【続日本100名城・三原城(広島)】2度のピンチから逃れた巨大天主台のあるキセキの海城

備後国(現在の広島県東部)に築かれた三原城! 山陽本線「三原駅」が城の中を通っているため、駅から徒歩0分でアクセスできる城です。見事なほどの巨大な天主台が、三原城のシンボル。実は、2度のピンチから逃れた奇跡の物語があったのです。さらには、町中に隠れている見学可能な当時の遺構もご紹介いたします!(※2019年6月26日初回公開)



陸と海、交通の要所を抑えた海城

紙本着色備後国三原城絵図、三原城
「紙本着色備後国三原城絵図」に描かれた三原城。船入櫓跡にあった看板を撮影したもの

永禄10年(1567)に、毛利元就の三男・小早川隆景によって築かれた三原城。瀬戸内海に面した地に島を繋いで築かれた、いわゆる「海城」です。水堀はもちろん海水が入り込んでいるため、潮の香りを感じながら散策できます! 満潮時には海に浮いたように見えたことから、別名「浮城」とも呼ばれていました。

山陽道を取り込んだ三原城は、水軍の海城として活躍した歴史もあることから、海・陸の要所である好立地に選地されたことがわかります。なお、現在のような近世城郭の姿になったのは、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に入封した福島正則期以降だと考えられています。東西約900m×南北約700mの巨大城郭! 当時、櫓の数は32、城門は14もあったそうです。

2度も破壊を免れたキセキの天主台

三原城、天守台、天主
 
実は、三原城の天主台はこれまで廃城・破壊の危機に直面しながらも、2度もピンチをくぐり抜けたキセキの城なのです。

一つ目のピンチは、慶長20年・元和元年(1615)に幕府によって定めらた「一国一城令」です。原則、一つの国(大名の領国・藩のこと)に一城のみというルールで、それに当てはめると、三原城のある広島藩は拠点となる広島城のみが残ることになります。しかし、三原城は広島城の支城として、壊されることなく残ったのです。これは、とても珍しいこと! それだけ、徳川家が三原の地を重要視していた証なのかもしれませんね。

ちなみに、元和5年(1619)に定められた「武家諸法度法」に違反し、幕府の許可なく広島城を改修した福島正則は、領土を没収されてしまいます。その後、三原城には浅野忠吉が入封し明治時代まで続きました。

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三原城、石垣
跨がる形で開業した三原駅の高架下には本丸の石垣が顔を覗かせている。ここも三原城の見どころだ!

二つ目のピンチは、明治時代になってから。明治27年(1894)に、山陽鉄道・三原駅が本丸に跨がる形で開業しました。城の迂回を検討するなど、三原城を残すための保存活動も行われたようですが、残念ながら一部を残して三原城は壊され、撤去された石は糸崎港建設の石材として転用し、海と接していた水堀も埋め立てられてしまいました。

 
三原城、石垣
石垣の上に三原駅が建っている

結果、三原城本丸を通過する最短ルートでの開業となりましたが、天主台が残ったのは、まさにキセキ! もう少し北にズレていたら、この天主台を今も見ることは叶わなかったかもしれません。

三原のシンボル!超巨大な天主台

三原城、天主台、天守
 天主台の大きさは、広島城の天守ならば6基分も入ってしまうほど巨大

三原城といえば、三原駅直結で行ける天主台がシンボル! 巨大な天主台を所有しているにも関わらず、天守が築かれることはありませんでした。高い位置にある三原駅の新幹線ホームからの視点で、石垣の積み方や、美しい勾配を見るのも面白いですよ。

 
三原城、隅石
左が北西部の隅石。右が北東部の隅石だ

天主台の石垣を観察していると、石垣の角の隅石の積み方が違うことに気がつきます。 北西部(写真、左)は長・短・長・短にはなっていません。一方で、北東部の隅石(写真、右)は、長・短・長・短…と組み合わさる算木積みです。

この隅石で見られるのは技術力の進化! 長短長短になっていない北西部は、小早川隆景の時代に築かれ、そして長短長短になっている北東部は、関ヶ原の戦い後に三原城に入った福島正則が築いたと考えられています。同じ天主台の石垣でも、異なる時代の石垣を観察できるなんて面白いですね。

三原駅
三原駅構内から直結している天主台の上もあがることができる

城と街道の位置がキーポイント!

三原城、列石
見つかった列石は遺構保護のため土を被せ、その上に復元展示を行っている

つい最近まで、天主台の対岸は住宅が建ち並んでおりましたが、景観を保存するために整備し、平成28年(2016)には歴史公園として整備が完了しました。

「紙本著色備後国三原城絵図」によると、往時は天主台に沿うように西面・北面に西国街道が走り、道に沿って武家屋敷が並んでいたようです。実際に、平成25年(2013)の発掘調査では幅12mの整地面が出土し、また、道の端からは武家屋敷の長屋門と考えられる列石も見つかっています。

ちょっと足を伸ばして、町に隠れた城跡を探そう

現在残っている三原城は、当時の1割程度。都市開発によってかつての姿は消えつつありますが、その1割を探して三原城の遺構を探しに町の中を散策してみましょう!

三原城、石垣、岩礁
石垣の下には城の基礎となった岩礁が見られる

船入を監視していた船入櫓跡。その南側は、城町公園となり石垣と遊具が共存する憩いの場所となりました! 櫓台の上の広場にも入ることができます。なお、櫓台上の広場の立ち入り可能時間は、8:00〜17:00までです。

三原城、中門跡
中門跡。現在は、ペアシティ三原西館が隣接している

こちらは、三原駅の南西方向に位置する中門跡。本丸と二之丸の境にあたります。石垣と水堀が残っているのでわかりやすいですね!

この中門から瀬戸内海方面に続く石垣を辿っていき、石垣が途切れる箇所にあたったら、そこが一番櫓のあった場所! 現在は埋め立てによってわかりませんが、当時は一番櫓より南は海でした。つまり、三原城の端にあたります。ちなみに、一番櫓付近の石垣は近代に積み直しされています。

和久原川、水刎
和久原川に築かれた水刎。川に張り出している石垣が特徴的だが、現在は水刎の上に家が建っている点も面白い

駅から線路沿いに東へ歩くこと徒歩10分の場所には、他の城ではあまり見かけない石工の技術が見られるスポットがあります。川の流れを邪魔するように川中に向けて張り出した三角形の石垣を、「水刎(みずはね)」といいます。川の流れを抑えるために設けられ、水の流れの方向が変わり、城の東側の曲輪を確保できたそうです。

住宅地に隠れた遺構探しの旅も面白いですね! シンボル天主台はもちろん、見どころを抑えて三原城散策へ出かけてみてください。

※三原城では「天守」ではなく「天主」と表記されているため、本記事内では「天主」の表記で統一しました。


三原城の基本情報
・住所:広島県三原市城町
・電話番号:0848-64-9234(三原市文化課文化財係)
・開館時間:天主台…6:30〜22:00 / 船入櫓跡…6:30〜18:00
・休館日:ー
・アクセス:山陽本線・三原駅より徒歩すぐ

いなもとかおり
 執筆/いなもと かおり
 お城マニア&観光ライター
 年間120城を巡る城マニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は600ほど。国内旅行業務取扱管理者、日本城郭検定1級、温泉ソムリエ、夜景鑑賞士2級の資格をもつ。城めぐりの楽しみ方を伝えるべく、テレビやラジオにも出演中。※2021年9月プロフィール更新

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