新資料発見!「小堀遠州書状」から「大坂幕府構想」に迫る

2019年、徳川家が大坂で幕府を開こうと構想していたことを示す書状が発見され、大きなニュースとなりました。大坂幕府構想とはいったいどのようなもので、果たして本当に構想されていたのか。大坂の歴史と書状の内容から、「大坂幕府構想」の真偽に迫ります。なお、「大阪」という表記は明治時代以降に正式となったものなので、今回の記事では江戸時代以前の大阪と大阪城を指す場合は「大坂」、「大坂城」の表記を使用しています。



alt
豊臣秀吉の居城として有名な大阪城だが、現在見られる遺構の多くは徳川家によって造られたものだ

「大坂幕府構想」を裏付ける書状発見!?

2019年1月16日、大阪城天守閣で、ある書状が一般公開された。これは小堀遠州が義父・藤堂高虎に宛てた書状で、寛永3年(1626)12月17日の日付が入っている。大坂夏の陣で豊臣家が滅びてから11年目のことである。

備中松山城主であった小堀遠州は当時、伏見奉行で京都におり、藤堂高虎は伊勢津藩主だが江戸にいた。書状には、天皇家に生まれた親王への祝儀を遠州が無事に進上したことを高虎に報告するとともに、大御所・徳川秀忠(当時の将軍は3代・家光)の上洛予定の確認と、遠州が造園を担当することになった大坂城内の茶庭に関する相談について書かれている。

alt
書状の差出人・小堀遠州(東京大学史料編纂所蔵・模写)。遠州は、古田織部に師事した茶人で、王朝文化を取り入れた「遠州流」を開いた人物でもある

この中で遠州は、高虎に対して大坂城の庭石を献上したほうがいいと勧めているのだが、その理由として「将来、大坂城が将軍の居城になるから」と書いているのである。大坂城が将軍の居城になるということは、江戸幕府ならぬ「大坂幕府」の構想があったとも読みとれる。

経済・政治の中心地だった大坂

大坂城は天正11年(1583)に豊臣秀吉によって築かれた平城だが、それ以前、その地には石山本願寺があった。寺とはいえ、諸勢力との抗争の過程で城砦化し、「摂津第一の名城」と呼ばれるほどだったが、織田信長との戦いで天正8年(1580)に焼失した。その地は大阪湾と京都を結ぶ海運の要衝の地であり、西国のおさえとしても戦略上重要な地であった。そのため信長も石山本願寺の跡地に城の建築を考えていたようだが、信長が本能寺の変で横死したため、大坂築城の話はいったん白紙に戻った。しかし、大坂の重要性を熟知していた秀吉が天下人になると、この地に安土城(滋賀県)をもしのぐ城郭を建築した。

alt
石山本願寺は、現在の大阪城二の丸にあったと推定されている。推定地には碑と看板が立つ

秀吉が築城した大坂城は大坂夏の陣で失われたが、徳川家も大坂を政治・経済の両面から重視しており、この地に城を再建した。その後、大坂は幕府直轄地となり幕末まで西国のおさえとして機能した。明治維新後には、大久保利通が大阪への遷都を建議しており、大阪は為政者にとって重要な地であり続けたといえる。

alt
大坂の陣後、徳川秀忠は秀吉時代の石垣や堀を埋め立て、倍以上の規模を持つ巨大城郭を築いた

このように重視されていた大坂に幕府機能を移転させるという構想があったとしても不思議ではなく、「大坂幕府構想」が実際にあったという説もある。

「大坂幕府構想」は本当にあったのか?

今回発見された遠州の書状を見てみると、「大坂ハゆく/\ハ御居城にも可被成所ニ御座候間」(大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべくところにござそうろう)とある。「大坂はゆくゆくは(将軍の)居城にもなるところ」という意味だ。また、遠州が大坂城の造園のために、病気をおして大坂と京都を往復しているとも書かれており、緊迫した状況も伝わる。遠州も高虎も幕府高官であり、大御所・秀忠とも口をきける立場にあったことからも、この書状が「大坂幕府構想」を裏付けるものとして注目されているのだ。

しかし、書状を見ると、幕府の機能を移転するという話は出てこない。書状が書かれた寛永3年(1626)は、7月から9月にかけて大御所・秀忠と将軍・家光が入京して参内し、このとき後水尾天皇も秀忠が入った二条城(京都府)に行幸している。秀忠は大坂を巡覧もしており、もし大坂幕府構想が存在したのならば、なんらかの形で史料に残っていてもおかしくはないだろう。また、大坂城は元和6年(1620)から修築工事が始められているが、幕府を移転するにしてはのんびりしすぎている。

alt
大坂城の再建を指示した徳川秀忠(東京大学史料編纂所蔵・模写)。彼は大坂で幕府を開こうと考えていたのだろうか…?

結果的に大坂城は西国における将軍の居城として再建されており、書状の「大坂ハゆく/\ハ御居城にも可被成所ニ御座候間」という文言は、大坂に幕府を移転するという意味ではなく、大坂城を西の重要拠点とすると考えたほうがよいのかもしれない。


執筆者/水野大樹
1973年、静岡県生まれ。青山学院大学卒業後、出版社勤務を経て歴史ライターとして独立。著書に『城手帳』(東京書籍)、『戦国時代前夜 応仁の乱がすごくよくわかる本』(実業之日本社)、『もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱』(徳間書店)、『室町時代人物事典』(新紀元社)などがある。

関連書籍・商品など