現存12天守に登閣しよう 【弘前城】天守のお引っ越し

歴史研究家の小和田泰経先生が、現存12天守を一城ずつ解説! 桜の名所として知られる弘前城。実は現在、天守が引っ越して、天守台に天守が存在しないのをご存知ですか?



津軽平定の拠点、堀越城

弘前城、史跡、堀越城
弘前城とともに国の史跡に指定された堀越城

弘前城を築いた津軽為信は、もともとの名字を大浦氏といい、南部氏の一族でした。そのころ、南部氏は大仏ヶ鼻(石川)城主石川高信を津軽郡代とし、津軽地方を支配させていました。しかし、元亀2年(1571)、南部氏からの独立を図る為信が、羽州街道を押さえる要衝に位置する堀越城を拠点に大仏ヶ鼻城を攻略し、実質的に津軽を平定しました。

その後、天下人となった豊臣秀吉に服属することで、為信は秀吉から津軽 4 万 5000 石の所領を認める朱印状を与えられます。こうして、名実ともに津軽の支配者となった為信は、名字も津軽と改め、独立大名として飛躍していくことになりました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、為信自身は東軍徳川家康に従いますが、豊臣秀頼の小姓となっていた嫡男の信健は西軍石田三成に従っています。そうした経緯から、論功行賞ではわずか2000石を加増されるにとどまりましたが、それでも4万7000石の大名として生き残ることができました。

関ヶ原の戦い後の築城

弘前城、追手門
南に向いている現在の追手門

関ヶ原の戦い後、為信は居城を堀越城から、北西およそ6kmほどのところに位置する鷹岡(高岡)の地に移します。これが鷹岡城で、のち弘前城と呼ばれることになります。この弘前城は、東を流れる岩木川の河岸段丘の上に築かれました。そのため、岩木川に面した東側から集中的に攻められる恐れはありません。こうしたことから、弘前城では、北・西・南の三方に防備の重点をおいています。

弘前城は、桜で有名です。「日本さくら名所100選」に選ばれている城は多くありますが、最も有名なのは、なんといっても弘前城でしょう。ただ、弘前城に限らず、こうした桜は、明治維新後に植えられていたもので、江戸時代以前から存在していたものではありません。城は本来、最後に籠城するための拠点です。そのため、庭園などに観賞用の樹木が植えられることはあっても、それは例外といっていいでしょう。ほとんどは、防備に役立つ樹木が植えられていました。多くの城で植えられていたのは松です。生木でも燃える松は松明に用いられましたし、また、非常時の食料にもなりました。弘前城でも二の丸に松が群生しています。

天守とよばれる御三階櫓

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天守にみる津軽氏の家紋「津軽牡丹」

築城当初、弘前城には五重の天守が存在していました。しかし、寛永4年(1627)の落雷で惜しくも焼失してしまいます。避雷針のようなものが無かった時代、高層の天守に雷が落ちて火災になることは少なくありません。以後、弘前城では、本丸の南東にあった辰巳櫓を改築して「御三階櫓」としました。現在、「天守」とよばれているのがこの「御三階櫓」です。こぢんまりとしていますが、江戸城と同じ銅瓦で葺かれていました。

弘前城、天守、本丸
本丸の中心に移設された天守

本丸の石垣に崩落する危険がでてきたことから、現在、天守台石垣を含め、修復が行われています。その際、天守を解体することなく引っ張るという曳屋という方法で、70mほど離れた本丸の中心に移設されました。そのため、現在、天守台に天守は存在しません。石垣の修復が終わり次第、もとの天守台に再び移設されることになっています。

弘前城、石落とし
間近に見ることができる石落とし

ちなみに、弘前城の天守が曳屋されるのは、今回が初めてではありません。すでに明治時代から行われてきた修理の方法です。石垣の上に天守がないのは寂しいですが、ただ、天守を間近に見ることができる絶好の機会といえるのではないでしょうか。ぜひ、現地に足を運んでいただければと思います。


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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
  『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
  『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
  『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。

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