超入門! お城セミナー 第78回【構造】戦国大名の治水事業ー城を造るときに川の流れを変える!?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは城と河川の関係。周囲を海に囲まれ、流れの速い河川を多数有する日本では、古くから水と上手に付き合うことが大切でした。それは、築城においても同様。城や城下町造りの際に治水を怠れば、せっかく造った町が水びたし…なんてことも。戦国〜江戸時代の大名たちは川とどのように付き合っていたのか、武田信玄・徳川家康などの治水工事を例に築城と治水の関わりを紐解いてみましょう。

alt
群馬県の大水上山を水源とし、栃木県、埼玉県、東京都、千葉県、茨城県を流れる利根川。古くから暴れ川として知られ、為政者たちは治水に頭を悩ませていた

戦国大名たちも頭を悩ませた治水事業

国土の4分の3を山地が占める日本。豊富な山水は、川を流れて海まで至るわけですが、近年でも大きな洪水が甚大な被害をもたらしているように、我々日本人にとって、川とのお付き合いは人生を左右する大切なもの。今回は、戦国大名たちが城を築いて領地経営をしていくために、自然の脅威である川とどのように付き合ったのか? という点について見てみましょう。

大名たちの権力が地方の各領地で確立されていった戦国時代、安定した領地経営には、治水対策がとても重要な仕事でした。治水事業を行うことによって生まれるメリットは、領民を洪水から守り、耕作地を確保できること。また、城と城下町の地盤の確保、川や堀をめぐらせることによる防御機能のアップ、さらに、運河や船着場を城下や城に確保することによる効率的な物資運搬などが挙げられます。

このため大名たちは、川の水勢や水量を弱める工夫をしたり、川を付け替えて流路をコントロールするなど、その土地に合った様々な工夫を凝らして土木工事を行ったのです。土を切り盛りする治水の技術は、築城時の技術と共通点が多いので、築城名人=治水名人といってもいいかもしれませんね。

では、具体例を見てみましょう。戦国大名による治水事業で最もよく知られているのは、甲斐国(山梨県)の釜無川に武田信玄が築いたとされる「信玄堤」(竜王堤)でしょう。

alt
戦国きっての戦上手として知られる武田信玄は、治水の名手でもあった

「信玄堤」(竜王堤)は、古代から定住が困難なほどしょっちゅう洪水に見舞われ、水田地帯の少なかった甲府盆地に、武田信玄が約20年の歳月をかけて完成させた堤防です。単に頑丈な堤を築いただけではなく、釜無川に急流を送り込む御勅使川(みだいがわ)に大石を積んで勢いを弱めたり、御勅使川の中に堤を築き新たに川を掘り2本に分流。さらに2川の合流地点にいくつも大石を置いて水流をコントロールし、お互いに勢いを打ち消し合わせたり、その流れを崖に当ててさらに勢いを削ぐなどといった多くの工夫が凝らされています。また、丸太を組んで水流を弱める「聖牛」も、その技術が現役で活躍しています。

alt
甲州発祥といわれる治水技術の一つ・聖牛。水流を三角錐や四角錐に組んだ丸太を通過させることで勢いを弱める効果があり、現在も増水した釜無川の流れを弱める役割を担っている

そして釜無川にはドンと大きな堤防を据えるのではなく、小さな堤防を重なり合うように築き、ひどい大雨の時には水があふれることで決壊を防ぎ、被害を最小限に抑える工夫も。川の猛威にガチンコで挑むのではなく、威力を柔軟に利用しつつ治めるという、実に巧いやり方です。さらに施設の維持のため、管理する村人の税を免除。また堤の上を神社の参詣道にすることで参詣人やお神輿の行列が歩き、自然と堤が踏み固められるようにしたそうです。

江戸を水の都に改造した徳川家康

武田信玄の没後、この釜無川の治水事業を視察して大いに学んだのが、後の天下人・徳川家康です。新田開発が国家プロジェクトとなった江戸時代には、この武田の治水技術が「甲州流川除(かわよけ)法」として活用されそうですが、家康の治水事業として思い浮かぶのは、なんといっても江戸の築城と町造りです。

豊臣秀吉の天下だった時代、家康は小さな港町だった江戸に国替えとなります。湿地が多い厄介なこの土地に大きな城と城下町を築くべく取り組んだ最大のプロジェクトが、利根川東遷といわれる治水事業。江戸の町が水浸しになるのを防ぐため、江戸湊(東京湾)に注いでいた利根川を渡良瀬川に合流させ、茨城県の鹿島灘に注ぐように川の流れを大きく変えたのです。

alt
現在の群馬県から茨城・千葉県方面へ流れる利根川は、江戸時代に造られたもの

この他にも、飲み水確保のための上水の開削、日比谷入江埋め立てと堀の整備、道三堀延長と日本橋川の開削、平川の氾濫制御と江戸城北面の外堀となる神田川の延長、江戸城北西の平川上流と溜池をつないで堀とするなど…。こうした江戸城(東京都)の拡充と城下町づくりは、家康が天下人となり、二代将軍秀忠・三代家光の時代まで引き継がれ、家康の入封から40年以上後に江戸の町をまるごと堀で囲む、巨大な惣構が完成するに至りました。

江戸城,徳川家康,惣構
 皇居周辺の地形。画像右側の緑の部分が、埋め立てられた日比谷入江の跡。皇居以東は土地が低くなっており、かつては海だったことがわかる

豊臣秀吉や加藤清正も苦心した城下町の治水

また豊臣秀吉も、伏見城(京都府)を築いた時に伏見城下を水陸両用の物流拠点とすべく、宇治川と巨椋池(おぐらいけ)に巨大な堤を築いています。槇島堤と小倉堤といいますが、総称して「太閤堤」と呼ばれています。槇島堤はほぼ現在の宇治川左岸堤防に、小倉堤は大和街道になりました。

徳川譜代の重臣・井伊家の居城だった彦根城(滋賀県)も、屈曲して氾濫しやすかった芹川を琵琶湖に直進させ、堅固な堤防を築いて城の守りを兼ねさせるという大規模な川の付け替え工事によって整備された城。熊本に入封した加藤清正も、白川・坪井川・井芹川の入り乱れた流路を直線化するなどして外堀・内堀に流用。土地の拡大もはかり、さらに城下町の運河も整備しました。また、富山県富山市の常西用水の川底に見える石積みは、佐々成政(さっさなりまさ)の治水事業の跡で「佐々堤(さっさてい)」と呼ばれています。

alt
彦根城と城下の様子。画像下を流れる芹川はかつて市街を縦断して城の北にあった松原内湖(第二次世界大戦中に干拓)に注いでいたが、改修によって城下の南を守る堀の役割を担った

全国には、戦国大名たちが自領を守りの堅い豊かな土地にすべく、苦心した治水事業の跡がまだまだあるはず。城の周辺では、ぜひ川の流れや堤防にも注目してみて下さいね!


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。