2022/12/13
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第53回 国宝天守に行こう②松本城
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。前回からは、これまで解説してきた天守の構造について、全国に5つしかない国宝天守をもつ名城を1つずつピックアップして具体的に紹介していきます。第2弾は松本城です。松本城といえば複数の建物と連結した五重の大天守がトレードマークですが、どのような構造になっているのでしょうか? 各階の見学ポイントとともに見ていきましょう。
松本城(長野県松本市)と言えば、北アルプスの高い峰々(みねみね)を背景(はいけい)にした漆黒(しっこく)の天守群の姿(すがた)が有名です。松本の地は、美しい水が溢(あふ)れる信濃(しなの)の国府(こくふ)所在地(しょざいち)として発展(はってん)してきた街でした。城の東から南を清流である女鳥羽(めとば)川が横断(おうだん)し、南を薄(すすき)川が流れ、雪解(ど)け水が豊富(ほうふ)な湧(わ)き水となってそこかしこから湧き出しています。今回は、松本城天守を訪(たず)ねてみたいと思います。
城の歴史
戦国時代、信濃府中に勢力(せいりょく)を持つ小笠原(おがさわら)氏が松本平の東方山地に林城(松本市入山辺)を築(きず)き、現在(げんざい)の松本城の地にはその支城(しじょう)である深志(ふかし)城が築かれていました。天文19年(1550)、甲斐(かい)の武田信玄(たけだしんげん)が信濃府中へと攻(せ)め込(こ)み、小笠原氏を追い払(はら)うと、北信濃を自分たちの国とするための拠点(きょてん)として、作り替(か)えたといわれています。何本もの河川(かせん)の流れで造(つく)られた、重なるような扇状(せんじょう)地の地形をうまく利用して、水に囲(かこ)まれた城を築き上げました。
武田氏が滅ぶと、木曾義昌(きそよしまさ)、小笠原貞慶(さだよし)(この時、名が松本城へと改められました)が城主となりましたが、徳川家康が関東へと国替えになると、信濃の地は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の支配する所になってしまいます。天正18年(1590)、石川数正(かずまさ)・康長(やすなが)父子が松本城へと入城。直ちに、城の大がかりな作り替えが実施されました。2年後、数正は死去し、工事は嫡男(ちゃくなん)・康長へと引き継がれました。『信府統記(しんぷとうき)』によれば「天守を建てて、堀幅(ほりはば)を広くして、石垣(いしがき)を築いた(後略(りゃく))」とありますので、この時、石垣・天守を持つ近世城郭(じょうかく)が生まれたことになります。ところが、慶長18年(1613)、身分をわきまえない城を築いたとして石川氏は改易(かいえき)されたと書かれています。
寛永(かんえい)10年(1633)、結城秀康(ゆうきひでやす)の第三子で家康の孫にあたる松平直政(なおまさ)が城主になると、天守や城門の大規模(だいきぼ)な修理(しゅうり)が行われました。城主だったのはわずか5年でしたが、天守に辰巳付櫓(たつみつけやぐら)と月見櫓(つきみやぐら)を付け加えて、現在の天守の姿にしたのです。江戸時代の修理を経(へ)て「絶妙(ぜつみょう)(この上なく巧(たく)みで優(すぐ)れていることです)な均衡美(きんこうび)(互(たが)いにつり合いがとれた美しさのことです)」と高い評価(ひょうか)を受ける5基(き)で構成(こうせい)された天守群が完成を見たのです。
本丸側より見た天守群。当初は、天守に乾小天守が連結した天守でしたが、後に辰巳附櫓と月見櫓が増設され、今の天守群が完成しました
城の構造
城は、本丸を中心に置き、その西の端(はし)に天守、東南部に本丸の中心となる大切な入口になる黒門(正門)を、東北部に裏門(うらもん)を配置していました。内堀(うちぼり)を挟(はさ)んで本丸の東から西にかけて凹(おう)字形に巡(めぐ)る二の丸を構(かま)え、その東面にしっかりと守りを固めた太鼓門枡形(たいこもんますがた)が設(もう)けられました。
