理文先生のお城がっこう 城歩き編 第52回 国宝天守に行こう①犬山城

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回からは、これまで解説してきた天守の構造について、全国に5つしかない国宝天守をもつ名城を1つずつピックアップして具体的に紹介します。第1弾は犬山城です。実際に訪れた時の観察ポイントを挙げますので、様々な工夫に注目しながら見ていきましょう。

ここまで、天守の構造(こうぞう)についていろいろと勉強をしてきましたので、実際(じっさい)に残っている天守を見ながら復習(ふくしゅう)していきましょう。最初は、国宝天守の中で最も小さい城の犬山城(愛知県犬山市)について見ていきたいと思います。

犬山城の後ろ側には、変化に富んだ流れを持ち、両岸から近づいてくるような谷間に挟(はさ)まれた地形も多い木曽(きそ)川が流れています。そのため、唐(とう)の時代の詩人・李白(りはく)の「早発白帝城(つとにはくていじょうをはっす)」の七言絶句(しちごんぜっく)の中に登場する景色になぞらえ、いつしか「白帝城(はくていじょう)」の別名で呼ばれるようになりました。小さな天守だけに、天守に相応(ふさわ)しい気高さや上品さを持たせる工夫があちこちに見られます。城の構造、デザインの特徴(とくちょう)などを中心に見ていきたいと思います。

犬山城、木曽川
大河・木曽川が城の背後を流れる姿は、まさに「白帝城」です

犬山城の歴史

天文6年(1537)、織田信長(おだのぶなが)の叔父(おじ)、織田信康(のぶやす)によって築(きず)かれたと言われています。中山道(なかせんどう)と木曽街道に通じ、木曽川を利用して様々な品物を交換(こうかん)し合うことや、政治(せいじ)、経済(けいざい)の大切な場所として、戦国時代を通じて重要点として注目されてきました。そのため、織田信清(のぶきよ)、池田恒興(つねおき)、織田信雄(のぶかつ)など次々と城主が変わり、本能寺の変後には8人も城主が入れ替わっています。

慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原合戦後には小笠原吉次(おがさわらよしつぐ)が、その後、平岩親吉(ひらいわちかよし)を経て、元和(げんな)3年(1617)尾張(おわり)徳川家の附家老(つけがろう)・成瀬正成(なるせまさなり)が3万石で犬山城を与(あた)えられ、以後幕末(ばくまつ)まで成瀬家が城主を務(つと)めることになります。慶応4年(1868)、明治政府は犬山を藩(はん)に格(かく)上げし、成瀬家は念願の大名に加わることを許(ゆる)されたのです。

明治4年(1871)廃藩置県(はいはんちけん)で愛知県の持ち物となり、宗門(しゅうもん)(やぐら)・屏風(びょうぶ)櫓・本丸多門櫓が売り渡(わた)されるなど、天守以外のほとんどの建物が取り壊(こわ)されました。明治24年(1891)、濃尾地震(のうびじしん)により天守は半分ほど壊れ、残されていた櫓等も倒(たお)れてつぶれてしまうという被害を受けました。愛知県は天守の修理(しゅうり)をあきらめ、壊してしまうことを決定します。

しかし、非常(ひじょう)に大切な歴史(れきし)を伝える文化財(ざい)が壊されることを惜(お)しんだ元の犬山藩の藩士(はんし)らが寄付金(きふきん)で修理に着手することとなりました。同28年(1895)、県は元の状態(じょうたい)に戻すことを条件(じょうけん)として、旧(きゅう)藩主の成瀬家に天守と城地を無償(むしょう)で与えることとし、成瀬家は個人(こじん)で修理を行うことになりました。以降、天守は成瀬家の個人所有物となっていましたが、平成16年(2004)に財団(ざいだん)法人犬山城白帝文庫(現(げん)公益(こうえき)財団法人)が設立され、個人の所有から財団の所有となり、現在(げんざい)に至(いた)っています。

濃尾地震による修理は、明治32年(1899)に完成。昭和2年(1927)成瀬子爵(ししゃく)の案内で天皇(てんのう)が天守へ登られ、同10年(1935)には「犬山城天守」として旧国宝(こくほう)に指定されました。戦後の混乱(こんらん)が収(おさ)まった昭和27年(1952)、新しい法律(ほうりつ)の下で再び国宝に指定されましたが、城は個人の所有のままでした。昭和36年(1961)より本格的な解体(かいたい)修理が実施(じっし)され、3年後に修理が完成。修理に併(あわ)せて東南と西北隅(すみ)付櫓(つけやぐら)が元の状態に戻(もど)され、天守は完全に元通りの建物になりました。同時に、成瀬家は城の管理権を市に譲(ゆず)り渡(わた)し、ここに長年の念願であった市が管理団体となったのです。

