都道府県のお城シリーズ 【徳島県のお城】 長宗我部元親や羽柴秀吉による四国統一に大きく関わっていた

徳島県内にある城跡の大半が、県全体の7割以上を占める山地に築かれた山城と、吉野川など大きな川沿いの平野部に築かれた居館との2つにわけることができます。戦国時代、元亀元年(1570)以降に土佐の長宗我部氏に侵攻されるまでの間、織田信長より早く上洛を果たして室町幕府の実権を握った三好長慶の一族が勝瑞を拠点に阿波国内を治めていました。近年、阿波の城郭についての調査・研究の進展により、その実態が明らかになりつつあります。日本100名城、続日本100名城を中心に徳島県内のお城を見ていきます。





勝瑞城館(しょうずいじょうかん・板野郡)

alt
公園として整備された勝瑞館跡。御殿風の東屋が建っています

吉野川北岸にあった勝瑞は守護所が置かれ、そこは河川が入り交じる中州の中に守護所と城下町が造られました。当時の阿波国守護は細川家でしたが、天文22年(1553)に三好長慶の一族の三好義賢(みよしよしかた)が細川持隆を殺害しました。以後、三好家が阿波での実権を握ります。

館跡は20年以上にわたって発掘調査が行われ、その全容が解明しつつあります。調査から戦国の動乱が続く中で徐々に拡張された結果、最大300m四方で区切られた館内には、いくつもの濠で区画されていることがわかりました。
さらに区画内では、趣が異なる2つの庭園が見つかりました。1つは、館東側にもある庭で中央に東西約40m×南北約30mの水が張った大きな池を中心とした池泉(ちせん)庭園です。一方で西側の区画では水がない池と傍に御殿風の会所跡が見つかりました。庭園は阿波特有の青石(緑泥片岩・りょくでいへんがん)を利用した枯山水式庭園であり、会所からは、南に池を挟んで借景にした眉山を眺めることができたようです。発掘調査では、会所跡から庭園にて執り行われた儀式などに使われたと考えられる素焼きの皿(土師器皿)が大量に見つかりました。

現在、館跡は公園として整備され、庭園の一部が復元され、御殿風の東屋が建てられています。また近くには、ガイダンス施設があり、20年以上にわたった館跡の発掘調査の成果をうかがい知ることができます。

一方で館跡の北側には、勝瑞城跡があります。この城は、館を守る最後の砦として築かれたと考えられます。周りには幅が13mもある水堀や一部に高さ2.5mもある土塁跡が残っています。この城跡の調査では断面を掘り下げ、大きな土塁がどのように築かれたのかがわかりました。
城跡には、三好家の菩提寺である見性寺(けんしょうじ)があり、三好家歴代当主の墓が並んでいます。さらに城跡には、城郭建築風のトイレと東屋があり、城の雰囲気を醸し出しています。

alt
勝瑞城跡に残る水堀跡(刑部さんご投稿写真)

一宮城(徳島市)

alt
一宮城跡本丸に残る石垣。近年の発掘調査で、阿波最大級の山城の実態が明らかになってきています

徳島市の西に位置する城跡は、標高144mもある山城です。背後に四国山地を控え、本丸跡から紀伊水道から勝瑞まで一望する事ができます。城の範囲は東西800m×南北400mも広がり、県下最大の山城です。

この城は元々、鎌倉時代守護だった小笠原氏の血を受け継ぐ一宮氏のものでした。天正3年(1575)に長宗我部元親が阿波を攻め始めた頃の当主は一宮成祐(いちのみやなりすけ)で、後に土佐方(元親方)に降伏しました。が、信長が四国を攻めると知った元親は、裏切りを恐れて夷山城(えびすやまじょう・徳島市)において成祐を殺害します。殺害現場の城跡近くには成祐の墓があります。その後、城には元親家臣の江村親俊と谷忠澄が入り、四国に攻め入る秀吉を待ち構えました。

今は城跡全体の遺構を見る事が難しいですが、麓から登ると土塁跡や曲輪跡があり、他の曲輪との間を利用した空堀跡を見ることできます。これらの殆どが、土佐方によって改修されたものと考えられます。天正13年(1585)の秀吉による四国平定の後、阿波を任された蜂須賀家政は入国当初、一宮城へ入ります。後に徳島城築城後、領国内に支城が整備され(阿波九城)、一宮城はその一つとして残り、元和元年(1615)以降に廃城になったと考えられます。
この時整備された本丸の石垣が現在も残り、また近年の発掘調査によって本丸に御殿風の建物や別の曲輪では城主のプライベート空間があったことなどが判ってきています。今後の調査の進展が楽しみです。

