お城の現場より〜発掘・復元最前線 第21回 【米子城】発掘された海に臨む天空の城

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第21回は、数段に渡って築き上げられた本丸の石垣が有名な米子城(鳥取県米子市)。2015~2017年に行われた、米子城の築城時の姿を探る発掘調査の成果を、米子市文化振興課の浜野浩美さんにレポートしていただきます今回の調査で、米子城絵図に描かれ、研究者によりその存在が指摘されていた「登り石垣」を確認。そのことが意味することとは?



米子城、本丸
米子城本丸からは美保湾に繋がる中海を一望できる

2015年〜2017年の発掘成果

米子城は、湊山頂上の天守(本丸)を中心に、北の内膳(ないぜん)丸、東の飯山(いいのやま)を出丸として、湊山ふもとに二の丸、三の丸を配し、城郭中枢部は中海から水を引き込んだ内堀をめぐらせて防御していた。

米子御城石垣補修願絵図、米子城
江戸時代に石垣修復のため作成された『米子御城石垣補修願絵図』。堀や建物の配置などが克明に記されている

米子城下町は内堀と外堀の間に武家屋敷、外堀の外側に町人区が配されたため、中海に通じる堀の水運を利用した商売がさかんとなる。城下町は伯耆の文化的、経済的中心として繁栄し、今に繋がる「商都米子」を形成していった。

米子城、本丸、石垣、天守台
上空から見た本丸。天守台などの石垣が良好な状態で残っている

米子市教育委員会では、史跡米子城跡保存整備事業の一環として、2015年度から、史跡内の内容確認調査を進めている。実は米子城跡の発掘調査については、今までに試掘調査含め58か所で実施されているが、そのほとんどが内堀と外堀の間の武家屋敷地を対象としたもので、城内は三の丸のごく一部と石垣補修時の調査のみであった。また、既存の米子城絵図は17世紀後半以降のもので、吉川期や中村期の米子城の姿については今まで謎に包まれていたのである。

近年の調査成果から、登り石垣の発見など、築城初期の米子城の姿が朧気ながら見えてきた。今回はその成果についてご紹介していきたい。

米子城、調査
2015年度の調査では、本丸南東及び南西側(深浦側)の2か所で築城初期の郭が確認された。

八幡台郭(はちまんたいくるわ):本丸南東側において野面積の石垣の郭が確認された。郭は本丸南東に張り出しており、築城初期に設けられた、水軍基地を有する御船手郭(深浦郭)防御のための郭と考えられる。

米子城、八幡台郭、石垣
八幡台郭で検出された石垣

郭の上面からは幕末頃の磁器碗破片や多量の瓦が出土している。この瓦には嘉永丑癸(嘉永6年[1853])の年号が刻まれているものが多数確認された。文献資料との照合から、この郭は築城初期の郭を幕末嘉永年間に四重櫓補修時の作業場として再利用した「八幡台」という郭であることが判明している。

米子城、嘉永癸丑、瓦、八幡台郭
八幡台郭から出土した「嘉永癸丑」と刻印された瓦

水手御門下郭(みずてごもんしたくるわ):天守南西側にて石垣がめぐる二段の郭を確認。郭の石垣は現況ではかなり崩れており、天端石などは失われていた。

この郭は元文4年(1739)の「米子御城明細図」(鳥取県立博物館蔵)に記載されているが、土塀などが失われていることから、築城初期の段階で放棄された郭であり、破城の可能性が推察される。
  
2016年度の調査では、既存の米子城絵図に描かれ、研究者により指摘されていた登り石垣が、内膳丸の御門から遠見櫓北東隅部にかけて確認された。登り石垣とは城域の遮断線として、また山麓と山上の城の一体化を図る目的で造られたもので、豊臣秀吉の朝鮮出兵時(文禄・慶長の役)に朝鮮半島南端に造られた倭城で盛んに用いられた技術だ。米子城の築城を開始した吉川広家は朝鮮に出兵、東莱城などを実際に築いており、朝鮮半島で得た最新技術を米子城にもちこんだものと考えられる。

米子城、石垣
登り石垣は、内膳丸から遠見櫓へ向かってのびていた

この登り石垣は、現況で約40mは遺存しているが、遠見櫓付近では本丸からの多量の崩落瓦に埋もれており、今回の調査では全貌を明らかにすることができなかったものの、さらに続き遠見櫓北東隅部の裾に繋がっているものと推測される。

