萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第18回 大和郡山城「逆さ地蔵」だけじゃない! 威信をかけた壮大な石垣の城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。第18回目の今回は、転用石がふんだんに使われた城として知られる壮大な石垣の城 、大和郡山城をご紹介します。

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大和郡山城の本丸東側。土木工事量もすさまじい

探さなくても見つかる、転用石の宝庫

大和郡山城は、転用石がふんだんに使われた城として知られます。「逆さ地蔵」のほか、伝・羅城門の礎石を始め、宝篋印塔や五輪塔、石仏などが石垣にこれでもかと散りばめられています。転用石は石垣の表面だけで約1000基に及び、お地蔵様も約200基が確認されています。

平成26年(2014)からの石垣解体修理でも、大量の転用石が出てきました。天守台の約13%というごくわずかな整備範囲内で、約600石を確認。通常は河原石などを詰めるはずの裏込にも、転用石が用いられていました。裏込から見つかった石仏は58基で、およそ1割。天守の礎石や天守の入口部分にも石塔が確認されました。

 転用石にはさまざまな意図がありますが、郡山城の場合は完全なる石材の補填が目的のようです。城がある西ノ京丘陵をはじめ、城の近隣はまったく石が採れない地層。郡山城の採石場は確認されていませんが、候補地はいずれも5〜10km圏内。かき集めたのは間違いなく、日用品が紛れていたことからも必死に集めたようすが伝わります。

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お地蔵様が石材として転用されている「逆さ地蔵」

豊臣政権の威信をかけ、高度な技術で築城か

ここまでして石垣がつくられたのは、豊臣政権において重要な城だからでしょう。石垣を築き現在の城の原型をつくったのは、天正13年(1585)に入った秀吉の実弟、豊臣秀長です。大和・紀伊・和泉、3国合わせて100万石を領した秀長の拠点ですから、豊臣政権の威信をかけた最先端の城が築かれたと思われます。大坂や京から近く、大坂を防衛する城でありながら、大坂城(大阪府大阪市)と共存するような政治的側面の強い城だったと考えられます。高い技術力がなければ実現できない、秀吉流の城を築くこと自体に大きな意味があったのかもしれません。

そんな歴史背景を踏まえて城を歩くと、実に手の込んだ城だと気づけるはずです。よく見ると、土木工事量もかなりのもの。たとえば本丸東・北側の石垣下のスペースも、自然地形と見せかけて盛土をした造成地です。本丸東側の堀もかなりダイナミックに掘り込まれ、秀吉が築いた伏見城(京都府京都市)を彷彿とさせます。もっとも圧倒されるのは、本丸下の石垣。関ヶ原合戦以前に、高さ10メートルに及ぶ石垣をこれだけ広範囲に積んでいたとは驚きです。しかも、北面は大規模な積み直しはしていませんから、かなり先駆的かつ高度な技術といえそうです。

発掘調査によって、天守の礎石や付櫓の地階などが発見され、幻といわれていた天守の実在も証明されました。天守台東側の付櫓の構造も判明しています。ただし、まだ不解明点も多くあるのが郡山城の実情。秀吉自身の城は残っておらず、家臣の城も類似例が僅少。郡山城は江戸時代を通じて廃城にならず譜代大名が歴史をつないだ城ですから、全国の秀吉政権の城の解明に一石を投じる重要な手がかりが眠っているかもしれません。

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かき集められたため、石材は種類が豊富で、色や質感もさまざま



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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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