二の丸西側の北端と本丸埋門(うずみもん)の間には、水堀の中に建てられ、水堀を仕切るための足駄塀(あしだべい)があったことが絵図や古写真から解(わか)っています。足駄塀は、堀の中を自由に行き来できないようにするだけでなく、敵(てき)が攻め寄(よ)せて来た時には塀を倒(たお)して橋として利用できるようなしかけで、松本城の特徴(とくちょう)的な建物となっていました。さらに、二の丸と本丸の周囲(しゅうい)を外堀が取り囲み、その外側にはさらに広い三の丸が配置され、武士(ぶし)たちの住まいとなっていました。
三の丸も惣構(そうがまえ)となる水堀と土塁(どるい)によって囲まれ、馬出(うまだし)が東西に各1ヶ所、北に2ヶ所の合計で4ヶ所に設けられるという、非常(ひじょう)に強く守りを固めて、攻めにくくしていたのです。
本丸の中心となる大切な部分は、石垣を使用していますが、二の丸・三の丸は虎口(こぐち)等の大切な場所だけは石垣で固めていますが、その他は土造りとなっています。
『2022城下町絵図集』による城郭と城下町の復元図(松本城管理課提供)
国宝天守の特徴
松本城天守最大の特徴は、二の丸に立って天守を見た時、西側と南側からの姿がまったく違(ちが)って見えることでしょう。西側は、乾小天守(いぬいこてんしゅ)と渡櫓(わたりやぐら)で連結し、破風(はふ)も四重目に千鳥破風(ちどりはふ)がただ1つと、素朴(そぼく)で変化に乏(とぼ)しい姿をしています(角度によっては、唐破風(からはふ)が見えたりします)。
西側から見た天守は、大天守に乾小天守が渡櫓によって連結したシンプルな姿をしています。変化に乏しい姿ですが、古風な感じを漂(ただよ)わせています
ところが、南側には辰巳附櫓と月見櫓を後から追加して取り付けたため、破風も唐破風と千鳥破風の組み合わせとなり、少し角度が変わると様々に姿を変えてしまいます。中でも、寄棟造(よせむねづくり)で縁(えん)を持つ朱塗(しゅぬ)りの月見櫓によって、平和な時代の開放的な様子が目立ちます。素朴な西側との違いを比(くら)べておきましょう。
南西より見た天守群。辰巳附櫓と月見櫓が付設(ふせつ)したことで、派手(はで)で開けっ広げな印象(いんしょう)を持った姿に変化しました。辰巳附櫓上階の華頭窓と朱塗りの月見櫓の高欄が印象的です
辰巳附櫓と月見櫓は、寛永10年(1633)に入封(にゅうふう)した松平直政(家康の孫)が城主の時に取り付けた櫓です。二つの櫓を取り付けたことで、現在見られる大天守を含め5棟が重なる釣(つ)り合いの取れた姿が完成したのです。
華(はな)やかで美しい外観だけでなく、戦いに備(そな)えた設備(せつび)の多さもこの天守の大きな特徴です。大天守・乾小天守1階には、大小11もの石落(いしおと)しが設けられています。また、鉄砲(てっぽう)や弓を射(い)かける狭間(さま)も、大天守・乾小天守合わせて100個(こ)ほど取り付けられています。この戦いに備えた天守の姿が、戦国時代の影響(えいきょう)が残る文禄(ぶんろく)期(1592~96)の特徴の一つです。二の丸を西から南に歩き、堀越(ご)しに姿を変える天守群の美しさを確認(かくにん)してください。
出隅、入隅部分に「石落し」が設けられ、長方形の矢狭間、四角形の鉄砲狭間が規則的に配置されているのがよく解ります
天守は五重で大きな天守に分類されますが、地盤(じばん)の不安定な川が運んだ砂(すな)と小石の上に築かれているため、石垣は6mと低く、勾配(こうばい)(傾(かたむ)き方のことです)も緩(ゆる)やかです。天守は、松本城では後期望楼型(こうきぼうろうがた)だとしていますが、三浦正幸氏は層塔型(そうとうがた)だと指摘しています。一般的な層塔型なら五重五階となるべきなのに五重六階と重と階が一致していない特異な天守としています。これは、望楼型を無理やりに層塔型としたもので、一般的な層塔型天守とは、はっきりと区別すべき天守で、古い時期の層塔型というよりは望楼型の構造を残して層塔型の外観を実現した独自な形式と考えるのが良いだろうとしています。
天守は高さ約25m、1階平面は約17×15mの規模になります。最上階が大きく見えますが、これは、建設当初は廻縁(まわりえん)を廻(めぐ)らす予定だったのを、松本平の雪や気温を考え室内に取り込んだための現象(げんしょう)です。
天守入口は、渡櫓の下の地階に設けられています。渡櫓と乾小天守の階は共通していますが、大天守とはずれが見られます。従(したが)って、渡櫓の1階は、大天守からすると半地下に、2階は中2階ということになりますが、渡櫓から入るとこのずれに、なかなか気がつきません。
