれ、京とは距離を置き続けましたが、その距離は一定ではなく、時に縮まったり離れたり。上記の義昭御所(旧二条城)は、永禄12年(1569)に義昭が三好三人衆に襲撃されたことをふまえて信長が築いたもので、現在は京都御苑内に復元された石垣以外、ほぼ遺構がありません(第68回【歴史】京都の二条城はいくつもあったってどういうこと? を参照)。全国の武士を集めて天下普請のように築造が行われ、石垣や櫓といった防御設備が施された、「城」といえる広大な御所だったらしく、信長は率先して仕事をするため3か月ほどこの周辺に住んでいたとか。

のちに義昭が追放され京は将軍が不在になりますが、そんな中で信長が天下の仕事を行うに際し、仮住まいでは不便なことも出てきます。足利義満建立の由緒を持つ相国寺(☆印)は、内裏の守護にまつわる仕事を効率的にこなすために信長が比較的長期にわたり宿所とした寺。内裏に近く、現在隣接する同志社大学も寺域だったほど広大だったため、一時ここに城を構える計画が持ち上がったようです(実現はせず)。

そして、※印の二条御所と本能寺は、信長が在京中に「自分が住むために」普請(といっても大掛かりな「改築」程度か?)した所です。二条御所は、信長が使用していた頃は「二条殿御屋敷」などと呼ばれ、「御所」という呼び名になったのは、3年足らず後にこの屋敷を誠仁(さねひと)親王に譲ってからのこと。

織田信長、本能寺跡
信長が宿泊した移転前の本能寺跡。現在は介護施設になっており、施設の傍らに石碑が立っている

こうしてみると、義昭御所の普請中と相国寺に起居した頃、そして二条御所と本能寺を拠点とした頃は、京と信長の距離が少〜し縮まっていた時期だといえそうですし、都の守護者が居てくれることで天皇家や公家はホッとしたでしょう。ちなみに信長が本能寺を京での拠点にした頃は、家督を譲られた織田信忠が妙覚寺を宿所としており、本能寺の変当日、信忠は父の救出を断念して妙覚寺から二条御所に移動、親王を脱出させた後に籠城し、自刃しています。この本能寺も移転し、現在はほぼ痕跡をとどめていませんが、大量の焼け瓦が出土した近年の発掘調査で、堀や土塁、門といった遺構が確認され、ある程度の防御設備は施されていたことが確認されています。

織田信長、二条御所跡
二条御所跡。現在は京都国際マンガミュージアムになっている(PIXTA)

信長を語る時、傍若無人で苛烈・残酷という面が特にクローズアップされてきましたが、信長と京の間に微妙な距離があり続けたのは、「弾正忠」という朝廷の官職を代々自称し、畿内文化を取り入れた家で育った信長が、京は近づきすぎてはいけない所、侵してはいけない所という、教養に基づいた遠慮を持ち合わせた「常識人」だったからではないか、という見方があります。4町もあった立派な城だった義昭御所に比べ、二条御所がわずか1町足らずの広さだったこと、ついに最後まで自分のための本格的な城を京に築かなかったことも、そのヒントなのかもしれません。

とはいえ、どうやらこの時代屈指の合理主義者であった信長にとって、儀礼満載の公家社会がわずらわしかっただけのようにも見えますし、武人として、人口過密地である京都盆地の中で、内裏を守りつつ大軍を動かす不自由も感じていたでしょう。研究が進むにつれ信長の色々な顔が分かりつつありますが、こういった矛盾を併せ持つのは、時代が移り変わる過渡期の英傑だからなのか……。そこが彼の人気の理由でもありそうです。

信長が天正10年のあの時に本能寺に入ったのは、中国攻めの仕上げに向かうためだけでなく、征夷大将軍・太政大臣・関白のいずれかへの任命(三職推任)の返答をするという要件もあったようです。変がなければ、ひょっとするとこの後に京との距離がグッと縮まり、洛中に高石垣の信長の城がドーンと建ったのかもしれません。でも、その真相と信長の心の内は、本能寺炎上の煙の中……。今となっては是非もなし。

地獄の暑さになる前の6月の京都を、わずかな信長の痕跡をたどりながら、ゆっくり歩いてみませんか? 城好きの皆さんですから、その際はもちろん二条城もお忘れなく!

織田信長、建勲神社
織田信長は現在京都の建勲神社に祀られ、甲冑や刀など愛用の品もここに収められている。京と微妙な距離をとり続けていた信長だが、京の人々は彼を畏れつつも愛していたのかもしれない


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。主な制作物に、『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)など。『ざんねんなお城図鑑』(イカロス出版)が2022年4月から好評発売中!

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