2023/04/05
家康を支えた徳川家臣団の城 家康を支えた徳川家臣団の城 第1回 懸川城
NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が、三河国の領主から天下人へと駆け上がっていった陰には、優秀な家臣団の存在がありました。そんな家臣団にまつわるお城にスポットライトを当てる、小和田哲男先生の連載講座「家康を支えた徳川家臣団の城」がスタート! 第1回は、石川家成が城主を務め、家康の遠江支配の足掛かりとなった懸川城(掛川城。静岡県掛川市)です。今川氏の重臣・朝比奈氏が城主を務めていた時代から、戦いを経て家康の手に渡るまでの歴史を解説します。
家康が攻めあぐねた懸川城
懸川城は江戸時代以降掛川城と書かれるが、戦国時代までの表記は懸川城なので、ここでは懸川城とする。
戦国時代には戦国大名今川氏の重臣朝比奈氏が、泰熙(やすひろ)―泰能(やすよし)―泰朝(やすとも)と3代にわたって城主を務めていた。泰熙が懸川城に入ったのがいつなのかは明確でないが、連歌師宗長の『宗長手記』により、明応6年(1497)から文亀元年(1501)の間ではないかと考えられている。そこが懸川古城といわれる場所で、山内一豊の掛川城の東500mほどのところに位置していた。
なお、泰熙のときの永正9年(1512)以前に、懸川古城の西に新城の工事がはじめられていたことも『宗長手記』にみえる。この新城のところが山内一豊の近世掛川城になるので、懸川古城と掛川新城ということでかなり広大な城だったことがうかがわれる。『宗長手記』には、「外城のめぐり六・七百間」とあるので惣構(そうがまえ)のつくりになっていたことがわかる。
懸川古城の本丸。龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや。徳川家光の霊廟)が現存している
この広大な懸川城が戦いの舞台となった。永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康が手を結び、間に挟まった駿河・遠江への同時侵攻がはじまったからである。
信玄は甲斐・駿河の国境を越えて駿河へ、家康も三河・遠江国境を越えて遠江に攻め込んできた。今川氏真は駿府今川館を守ることができず、筆頭家老ともいうべき朝比奈泰朝を頼って懸川城に逃げてきたのである。このとき、懸川城に籠った兵は2000ほどといわれている。それを家康の兵およそ8000が攻めはじめた。徳川軍の懸川城包囲は12月22日からで、家康は簡単に落とせないとみて、付近に城攻めのための付城を築かせた。それが図に示した天王山砦・笠町砦・青田山砦・杉谷(すぎや)城などである。
懸川城を囲む家康方の砦
しかし、徳川軍の猛攻にもかかわらず、懸川城は容易に落ちず、家康は力攻めをあきらめ、講和交渉に切りかえている。徳川方の史料『松平記』によると、家康は、「信玄を駿河から追い出し、氏真を駿府にもどすから城を開けてほしい」といっていたことがわかる。結局、後詰のあてのない懸川城側もその和平を受けいれ、5月15日、氏真は城を出ている。
武田信玄との「境目の城」となる
氏真が懸川城を出た時点で戦国大名今川氏は滅亡した形となる。氏真は妻の実家北条氏を頼って小田原へ落ちていった。これによって駿河は武田信玄、遠江は徳川家康領となり、家康はそれまでの三河に加え遠江の2ヵ国の大名となったわけである。
懸川古城の本丸と二の丸の間に築かれた大堀切
家康が氏真との講和交渉で、「信玄を駿河から追い出し」云々といった密約は信玄側の知るところとなったようで、このあと家康と信玄の仲は険悪となり、信玄の軍勢が遠江に攻め込んでくるという事態となり、家康としても、いずれ信玄と戦うことになるかもしれないと考えるようになり、懸川城を「境目の城」として強化しはじめる。家康が、各地に散らばっている兵を懸川に集結させていたことが文書からもうかがわれる。
たとえば「西尾松平文書」(『静岡県史』資料編8)には次のようにある。
懸川番手の儀、兼日泉州へ申し候。御大義に候共、来る廿日ニ懸川迄移らるべく候。境目の事に候間、一剋も急がるべく候。恐々謹言
九月十六日(永禄十二年) 家康(朱印、印文福徳)
松平左近丞殿
文中「泉州」とあるのは松平和泉守親乗のことで、一族の松平左近丞真乗を懸川城の番手、すなわち在番衆として入城させていたことがわかる。「一剋(刻)も急がるべく候」とあるあたりに、緊迫した状況が伝わってくるし、家康自身、懸川城を「境目の城」として位置づけていたこともわかる。
岡崎城の石川家成が城主となる
そして、家康が懸川城の城主に指名したのが石川家成だった。
家成の父清兼は、家康誕生のとき、「蟇目(ひきめ)の役」という重要な役目を果たしたことで知られており、母の妙西尼(みょうさいに)は、家康の生母於大(おだい)の方の姉にあたるという、三河譜代家臣の中でも名門中の名門であった。家康が三河一国を平定したとき、「西三河の旗頭」とされ、「東三河の旗頭」の酒井忠次とで「両家老」といわれ、徳川家臣団のトップに位置づけられていた武将である。酒井忠次をそのまま三河国吉田城(愛知県豊橋市)の守りにつかせ、岡崎城(愛知県岡崎市)の守りについていた家成を懸川城に入れたのである。それに代わって岡崎城の守りについたのが家成の甥にあたる石川数正だった。
このあと、家康は、岡崎城では三河・遠江2ヵ国支配の拠点としては西に寄りすぎていると考え、遠江の引馬城を大きくして浜松城(静岡県浜松市)とし、そこを居城としたので、懸川城は浜松城の支城として位置づけられることになった。ただ、そのころの家成による支城領支配が具体的にどのように展開していたのかをうかがうことができる史料が少なく、よくわからない。次の石川家成書状(「正願寺文書」『静岡県史』資料編8)は、その少ない史料の一つである。
尊札過当の至、拝読せしめ候。懸河正願寺浮説の事、端和より御理わり候間、前々の如くまいらせ置き候。然る処に、遠路御使僧ならびに一端、御樽持参かしこみ入り候。猶、端和より仰せらるべく候条、早々申し入れ候。恐惶謹言
十月廿九日 家成(花押)
身延寺御報
家成が寺社支配に関与していたことを物語っており、支城領支配の一翼を担っていたことがうかがわれ、前述の松平真乗(さねのり)ら在番衆とは位置づけが違っていたものと思われる。
なお、元亀3年(1572)10月から12月にかけての信玄が浜松城の家康を攻めた三方ヶ原の戦いにおいて、武田軍が懸川城を攻めた形跡はない。
執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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