天守1階部分には、入側(いりがわ)(武者(むしゃ)走り)が設けられ窓(まど)側部分の自由な移動(いどう)を可能(かのう)にしています。この入側は、非常に特徴的で、一段(だん)低くなっています。そのため、天守を作り上げている礎石(そせき)や根太(ねだ)(床(ゆか)を張(は)るために必要となる木材です)の組み合わせ方などが確認出来ます。ぜひしゃがみこんで、内部を覗(のぞ)いて見てください。天守を支(ささ)える地下の構造(こうぞう)物の様子を見ることが出来ます。
天守1階部分の入側(武者走り)。中央部の平坦面より、一段低く入側を置くことで、窓側部分の自由な移動を可能にしています
2階~5階までは、いずれも敷居(しきい)(部屋を仕切るための建具です)が存在(そんざい)しない階で、当初から畳(たたみ)を敷(し)く部屋として利用するつもりが無かったことが解ります。3階は、屋根裏部屋のため室内は暗くなっています。南西の千鳥破風の木連格子から外光を取り入れることができるだけなので、室内はほの暗く感じられます。
東西に千鳥破風、南北に唐破風が取り付けられ、室内には破風の間(入込の間)があります。外の様子を見るとともに、外から自然の光を取り入れることも兼ねた工夫です
4階が有事の際(さい)の「御座所(ござしょ)」で、三間四方の座敷(ざしき)(畳を敷き詰めた部屋のことです)になったといわれていますが、畳を区切る施設(しせつ)は見られません。御簾(みす)(高級なすだれのことです)を吊(つ)り下げて区切っているだけになります。5階に上がると四方に破風の間があり、ここから自然の光を取り入れていた様子がよく解ります。5階から最上階へ上がる階段は、中央に踊(おど)り場を設けています。これは、真っすぐ登るとあまりに階段の傾きが急になるため、それを防(ふせ)ぐ工夫の一つです。踊り場があることで、階段の角度は緩やかになりますが、幅が狭(せま)いため、かなり窮屈(きゅうくつ)になっています。
「御座所」(左)は、御簾でのみ仕切られた部屋です。5階から最上段へ上がる階段(右)は、踊り場が2ヶ所あり、最後は直角に折れて上階へとつながっています
最上階に上ると、1階同様の入側が見られますが、これは廻縁を室内に取り込んだものです。当初は、廻縁と高欄(こうらん)を巡らす予定であったため、廻縁部をそのまま入側としたわけです。おそらく、冬の厳(きび)しい寒さと降雪(こうせつ)などもあって、室内に取り込んでしまったのでしょう。
最上階の入側。当初は、この入側を廻縁にする予定でしたが、松本平の気候を考えて、室内に取り込んだものです
1階から最上階まで登ることによって、どの階も柱が多く、土壁(つちかべ)が用いられていることに気付くと思います。柱の多さは、内部を部屋として使うことを考えないで、倉庫的な役割(やくわり)を想定していたためでしょう。
乾小天守も、天守と同時期の建築で、入母屋造で三重四階の建物です。1・2階が同じ寸法で、二重目に屋根裏階があり、その上に4階が載る構造です。中央部に位置する華頭窓(かとうまど)(松本城では「花頭窓」という字を使用しています)が櫓の格式を高めています。天守と乾小天守をつなげているのが渡櫓で、渡櫓も天守と同時期の2階建ての建物で、1階中央部の一段下に天守入口が設けられています。
辰巳附櫓は入母屋(いりもや)造で、二重二階、外観は乾小天守に準じていますが、石落しは付けられていません。月見櫓は内部1階、地下1階で東は寄棟造で、西側が辰巳附櫓に接続して行き来が出来るようになっています。三方に高欄をもつ廻縁がめぐっており、朱塗とすることで、華やかさを作り出しています。広がる景観の良さは、風流が目的であったことを如実(にょじつ)に物語っています。ここで、お茶を飲んだり、読書をしたりしたら、心が満たされること間違いなしです。この両櫓は、寛永10~15年(1633~38)までの間の増築だと解っています。
大天守に付設された辰巳附櫓と月見櫓。外観の窓や下見板張(したみいたば)りのデザインを統一(とういつ)し、さらに上階に乾小天守と同様な華頭窓を付けることで、まったく違和感(いわかん)のない外観になっています