犬山城概略図
犬山城概略図
西に木曽川、東に郷瀬川を取り込(こ)み、断崖上の丘陵を利用し、南北に長く築かれています。主要部は、総石垣の姿でした。破線の松の丸とそれを囲む水堀は、すでに消滅しています

犬山城の構造と天守

後方に木曽川が流れる断崖(だんがい)上の丘陵(きゅうりょう)(標高約40m)を利用し、南北に長く築かれた城です。一番高い場所に本丸を置き、南に向かって杉(すぎ)の丸、樅(もみ)の丸、桐(きり)の丸、松の丸等が高低差のあるいくつかの段(だん)によって造(つく)られていました。

本丸の最も奥(おく)まった一番高い場所のほぼ真ん中に天守を置いて、搦手(からめて)口が天守の横から後方の木曽川へと続く「後堅固(うしろけんご)の城」の特徴を良く表しています。北側の後方に断崖、東に天然の郷瀬川(ごうせがわ)を取り入れ、西側に横堀(よこぼり)を掘って南に水堀を回すことで、主要部の防備(ぼうび)を強固にしました。城郭(じょうかく)部の南側に堀と土塁(どるい)で囲(かこ)みこんだ方形の区画を設(もう)け、武士(ぶし)が居住(きょじゅう)する武家地と商人・職人(しょくにん)・町人が住む町屋で構成(こうせい)された城下町が営(いとな)まれました。その後になると、城下町の西側の区画の外側にも、街道に沿(そ)って町屋が営まれるようになっていきます。

天守は三重四階で、高さ約18m、二重櫓の上に物見の役目を持つ望楼(ぼうろう)を載(の)せた典型的(てんけいてき)な初期望楼型天守(ぼうろうがたてんしゅ)であったため、現存最古の天守といわれてきました。しかし、昭和36年からの解体修理によって、美濃金山城(岐阜県可児市)から天守を解体して材料を流して、犬山城で組み立てたという移築(いちく)の言い伝えは打ち消されました。これによって、1・2階部分は慶長6年(1601)に新しく造られたことがほぼ確実(かくじつ)となったのです。望楼部は元和6年(1620)に付け足され、1・2階の大棟(おおむね)を下げて破風(はふ)の位置を変えることによって、最上階の廻縁(まわりえん)高欄(こうらん)を設け、今見る姿となったと言われています。

天守南面立面図
天守南面立面図(「国宝犬山城」ホームページより転載)

令和3年(2021)、犬山市教育委員会は、柱や梁(はり)に使用している木材の伐採(ばっさい)した年などから天守は天正年間の1585~90年ごろに造られ、現存する最古の天守であることが科学的に分かったと発表しました。天守内の樹皮(じゅひ)が残る1~2階のヒノキ柱1本が天正13年(1585)に、4階の床を支えるヒノキ梁が天正16年(1588)に、それぞれ伐採されたことが年輪年代法(樹木(じゅもく)の年輪パターンを分析(ぶんせき)することによって、年代を科学的に決定する方法です)で判明(はんめい)したのです。4階の床板なども天正13(1585)~16(1588)年に切り出された木材と推定(すいてい)されることが(わか)りました。こうしたことから天正13年(1585)以降(いこう)、短期間で1階から4階まで一気に建設されたとみられるといいます。

伐採年だけで天守の建築年代を確定することは出来ません。あくまで木材の伐採された年が判明しただけで、望楼部の在(あ)り方や華頭窓(かとうまど)など、建築学で判明している年代観にあてはめなくてはなりません。天守に使用された木材は、太くて長いだけに移築再利用(さいりよう)されることが当然でした。今後、詳(くわ)しい検証(けんしょう)が必要になると思われます。

天守の特徴

外観は、切妻(きりづま)造りの付櫓が付いていることと、望楼部と接続(せつぞく)する箇所(かしょ)に付けられた唐破風(からはふ)によって、華(はな)やかな印象(いんしょう)を受けます。さらに、最上階の華頭窓、廻縁と高欄によって、上品で格式のある建物となりました。窓は、初重と最上階に開き戸を採用、他は突上戸(つきあげど)と変化を持たせています。どんな窓が配置されているかも、気を付けて見ておきたいですね。

