理文先生のお城がっこう 歴史編 第52回 秀吉の城4(大坂城の瓦)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。豊臣秀吉が築いた大坂城の構造や天守について見てきた前回と前々回に続いて、今回は大坂城で使われていた瓦がテーマです。発掘調査で出土した瓦の特徴を見ながら、秀吉が見せようとした城の姿やその意図について考えていきましょう。

大坂夏の陣(じん)後、徳川幕府(ばくふ)によって完全に埋(う)められてしまったため、豊臣(とよとみ)大坂城(大阪府大阪市)を知る資料(しりょう)は極めて少ないことが解(わか)っていただけたでしょうか。前回は、文献(ぶんけん)や絵画資料など記録に残されている秀吉(ひでよし)の大坂城天守の姿について見てみました。今回は、中心部ではないものの、実際(じっさい)に豊臣大坂城で使われていた瓦(かわら)が発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)で出土していますので、それについてまとめてみたいと思います。

大阪城天守閣、金箔瓦
現在(げんざい)の大阪城天守閣(かく)の金箔瓦。秀吉時代の大坂城天守もこのようなイメージで金箔がふんだんに使われていたと考えられています

大坂城の瓦生産

大坂城の中枢部(ちゅうすうぶ)では、ほとんど発掘調査は実施(じっし)されていませんが、三の丸や城下町など大坂城関連として数多くの発掘調査が実施されています。従(したが)って、本丸主要部に使用された瓦の確認(かくにん)数は非常(ひじょう)に少ないことになります。そのため、周辺域(いき)の調査で出土した瓦から大坂城全体の瓦の使用状況(じょうきょう)を類推(るいすい)するしかないのが現状(げんじょうです。

大坂城出土瓦から、瓦製作(せいさく)は播磨(はりま)・奈良・京都・泉州(せんしゅう)(けい)の工人集団(しゅうだん)の関与(かんよ)が明らかとなってきています。秀吉は、大坂築城に際(さい)し配下の武将(ぶしょう)に工事を分担(ぶんたん)し手伝うことを命じました。いわゆる普請(ふしん)加役で後の天下普請にあたります。これにより、因幡(いなば)・備前(びぜん)・但馬(たじま)・播磨・丹後(たんご)・丹波(たんば)・摂津(せっつ)・山城・大和・近江(おうみ)・若狭(わかさ)・越前(えちぜん)・能登(のと)・越中(えっちゅう)・加賀・伊賀(いが)・河内(かわち)・和泉(いずみ)の諸国(しょこく)から、数万人の普請人夫(にんぷ)が集められ、築城(ちくじょう)が開始されました。

秀吉の大坂城から出土した瓦の特徴(とくちょう)を見てみましょう。大坂城の瓦は、安土城(滋賀県近江八幡市)とは異(こと)なり多種多様なモチーフを持ち、かつ製作技法(ぎほう)も異なっていました。統一(とういつ)がとれて磨(みが)き上げたような安土城の瓦と比較(ひかく)すれば、雑(ざつ)でむらのある統一性に欠けた瓦としかいいようがありません。これは、多種多様な工人集団を集め、大規模(だいきぼ)で早い瓦生産をめざしたからに他なりません。

安土城段階(だんかい)では、瓦製作に際し粘土(ねんど)を直方体に積み上げたタタラから、瓦の大きさに応(おう)じた粘土板を切り取る時に、職人(しょくにん)が糸状(じょう)のもので切り取っていました。大坂築城時には、切り取る時に木枠(わく)に鉄線を取り付けた工具を使用するようになりました。工具を使用することで、より早く多くの瓦生産が可能(かのう)になったのです。秀吉は、大坂城に使用する瓦の統一性というより、一日も早く完成させるというスピードを第一優先(ゆうせん)したのです。

alt
金箔三巴文軒丸瓦・金箔唐草文軒平瓦((財)大阪市文化財協会蔵)

大坂城の金箔瓦

大坂城の瓦で特筆されるのは、織田(おだ)政権(せいけん)下において「信長及(およ)び子息」しか使用を許さなかった金箔瓦(きんぱくがわら)を使用していることです。信長の安土城で使用していた金箔瓦を、大坂城で同じように使うことによって、秀吉は自分自身が正当な信長の後継者(こうけいしゃ)となったことを、全国の大名及び一般(いっぱん)大衆(たいしゅう)に知らしめようとしたのでしょう。大坂城こそ、天王山に築(きず)いた山崎城(京都府大山崎町)をさらに発展(はってん)させた「見せるための城」の完成形態(けいたい)だったのです。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いによって、織田政権の後継者たる地位を確実(かくじつ)にした秀吉は、天正11年(1583)築城を開始した大坂城で初めて金箔瓦使用に踏(ふ)み切りました。ルイス・フロイスは、「大坂城の屋根にはそれぞれ正面(部)があり、上部には怪人(かいじん)面(鬼面(きめん))が付いた黄金の鬼瓦(おにがわら)が置かれ、それはまた角(の部分)にも(ありました)。そしてそれらの瓦は皆(みな)黄金色で、建物にいっそうすばらしい光彩(こうさい)を添(そ)えていました。(以下略(りゃく))」と記録しています。

alt
金箔押し菊文(きくもん)大飾瓦(合同庁舎1号館敷地出土)大阪城天守閣蔵

金箔瓦の使用場所

安土城は、主要部と信長が関係する建物のみが金箔瓦でしたが、大坂城跡(あと)からは、中枢部だけでなく三の丸の城下町からも金箔瓦が出土し、城下町まで含(ふく)めて黄金で飾(かざ)られた都市であったことが解ります。