ちなみに城跡近くには、城主が普段生活をする居館がありました。現在居館があったと思われる場所に、御殿風の公民館が建てられています。

alt
城山と麓にある、居館跡。居館跡付近には御殿風の公民館が建っています

牛岐城(うしきじょう・阿南市)

alt
公園として整備された牛岐城跡。堀があった場所に城門風入り口があります

天正3年(1575)に土佐を統一した長宗我部元親は、南と西から阿波に攻め入りました。この南から攻めてきたルート沿いにあるのが牛岐城です。牛岐は那賀川河口近くにあり、勝瑞へ続く平野部の南の入り口にあたり、また川の上流から運ばれてきた物資が集まる要衝でした。こうして天正10年(1582)頃までには、牛岐周辺は土佐方と三好・織田の間において境目、つまりは最前線に置かれていたのです。

城主は新開実綱(道善)という三好方の武将でしたが、本能寺の変が起きる前後に土佐方(元親方)につきます。しかし元親は「加増する」と道善をそそのかし、丈六寺(徳島市)に呼び出し殺害しました。現在も寺には、その時についた血天井が残されています。
道善が殺害された後、牛岐城には土佐方の香宗我部親泰が入り城の守りを固めますが、親泰の軍勢はさらに北上します。城は小山に築かれ、当時は上から見ると瓢箪の形をしていました。

秀吉による四国平定の後、阿波には蜂須賀家政が入ります。そこで牛岐城は支城の一つとして整備されました。この時入ったのが家政とは「竹馬の友」であった細山主水(後に賀島と改称)です。この時、牛岐の名前が「富岡」に変わりました。

発掘調査で出てきた石垣は、この時に築かれたものです。現在、調査で出てきた石垣の一部が城山の中腹にできた牛岐城趾館に保存・展示されています。城は寛永15年(1638)に廃城になりました。その時石垣の一部が、近くを流れる桑野川の堰として利用されたと伝わります。

alt
牛岐城址の発掘調査で見つかった石垣

現在城跡があった山は近代以降削られ、道路により山が2つに分断されたため、往時の姿をとどめていません。山の中腹には東京帝国大学の地震観測所が置かれ、大正12年(1923)に関東大震災の揺れを観測するなど、地震研究にとって貴重なデータを得ることができました。また城跡は、現在「恋人の聖地」に認定されています。山頂へ続く道沿いのガードレールには、カップルが付けた南京錠がたくさん見られます。

徳島城(徳島市)

alt
鷲の門(平成元年(1989)復元)からみた徳島城跡

城跡がある城山は、大河・吉野川河口南側のデルタ地帯にあり、築城当時は川が複雑に入り組んでいたため水軍も迷ったという記録も残るような場所にありました。山は寺島川と助任川に挟まれていました。天正13年(1585)阿波に入国した蜂須賀家政によって、近くにあった2つのお城を1つにまとめて、徳島城が造られました。寺島川は現在JR徳島駅の構内になっており川はありません。

築城に際しては、秀吉の命により長宗我部氏や伊予の小早川隆景など周辺の大名・僧兵が動員され、わずか1年で殆ど完成したと伝えられます。その背景には、秀吉の意向や当時頻発していた山間部の土豪たちによる一揆の抑える目的と考えられます。そして徳島が誇る一大イベント、阿波踊りは徳島城の築城を祝って城下の人たちが踊ったのがはじまりとする説も。

山上からは徳島平野から紀伊水道を挟んで淡路島や和歌山を望むことできます。城の石垣には、青石がたくさん使われています。本丸の東南方向の角では、築城当初の石垣を一部見る事ができます。


alt
本丸東の角に残る石垣。築城初期の築造です

本丸には当初天守が建てられました。場所は曲輪の西の端、弓櫓があった場所と考えられます。ところが大坂の陣が終わった元和元年(1615)以降、城の守りの重点が国内から紀伊水道へ変ったため、建物は取り壊され一段下がった東二ノ丸に「御三階櫓」として再建されました。現在復元されている鷲の門がある外曲輪である三木曲輪は、「御三階櫓」再建と同時期に完成したと考えられます。また、領内の支城が廃止されたことで、周辺にあった寺院や武家屋敷が徳島に移転しました。こうして現在も残る城下町の基礎が完成しました。

alt
本丸北西隅にある、弓櫓台。築城当初、天守があった場所と考えられます

城山の麓には、藩主が住む御殿が建てられました。客将だった上田宗箇(うえだそうこ)が設計した枯山水式の庭園が残り、桃山文化の面影をとどめています。庭園のそばには徳島城博物館があり、江戸時代の徳島の様子がわかりやすく紹介されています。そして、近年の発掘調査では、三木曲輪で新たな石垣が見つかり、新たな徳島城の姿を知る進展が期待されます。

執筆・写真/井川 藍太郎(いかわ らんたろう)
四国出身九州在住の城郭ライター。本名で『歴史群像』戦国の城シリーズや各種雑誌で論文等を執筆。ブログ「藍太郎が行く!」(https://ameblo.jp/irantaro)。


関連書籍・商品など