天守入口は、石垣(いしがき)を外に向けて開けた部分に両扉(とびら)形式の門を配置しています。扉を入った正面に8段の階段を設け、踊(おど)り場を兼(か)ねた地下1階へと登り、向きを90度変えて一階へと続いています。90度曲げることで、直接1階へ押し入ることを防ぐ工夫です。高低差があるため、1階へ上がるためにはこうした施設(しせつ)が必ず必要だったのです。入口の横に突出(とっしゅつ)して配置された付櫓は、入口に横矢(よこや)を掛(か)ける(側面から攻撃(こうげき)する)ための建築で、天守へ無理やり侵入(しんにゅう)させないことを目で見て解るようにした施設となっています。自分がいる場所が、いったいどこから狙(ねら)われているかを確認(かくにん)してみると、防御(ぼうぎょ)の工夫がよく解るはずです。

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天守入口。石垣に挟まれた部分に、両扉形式の門を配置しています。門を開けると、正面に階段が見えます。階段を上げてしまえば、周囲は石垣で、上へ上がることは出来ませんでした

犬山城、天守1階平面図
天守1階平面図(「国宝犬山城」ホームページより転載)

1階は、付櫓だけでなく、西北隅に突出した部屋がある変化に富んだ階です。この突出した部屋は「石落としの間」と呼(よ)ばれていますが、窓の位置等から死角をカバーし、鉄砲(てっぽう)等による攻撃をするために造ったと思われます。

1階の西南部に唯一(ゆいいつ)の畳敷(たたみじ)き(12畳(じょう)敷)である「上段の間」が残っています。床間(とこのま)・袋(ふくろ)・違い棚(ちがいだな)等も設けられた部屋ですが、最初からあったのではなく、幕末ごろに造られた部屋になります。現在は、ここのみ畳が敷かれていますが、武者(むしゃ)走り部分にも敷居(しきい)が残されています。おそらく、城が初めてられた時は、1階は階段のある南東隅を残し、他は全て畳敷きの部屋であったと思われます。東側の窓にも注目してください。1ヶ所だけ横格子(よこごうし)の窓が存在します。なぜ、ここ1ヶ所だけ横格子が採用されているかは不明です。

犬山城、天守
石落としの間(左)と付櫓(右)は、共に横矢を掛けるための施設です

犬山城、上段の間
1階の西南部の12畳敷の「上段の間」と、最上階の赤い絨毯が、幕末に至り再び城主が天守を利用しようとしたために付設されたことも考えなくてはならないのかもしれません

2階は、中央部が身舎(もや)、周囲は入側(いりがわ)(武者走り)となっています。武者走り部分の板の敷き方を1階と比(くら)べてみましょう。1階が廊下(ろうか)でなく部屋であったことが、板の敷き方から解るはずです。2階には「武具の間」「武具の段」と呼ばれる棚がめぐっています。ここが、武具置き場となっていたのでしょう。南側の窓もよく観察してみてください。外から自然の光を取り入れるため、格子が付けられていません。室内を明るくするために、様々な工夫が凝(こ)らされたのです。

犬山城、入側
1階の入側(左)と2階の入側(右)です。1階は敷居が設けられ、元は部屋であったことが解ります。2階には敷居は見られません

3階は屋根裏(うら)階ですが、破風内に突上窓(つきあげまど)を設け外から自然の光を取り入れています。破風を設けたことによって、階全体が明るさを増すこととなっています。千鳥破風(ちどりはふ)、唐破風共に、入込(いりこみ)の間(破風の間)が設けられているので、確認してみたいですね。

犬山城、破風の間
外から見た破風の間(左)と、内部から見た破風の間(右)。窓によって採光(さいこう)しており、室内が非常に明るくなることが解ります

最上階は、廻縁と高欄がめぐり、見渡すことのできる下のあたり一帯に木曽川が流れ、岐阜城(岐阜県)望むことも出来ます。廻縁は、外側に向かって斜(なな)めになっていますが、決して重さや古くなり性能(せいのう)が低下したためではありません。雨が降(ふ)った時に雨水が自然に屋根へ流れていくような工夫です。

縁側(えんがわ)への出入口の両脇(りょうわき)に華頭窓が配されていますが、よく見てください。壁(かべ)の上に貼(は)り付けられた飾(かざ)りで窓としての働きをしていないことが解ります。天守の格調を高くするためだけに貼り付けた実際には役に立たない窓なのです。内部に敷かれた赤い絨毯(じゅうたん)は、7代城主成瀬正壽(なるせまさなが)がオランダ商館長と親しかったことから、この頃敷かれたものと推定されています。今の絨毯は、「昭和の大修理」で絨毯敷が判明したため、復元(ふくげん)されたものです。これによって犬山城天守は、幕末に至(いた)っても城主が天守に登っていた可能性が出てきました。それは、非常に珍(めず)しいことと言わざるを得(え)ません。