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※枡形(ますがた)
門の内側や外側に、攻め寄せてくる敵が真っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗(こうらい)門、奥(おく)に櫓門が造られるようになります。
※埋門(うずみもん)
石垣や土塁を開いて造られたトンネル式の門。門の上は、土塀(どべい)となる場合が多い。単純(たんじゅん)な構造ですが、守りを固めやすいのが特徴です。
足駄塀(あしだべい)
内堀と外堀を区切る「目隠(かく)し」として、また両堀を遮断(しゃだん)し、船等による侵入(しんにゅう)を防ぐ目的もありました。敵が攻め寄せて来た時には塀を倒して浮き橋として使用するとも言われています。
※惣構(そうがまえ)
城だけでなく、城下町まで含めた全体を堀や土塁などで囲い込んだ内部、または一番外側に設けられた城を守るための施設のことです。「総構」と書くこともあります。
※丸馬出(まるうまだし)
外側のラインが半円形の曲線になる馬出のことです。石垣を円弧状(えんこじょう)に積むのは、非常に高い技術(ぎじゅつ)を必要とするため、ほとんどが土造りでした。
※千鳥破風(ちどりはふ)
屋根の上に載せた三角形の出窓で、装飾(そうしょく)や明るさを確保(かくほ)するために設けられたものです。屋根の上に置くだけで、どこにでも造ることができます。2つ並べたものを「比翼(ひよく)千鳥破風」と言います。
※唐破風(からはふ)
軒先の一部を丸く持ち上げて造った「軒(のき)唐破風」と、屋根自体を丸く造った「向(むかい)唐破風」とがあります。もとは寺社建築に多く使用された装飾性の高い破風でした。
寄棟造(よせむねづくり)
屋根の種類の一つで、4方向に傾斜(けいしゃ)する屋根面を持つものを言います。
※石落し(いしおとし)
天守や櫓、土塀などに設けられた防御(ぼうぎょ)施設です。建物の一部を石垣から張り出させ、その下部の穴から弓や鉄砲などで攻撃しました。巨大(きょだい)な狭間で、通常の狭間の死角になる真下への射撃が可能な施設でもあります。ここから石を落とすというのは、江戸時代の軍学によって拡散(かくさん)された考えです。
※狭間(さま)
城内から敵を攻撃するために、建物や塀、石垣に設けられた四角形や円形の小窓のことです。縦長(たてなが)は鉄砲・弓矢両用、四角・丸・三角は鉄砲用です。
※層塔型天守(そうとうがたてんしゅ)
1階から最上階まで、上の階を下の階より規則(きそく)的に小さくし、1階から順番に積み上げて造った天守のことです。関ヶ原合戦後に登場する新式の天守形式です。
※廻縁(まわりえん)
建物の周囲に廻らされた縁側のことです。建物の本体の周りに短い柱を立て並べ、それで縁側の板を支えた物です。天守の最上階に用いられることが多い施設です。
※入側(いりがわ)
縁側(えんがわ)と座敷(ざしき)の間にある通路のことを指し、外部と内部をつなげるための空間です。 主に人が通るための廊下(ろうか)としての役割を果たしていました。 縁側と同じように扱(あつか)われますが、入側自体は、外ではなく室内にあたります。
根太(ねだ)
床板を支える役目を持つ、床の構造材のことで、床板のすぐ下にある横材です。
※敷居(しきい)
建具(襖(ふすま)や障子(しょうじ)など)を立て込むために、溝(みぞ)を穿(うが)った下部に取り付ける水平材のことです。上部の鴨井(かもい)とセットになっていました。
※破風の間(はふのま)
千鳥破風や入母屋破風の内部に設けられた狭い空間(部屋)のことです。ほとんどが採光(さいこう)目的でしたが、狭間を設けた攻撃の場として使用することもありました。
※高欄(こうらん)
廻縁からの転落を防止(ぼうし)するために手すりを付けますが、高級な造りの手すりであったため、高欄とか欄干(らんかん)と呼びました。
※華頭窓(かとうまど)
鎌倉時代に、禅宗(ぜんしゅう)寺院の建築とともに中国から伝来したもので、上枠を火炎(かえん)形(火灯(かとう)曲線)または花形(花頭曲線)に造った特殊(とくしゅ)な窓のことです。
次回は「国宝天守に行こう➂彦根城」です。
▼【連載】理文先生のお城がっこう そのほかの記事
加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。