【続日本100名城・佐柿国吉城】織田信長の進撃を支えた「難攻不落」の城

約10年間も越前朝倉氏の攻撃に耐え抜き、「難攻不落の城」として讃えられた佐柿国吉城(国吉城)(福井県美浜町)。北陸への勢力拡大を目指す織田信長が拠点とし、信長に従う木下藤吉郎(豊臣秀吉)、徳川家康も入城した“三英傑が集った”城でもあります。実際に歩いてみると、中世の山城でありながら総石垣に姿を変え、江戸時代に役割を終えて破壊されてしまった変遷がよく分かります。




山麓の石垣が物語る「3つの時代」

若狭国吉城歴史資料館
若狭国吉城歴史資料館(佐柿町奉行所跡)の石垣は、佐柿国吉城の廃城後に築かれた

佐柿国吉城は、若狭国(現在の福井県西部)東端部に築かれ、越前国(現在の福井県東部)との国境を警備する「境目の城」に分類されます。越前国と丹後国(現在の京都府北部)を結ぶ「丹後街道」を押さえる要衝の地で、標高197.3mの城山を利用しました。あらかじめ山麓にある若狭国吉城歴史資料館(佐柿町奉行所跡)で佐柿国吉城の歴史や地理について予習しておくと、佐柿国吉城を一層楽しむことができます。

城主居館跡、石垣
城主居館跡最下段には、横長石を多用した木村期(豊臣時代)の石垣(写真右側)と、算木積みを用いた京極期(江戸時代初期)の張出石垣(写真左側)が見られる

若狭国吉城歴史資料館周辺では、3つの時代の石垣に注目です。まずは若狭国吉城歴史資料館の立つ区画の石垣です。寛永12年(1635)に佐柿国吉城の築石を再利用して新築されました。

続いては、若狭国吉城歴史資料館から登城口方面に向かって城主居館跡へ。横長石を主に使った豊臣政権下の時代の「城主居館最下段南面石垣」と、関ヶ原の戦い後に城主となった京極氏による「城主居館跡最下段南張出石垣」が残っています。

敷砂利
敷砂利(しきじゃり)と擬木で舗装された遊歩道

「木村期(豊臣時代)」、「京極期(江戸時代初期)」、「廃城後(江戸時代)」という3つの時期の石垣を堪能したところで、いよいよ本格的な登城に移ります。佐柿国吉城は、城山を詰城にしながら、山麓に居館を設けた典型的な「中世の城」。山麓で見られる3つの時代よりも、さらに古い石垣が山上で見られるのが醍醐味です。

約10年間も越前朝倉氏の攻撃に耐え抜く

伝二ノ丸跡の喰い違い虎口
伝二ノ丸跡の喰い違い虎口。曲輪中央部で南北の土塁が食い違っている

城主居館跡から本丸までの道のりは約600m。つづら折りの坂道を登り、300m付近で「伝二ノ丸跡」の案内表示が現れます。遊歩道から離れて伝二ノ丸跡に足を運んでみると、喰違虎口と、南面に残る高土塁に圧倒されます。佐柿国吉城は全体的に石垣造りが中心ですが、伝二ノ丸跡だけは土づくりの曲輪です。

本丸下の北堀切
本丸下の北堀切。高さ約1.8mの石垣が築かれており、上半分ほどが地面から露出している

遊歩道に戻りさらに約200m登ると、突き当りに幅約4mの「北堀切」が姿を現します。この堀切は両岸に石垣が築かれており、人の頭ほどの大きさの不定形石材を見ることができます。山麓にある3つの時代の石垣よりも古く、佐柿国吉城を築いた粟屋勝久(あわやかつひさ)が城主を務めた時期のものだと考えられています。

北堀切、石仏
北堀切に置かれている石仏。かつては石垣に使われたと考えられている

北堀切の西側には、段々に配された5つの曲輪から成る「連郭曲輪群」が広がります。連郭曲輪群からは、若狭湾や敦賀方面がはっきりと一望できます。北堀切の東側は山頂部分の本丸へと通じ、朝倉方の陣城であった「中山の付城跡」や「駆倉山の付城跡」を見渡せることから、越前朝倉氏を意識していたことがよく分かります。

織田信長が北陸への拠点にした「難攻不落の城」

連郭曲輪群、若狭湾、敦賀市
連郭曲輪群から望む若狭湾と敦賀市方面。北陸を目指した信長がたどった道のり

そもそも佐柿国吉城は、若狭国守護大名・武田氏の重臣であった粟屋勝久が、弘治2年(1556)に古城跡を改修して築城しました。佐柿国吉城が知れ渡るようになったきっかけは、越前朝倉氏との戦いでした。

永禄6年(1563)に始まり、織田信長によって越前朝倉氏が滅びるまでの約10年間、毎年のように越前朝倉氏は佐柿国吉城に攻め寄せました。後に「国吉籠城戦」とよばれる激しい戦いで、粟屋勝久軍は越前朝倉氏を撃退し続けます。この国吉籠城戦によって粟屋勝久の武名と、「難攻不落の城」としての佐柿国吉城の名が知れ渡ったのです。