発掘調査では、登り石垣に直交する4か所の試掘トレンチを設け、石垣の構造の解明を行った。地山面である基盤岩まで掘り下げて調査を行った結果、主郭のある湊山と内膳丸のある丸山を結ぶ尾根の稜線を利用し、西側(中海側)の岩盤をL字状に削平し、中海側にのみ築石を積んでいることが判明した。石垣の残存高は約2.5m、4段以上は横長に積んでいるが、天端石などは失われていることから、本来は6段以上すなわち3m程の高さはあったものと推定できる。

面上からは大量の瓦が出土していることから、石垣上には瓦葺きの土塀が構築されていた可能性が考えられる。ただし、一部の確認調査にとどまったため、築城初期に遡る瓦は出土していない。従って、絵図に描かれていない築城初期の段階から、登り石垣上の土塀に瓦が葺かれていたかどうかは不明と言わざるを得ない。

いずれにしても、今回の発掘調査の結果、全国的にも珍しい登り石垣が内膳丸から遠見櫓にかけて確認され、その構造が明らかになったこと、石垣が中海側の塁線のみの構築であったことは重要な成果である。同時に、発掘調査成果が近世絵図の記載と合致したことは、米子城絵図資料の信ぴょう性を裏付けることでもあり、今後の調査の一助となることは確実と考えられる。

2017年度には本丸から北東麓の二の丸枡形にかけてを調査し、竪堀を確認した。位置的に登り石垣と対になる防御ラインである。

この竪堀からは月山富田城と同じ文様の平瓦が出土した。この宝珠小槌文の軒平瓦は吉川広家期のものと考えられている。この瓦は宇喜多秀家期の備前岡山城で出土している瓦とも同じ文様であり、姻戚関係にあった吉川広家との強い結びつきを示す。また、このことから、米子城には吉川広家の段階で、湊山山頂に瓦葺建物が存在したことが推測できる。この平瓦は築城初期の米子城の姿を考える上で非常に重要な資料であるとともに、山陰、山陽の城をつなぐ遺物としても重要な意味を持つものだ。

宝珠小槌文、軒平瓦、米子城
出土した宝珠小槌文の軒平瓦

今後の調査予定を調べるには…?

2015年度から進めている確認調査の結果、米子城の縄張は山頂部の本丸を中心にして、北側の内膳丸、東側の飯山には采女(うねめ)丸の郭を配していたが、新たに本丸南西の水手門下郭、南東の八幡台郭が確認されたことにより、築城初期の段階では、特に中海側の防御を重視していたことがわかってきた。また、本丸北西側の遠見櫓から内膳丸にかけては登り石垣を設け、本丸北東側の番所郭から北東麓の二の丸枡形にかけては竪堀を設け、本丸からのびるこの2つの防衛ラインで、城主の御殿がある湊山北麓の二の丸を防御していることも確認された。さらに、登り石垣は内膳丸から水手御門下郭までつながる防御ライン、竪堀は麓の二の丸高石垣につながる防御ラインを築いている。

このように、米子城は海に張り出した湊山の地形を巧みに利用して、中海側に対して防御性の高い縄張を構築していたことが推察できる。

今年度も調査は進行中。今年はどんな発見があるのか、目が離せない米子城…のあれこれについて知るには、米子市HP「もっと知りたい!米子城」が一番。様々なコンテンツで、最新の米子城情報を随時更新中、現地説明会資料、シンポジウム資料などもダウンロードでき、現在米子市でおこなっている「米子城 魅せる!プロジェクト」についても随時掲載している。ぜひ「もっと知りたい!米子城」で検索していただきたい!

米子市、HP
米子市HP「もっと知りたい!米子城」。発掘現場見学会の予定やイベント情報を、いち早く入手できる


米子城(よなご・じょう/鳥取県米子市)
米子市の中心地、湊山(みなとやま)に築かれた米子城は山頂に五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)の大小二つの天守を持つ壮麗な城で、「山陰髄一の名城」と呼ばれていた。現在は、建物は失われているが、石垣などは往時の姿をよくとどめている。2006年に本丸、二の丸などが国史跡に指定された。本丸天守台から望む360度のパノラマはまさに「海に臨む天空の城」。空も山も海も町もすべてが一望できる絶景が広がる。

執筆者/浜野浩美(米子市文化振興課)

写真提供/米子市文化振興課

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