秀吉は、信長の後継者としての地位を獲得(かくとく)したことを、城下までも飾られたこの豪華絢爛(ごうかけんらん)な大坂城によって全ての人々に知らしめようとしたとしか思えません。いかに秀吉に富と権力(けんりょく)が集中しているかを見せたかったのです。フロイスは、「そして日本の歴史上未曾有(みぞう)の著名(ちょめい)にして傑出(けっしゅつ)した王候武将と言われている(織田)信長の後継者となるに及び、可能なあらゆる方法によって自らを飾り、引き立たせようと全力を傾(かたむ)けました。彼はこれによって、(主君)信長の人柄(ひとがら)ならびに政治(せいじ)が放った豪壮(ごうそう)と威厳(いげん)に寄(よ)せる日本全国(民)の尊厳(そんげん)と評価(ひょうか)を改め、己(おのれ)に集中せしめんと欲(ほっ)したのです。(以下略)」と続けています。

金箔押桐紋方形飾瓦、大阪城
金箔押桐紋方形飾瓦(きんぱくおしきりもんほうけいかざりがわら)(大阪歴史博物館保管)

alt
金箔龍面鯱瓦(きんぱくおしりゅうめんしゃちがわら)。大阪市指定文化財((財)大阪市文化財協会蔵)

alt
(上)金箔押三巴文軒丸瓦(きんぱくおしみつどもえもんのきまるがわら)(大阪城天守閣蔵)
、(下)金箔押鯱瓦片(きんぱくおししゃちがわらへん)(大阪城天守閣蔵)

群雄(ぐんゆう)が割拠(かっきょ)する戦国の世を、己の才覚一つで天下統一(とういつ)目前まで成し遂(と)げた織田信長。その政権を引き継(つ)ぐにあたって、出自も知れず、代々仕える武将を持たない秀吉は、ありとあらゆる方法を使って、自分を立派(りっぱ)に見せるしかなかったのです。大坂城は、その舞台装置(ぶたいそうち)の中でも重要な役割(やくわり)を担(にな)っていたのです。秀吉の元を訪れる有力武将(毛利氏や大友氏)たちに、豪華絢爛な城を案内し、度肝(どぎも)を抜(ぬ)こうとしたのです。城下に入った時点で、秀吉に仕える武将たちの屋敷(やしき)地は金箔瓦に飾られ、さらに城へ入ると黄金に輝(かがや)く姿(すがた)であったという視覚効果(しかく)が何よりも求められたのでしょう。金箔瓦こそ、覇者(はしゃ)に許(ゆる)された特別な瓦だったのです。

加藤理文,城びと
大坂城三の丸跡出土金箔井桁紋軒丸瓦(きんぱくいげたもんのきまるがわら)、橘紋方形板状飾り瓦(たちばなもんほうけいかざりがわら)、熨斗瓦類(のしがわらるい)((財)大阪市文化財協会蔵)

金箔瓦、厳島神社千畳閣
厳島(いつくしま)神社千畳閣(せんじょうかく)(豊国神社)。秀吉が、千部経の転読供養(くよう)をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に建立(こんりゅう)を命じましたが、秀吉の死により未完成のまま現在に至っています。 屋根には、燦然(さんぜん)と金箔瓦が輝いていました

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※金箔瓦(きんぱくがわら)
軒丸(のきまる)瓦、軒平(のきひら)瓦、飾り瓦などの文様部に、漆(うるし)を接着剤(せっちゃくざい)として金箔を貼った瓦のことです。織田信長の安土城で最初に使用が始まったと考えられています。

三の丸(さんのまる)
二の丸を囲(かこ)むように構(かま)えたり、隣接(りんせつ)させたりした曲輪(くるわ)です。攻城戦(こうじょうせん)に際し、最前線に位置する曲輪で、戦闘(せんとう)の中心的な区画になるため、防御(ぼうぎょ)面も強固にしていました。また、三の丸には重臣が暮(く)らす屋敷(やしき)や、馬を飼育(しいく)する場所、城主のための厠(かわや)、蔵(くら)などが置かれたりしました。

※城下町(じょうかまち)
平山城や平城(ひらじろ)が多く築かれるようになると、城の周囲(しゅうい)に家臣たちの住居(じゅうきょ)である侍屋敷(さむらいやしき)や、商人や職人が住む町人地および社寺が置かれました。お城を中心に設(もう)けられた都市のことです。現在の大都市の大部分が城下町から発展した都市になります。

次回は「秀吉の城5(黄金の茶室)」です

▼【連載】理文先生のお城がっこう そのほかの記事

加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

関連書籍・商品など