本丸、小浜市
本丸南面から望む小浜市方面。国道27号線と並行するように旧丹後街道がのびる

越前朝倉氏と争っていたのは粟屋勝久だけではありませんでした。天下を目指す織田信長も対立を深めていたのです。元亀元年(1570)、越前朝倉氏を攻めるために京を出発した織田信長は、後の豊臣秀吉である木下藤吉郎や徳川家康を伴って佐柿国吉城へ入城します。この時、長年にわたって越前朝倉氏と争ってきた粟屋勝久の武勇を称賛したといわれています。

佐柿国吉城で軍議を重ねた織田信長軍は、越前国に侵入し天筒山城金ヶ崎城(ともに福井県敦賀市)の2城を瞬く間に攻略するものの、妹婿である浅井長政の裏切りにより、途中で撤退を余儀なくされます。しかし短期間に形勢を立て直し、同年の姉川の戦いで浅井・朝倉軍に勝利、越前朝倉氏を滅ぼしました。佐柿国吉城を安堵された粟屋勝久は、織田方の武将(若狭衆)として各地を転戦することになります。

豊臣政権下になって整備された城下町佐柿

鏡石
花崗岩の一枚岩を使った「鏡石」。本丸北西虎口に残り、豊臣政権下の木村期のものと考えられている

本能寺の変で織田信長が亡くなった後、天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉は勝利を収めます。秀吉から佐柿国吉城主に命じられたのが、家臣の木村定光(きむらさだみつ)でした。城山の西南麓の小集落だった佐柿(さがき)が城下町として整備されたのは、この頃です。

佐柿
古い町並みや関所跡、高札場跡などが残る佐柿。越前方面に旧丹後街道がのびている

慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いの後には、前哨戦の大津籠城戦で功績を挙げた京極高次(きょうごくたかつぐ)が若狭国主に命じられます。京極高次は町の入口に関所を設け、佐柿国吉城と城下町の整備を進めました。慶長9年(1604)の大火によって焼けてしまうものの、ただちに復興されます。

佐柿国吉城が廃城になった後、寛永11年(1634)に徳川譜代の酒井忠勝(さかいただかつ)が若狭国に入封すると、山麓に佐柿町奉行所が造られました。現在の佐柿国吉城の石垣では、山上でも山麓でも「上半分は破壊され、下半分は埋められて痕跡を消される」という統一した壊され方を見て取ることができます。酒井忠勝がまとめて壊したと考えられています。

旧丹後街道をたどれば信長気分が味わえる

JR小浜線美浜駅
JR小浜線美浜駅には美浜市観光協会が併設されている

佐柿国吉城への最寄り駅はJR小浜線「美浜」駅です。佐柿国吉城の登城口まで約2.5㎞、タクシーで約1200円、本数は限られますが、路線バスでもアクセスできます。

徒歩の場合は、国道27号線沿いを行くのが最短距離ですが、交通量が多く歩道幅が狭い箇所もありますので、国道27号線と並行する「旧丹後街道」を歩くのがおすすめです。佐柿国吉城に近づくにつれて、佐柿の町並みや、鉤(かぎ)状に折れた道が残っており、旧丹後街道の往時を偲べます。まさに織田信長が佐柿国吉城を目指したルートですので、信長になった気持ちでたどってみてはいかがでしょうか。

旧丹後街道
旧丹後街道から佐柿国吉城(写真奥の山)を望む。街道を押さえた要衝であることがよく分かる

佐柿国吉城のガイダンス施設である若狭国吉城歴史資料館は2019年に開館10周年を迎え、記念の特別限定御城印と御城印帳が8月11日(日・祝)から頒布されています。特別限定御城印と御城印帳は数量限定、一人1点限りご購入が可能ですので、この機会をお見逃しなく。

佐柿国吉城の限定御城印帳。
御城印帳は、黒金版(写真左)は8月11日(日・祝)から、白赤版(写真右)は9月1日(日)からの発売、限定100部だそう

佐柿国吉城御城印
左が通年販売されている御城印、右が特別限定御城印

▼御城印や資料館などについて、詳細はこちらの記事をチェック


住所:福井県三方郡美浜町佐柿
電話:0770-32-0050(若狭国吉城歴史資料館)
アクセス:JR小浜線美浜駅から徒歩約25分、または美浜駅から敦賀行きバス「佐柿口」下車で徒歩約5分
開館時間:9:00~17:00、12~3月は10:00~16:30 ※入館は閉館30分前まで
入館料:100円
休館日:月曜(月曜が休日の場合は翌日)、休日の翌日、12月29日~1月3日 ※臨時休館あり

執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。異業種とコラボした城を楽しむ体験プログラムを実施。旅行雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)などを編集。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています。
※城の名称については、「国吉城」、「若狭国吉城」の表記もありますが、記事中では続日本100名城における登録名称「佐柿国吉城」で統一しています。

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