犬山城、華頭窓、廻縁
華頭窓(左)は、壁に貼り付けただけで、窓としての機能はありません。廻縁(右)の板が外に向かって傾いているのが解ります。雨水対策になります

天守の主な見どころを紹介(しょうかい)しました。ぜひ、現地(げんち)に行ってその目で確認(かくにん)してみてください。

犬山城
昭和36年(1961)からの「昭和の大修理」の時に最上階(4階)の壁際に銅(どう)の鋲(びょう)の跡(あと)が見つかっており、さらに銅の鋲も何本か発見されたようです。その鋲には絨毯の繊維(せんい)が付着しており、鋲で絨毯を留(と)めていたと推定されたのです

今日ならったお城の用語(※は再掲)

後堅固の城(うしろけんごのしろ)
搦手側が海(湖)や大きな河川(かせん)に面していて、大手が平地に向かっている構造の城のことです。背後(はいご)の水を水運として利用するケースも見られます。

※望楼型天守(ぼうろうがたてんしゅ)
入母屋造(いりもやづくり)(四方に屋根がある建物です)の建物(一階または二階建て)の屋根の上に、上階(望楼部)(一階から三階建て)を載せた形式の天守です。下の階が不整形でも、望楼部(物見)を載せることができる古い形式の天守です。

※廻縁(まわりえん)
建物の周囲に廻(めぐ)らされた縁側のことです。建物の本体の周りに短い柱を立て並(なら)べ、それで縁側の板を支(ささ)えた物です。天守の最上階に用いられることが多い施設です。

※高欄(こうらん)
廻縁からの転落を防止するために手すりを付けますが、高級な造りの手すりであったため、高欄とか欄干(らんかん)と呼びました。

※付櫓(つけやぐら)
本来は天守に続く櫓のこと。天守と接続する例が多く見られますが、渡櫓(わたりやぐら)によって接続する例もあります。

※華頭窓(かとうまど)
鎌倉時代に、禅宗寺院(ぜんしゅうじいん)の建築とともに中国から伝来したもので、上枠(わく)を火炎(かえん)形(火灯曲線)または花形(花頭曲線)に造った特殊(とくしゅ)な窓のことです。

※開き戸(ひらきど)
蝶番(ちょうつがい)で止められた部分を軸(じく)に弧(こ)を描(えが)いて開閉(かいへい)する戸のことです。内開きと外開きの2種類が存在(そんざい)します。

※突上戸(つきあげど)
軽くて薄(うす)い板製(せい)の戸(板戸)を鴨居(かもい)に蝶番または壺金(つぼがね)で取り付け、閉(と)じる時は垂(た)れ下げ、開ける時は棒(ぼう)で跳(は)ね上げて、そのまま棒で突っ張(ぱ)って開けておく戸のことです。

※横矢掛(よこやがかり)
側面から攻撃するために、城を囲むラインを折れ曲げたり、凹凸(おうとつ)を設けたりした場所を呼びます。

身舎(もや)
主要な柱に囲まれた建物の中心部分となる部屋のことです。周りには、回廊(入側)が廻ることが多く見られます。

※入側(いりがわ)
縁側と座敷(ざしき)の間にある通路のことを指し、外部と内部をつなげるための空間です。 主に人が通るための廊下としての役割(やくわり)を果たしていました。 縁側と同じように扱(あつか)われますが、入側自体は、外ではなく室内にあたります。

※千鳥破風(ちどりはふ)
屋根の上に載せた三角形の出窓(でまど)で、装飾(そうしょく)や明るさを確保(かくほ)するために設けられたものです。屋根の上に置くだけで、どこにでも造ることができます。2つ並べたものを「比翼(ひよく)千鳥破風」と言います。

※唐破風(からはふ)
軒先(のきさき)の一部を丸く持ち上げて造った「軒(のき)唐破風」と、屋根自体を丸く造った「向(むかい)唐破風」とがあります。もとは神社建築に多く使用された装飾性の高い破風でした。

破風の間(はふのま)
千鳥破風や入母屋破風の内部に設けられた狭い空間(部屋)のことです。ほとんどが採光目的でしたが、狭間(さま)を設けた攻撃の場として使用することもありました。

次回は「国宝天守に行こう➁松本城です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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